↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
105/133

第105話 橘尚哉は知る。

 検査結果を聞く日。


 病院の待合室は、前に来た時と変わらない。


 壁も。


 天井も。


 床も。


 置かれている椅子も。


 何も変わっていないはずなのに、六花には前より冷たく見えた。


 隣には尚哉が座っている。


 いつも通りの顔をしているつもりなのだと思う。


 けれど、指先が落ち着きなく膝の上で動いていた。


「緊張してる?」


 六花が聞く。


「してない」


「嘘」


「してない」


「してるよ」


 尚哉は小さく息を吐いた。


「そっちこそ、ずっと顔が硬い」


「それは……」


「まだ何も言われてないだろ」


「うん」


 六花は頷く。


 その通りだった。


 まだ何も言われていない。


 だから大丈夫かもしれない。


 ただの疲れかもしれない。


 そう思おうとしているのに、胸の奥はずっとざわついていた。


     ◇


 名前を呼ばれて、診察室へ入った。


 中には医師がいた。


 尚哉の両親も一緒だった。


 六花は少し迷ったが、尚哉が小さく頷いたので、そのまま隣に座った。


 医師は検査結果を見ながら、ゆっくりと話し始めた。


 いくつかの数値。


 脳や神経に関する説明。


 聞き慣れない病名。


 今後の検査。


 治療の方針。


 言葉は耳に入ってくる。


 けれど、意味として追いつかない。


 ただ。


 いくつかの言葉だけが、はっきり残った。


 進行性。


 根本的な治療は難しい。


 症状が悪化する可能性。


 経過によっては、日常生活にも支障が出る。


 そして。


 命に関わる可能性。


 その瞬間、六花は息をするのを忘れた。


 隣を見る。


 尚哉は何も言っていなかった。


 さっきまで膝の上で動いていた指先も、止まっていた。


「……」


 尚哉の顔から、表情が消えていた。


 医師の説明は続いている。


 両親が何か質問している。


 難しい言葉が返ってくる。


 六花はそれを聞いているはずなのに、ほとんど覚えていられなかった。


 ただ、尚哉の横顔だけを見ていた。


     ◇


 診察室を出たあと、誰もすぐには話さなかった。


 廊下の端に置かれた椅子に、尚哉は座った。


 両親は医師ともう少し話すために、奥へ呼ばれていた。


 六花は隣に立っている。


 何か言わなければと思う。


 でも、何を言えばいいのか分からない。


 大丈夫。


 そんな言葉は言えなかった。


 今の六花には、絶対に言えなかった。


「……なあ」


 尚哉が口を開いた。


「うん」


「俺」


 少しだけ間が空く。


 尚哉は床を見ていた。


 視線を上げないまま、ぽつりと言った。


「死ぬのかな」


 六花は答えられなかった。


 違うよ。


 そんなことないよ。


 絶対大丈夫だよ。


 言いたい言葉はいくつも浮かんだ。


 けれど、どれも嘘になる気がした。


 だから何も言えなかった。


 尚哉も、答えを求めていたわけではないのかもしれない。


 ただ、その言葉を自分の口で確かめたかっただけなのかもしれない。


「……」


 六花はそっと尚哉の隣に座った。


 手を伸ばす。


 でも、すぐには触れられなかった。


 触れたら、何かが本当になってしまう気がした。


 それでも。


 震える指先で、尚哉の手に触れる。


 尚哉は少しだけ反応した。


 けれど何も言わなかった。


 六花も何も言わない。


 ただ、手を重ねた。


 手のひらは冷たかった。


     ◇


 病院を出る頃には、夕方になっていた。


 空は薄い赤に染まっている。


 少し前なら、その色を綺麗だと思えたかもしれない。


 けれど今は、何も感じられなかった。


 尚哉の両親が車を呼んでいる間、二人は病院の入口近くに立っていた。


「検査、またあるらしい」


 尚哉が言う。


「うん」


「薬も出るって」


「うん」


「学校も、しばらくは普通に行っていいらしい」


「うん」


 六花は頷く。


 頷くことしかできなかった。


 尚哉は少しだけ笑おうとした。


 でも、うまく笑えていなかった。


「普通って、何だろうな」


 その声が、六花の胸を刺した。


 昨日までは、普通だった。


 学校へ行くこと。


 昼休みに話すこと。


 一緒に帰ること。


 来年の祭りの話をすること。


 映画にまた行こうと言うこと。


 また明日と別れること。


 全部、普通だった。


 それなのに。


 今はどれも遠く見えた。


「尚哉くん」


 六花は名前を呼んだ。


 それ以上の言葉は出なかった。


 尚哉は少しだけこちらを見る。


「六花」


「うん」


「悪い」


「謝らないで」


「でも」


「謝らないで」


 六花はもう一度言った。


 声が震えていた。


 尚哉は黙った。


 少しだけ困ったような顔をして、それから視線を落とす。


「……分かった」


 小さな返事だった。


     ◇


 車が来た。


 尚哉は家族と一緒に帰ることになった。


 六花は病院の前で見送る。


「また明日」


 尚哉が言った。


 いつもの言葉。


 昨日も聞いた。


 その前の日も聞いた。


 でも今日は、同じ言葉に聞こえなかった。


「また明日」


 六花も答える。


 どうか。


 本当に明日が来ますように。


 そう願いながら。


 車が走り出す。


 尚哉の姿が遠ざかっていく。


 六花はその場から動けなかった。


 進行性。


 治療は難しい。


 命に関わる可能性。


 医師の言葉が頭の中で何度も繰り返される。


 未来は、欲しいと思う。


 少し前に尚哉が言った言葉を思い出す。


 その未来が。


 突然、遠くへ行ってしまった気がした。


 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。