第105話 橘尚哉は知る。
検査結果を聞く日。
病院の待合室は、前に来た時と変わらない。
壁も。
天井も。
床も。
置かれている椅子も。
何も変わっていないはずなのに、六花には前より冷たく見えた。
隣には尚哉が座っている。
いつも通りの顔をしているつもりなのだと思う。
けれど、指先が落ち着きなく膝の上で動いていた。
「緊張してる?」
六花が聞く。
「してない」
「嘘」
「してない」
「してるよ」
尚哉は小さく息を吐いた。
「そっちこそ、ずっと顔が硬い」
「それは……」
「まだ何も言われてないだろ」
「うん」
六花は頷く。
その通りだった。
まだ何も言われていない。
だから大丈夫かもしれない。
ただの疲れかもしれない。
そう思おうとしているのに、胸の奥はずっとざわついていた。
◇
名前を呼ばれて、診察室へ入った。
中には医師がいた。
尚哉の両親も一緒だった。
六花は少し迷ったが、尚哉が小さく頷いたので、そのまま隣に座った。
医師は検査結果を見ながら、ゆっくりと話し始めた。
いくつかの数値。
脳や神経に関する説明。
聞き慣れない病名。
今後の検査。
治療の方針。
言葉は耳に入ってくる。
けれど、意味として追いつかない。
ただ。
いくつかの言葉だけが、はっきり残った。
進行性。
根本的な治療は難しい。
症状が悪化する可能性。
経過によっては、日常生活にも支障が出る。
そして。
命に関わる可能性。
その瞬間、六花は息をするのを忘れた。
隣を見る。
尚哉は何も言っていなかった。
さっきまで膝の上で動いていた指先も、止まっていた。
「……」
尚哉の顔から、表情が消えていた。
医師の説明は続いている。
両親が何か質問している。
難しい言葉が返ってくる。
六花はそれを聞いているはずなのに、ほとんど覚えていられなかった。
ただ、尚哉の横顔だけを見ていた。
◇
診察室を出たあと、誰もすぐには話さなかった。
廊下の端に置かれた椅子に、尚哉は座った。
両親は医師ともう少し話すために、奥へ呼ばれていた。
六花は隣に立っている。
何か言わなければと思う。
でも、何を言えばいいのか分からない。
大丈夫。
そんな言葉は言えなかった。
今の六花には、絶対に言えなかった。
「……なあ」
尚哉が口を開いた。
「うん」
「俺」
少しだけ間が空く。
尚哉は床を見ていた。
視線を上げないまま、ぽつりと言った。
「死ぬのかな」
六花は答えられなかった。
違うよ。
そんなことないよ。
絶対大丈夫だよ。
言いたい言葉はいくつも浮かんだ。
けれど、どれも嘘になる気がした。
だから何も言えなかった。
尚哉も、答えを求めていたわけではないのかもしれない。
ただ、その言葉を自分の口で確かめたかっただけなのかもしれない。
「……」
六花はそっと尚哉の隣に座った。
手を伸ばす。
でも、すぐには触れられなかった。
触れたら、何かが本当になってしまう気がした。
それでも。
震える指先で、尚哉の手に触れる。
尚哉は少しだけ反応した。
けれど何も言わなかった。
六花も何も言わない。
ただ、手を重ねた。
手のひらは冷たかった。
◇
病院を出る頃には、夕方になっていた。
空は薄い赤に染まっている。
少し前なら、その色を綺麗だと思えたかもしれない。
けれど今は、何も感じられなかった。
尚哉の両親が車を呼んでいる間、二人は病院の入口近くに立っていた。
「検査、またあるらしい」
尚哉が言う。
「うん」
「薬も出るって」
「うん」
「学校も、しばらくは普通に行っていいらしい」
「うん」
六花は頷く。
頷くことしかできなかった。
尚哉は少しだけ笑おうとした。
でも、うまく笑えていなかった。
「普通って、何だろうな」
その声が、六花の胸を刺した。
昨日までは、普通だった。
学校へ行くこと。
昼休みに話すこと。
一緒に帰ること。
来年の祭りの話をすること。
映画にまた行こうと言うこと。
また明日と別れること。
全部、普通だった。
それなのに。
今はどれも遠く見えた。
「尚哉くん」
六花は名前を呼んだ。
それ以上の言葉は出なかった。
尚哉は少しだけこちらを見る。
「六花」
「うん」
「悪い」
「謝らないで」
「でも」
「謝らないで」
六花はもう一度言った。
声が震えていた。
尚哉は黙った。
少しだけ困ったような顔をして、それから視線を落とす。
「……分かった」
小さな返事だった。
◇
車が来た。
尚哉は家族と一緒に帰ることになった。
六花は病院の前で見送る。
「また明日」
尚哉が言った。
いつもの言葉。
昨日も聞いた。
その前の日も聞いた。
でも今日は、同じ言葉に聞こえなかった。
「また明日」
六花も答える。
どうか。
本当に明日が来ますように。
そう願いながら。
車が走り出す。
尚哉の姿が遠ざかっていく。
六花はその場から動けなかった。
進行性。
治療は難しい。
命に関わる可能性。
医師の言葉が頭の中で何度も繰り返される。
未来は、欲しいと思う。
少し前に尚哉が言った言葉を思い出す。
その未来が。
突然、遠くへ行ってしまった気がした。




