第103話 橘尚哉は大丈夫だと言う。
診察室の扉が開いた。
六花は反射的に顔を上げる。
看護師が出てきて、廊下の奥へ向かって声を掛ける。
しばらくして、尚哉の両親らしき男女が慌ただしくやって来た。
六花は立ち上がった。
けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
自分は家族ではない。
彼女だった。
少しして、看護師が六花たちの方を見る。
「お友達の方ですか?」
「あ、はい」
六花は慌てて頷いた。
「橘さん、意識は戻っています。少しならお話しできますよ」
その言葉を聞いた瞬間、六花の膝から力が抜けそうになった。
小春が隣で小さく息を吐く。
灰原も肩を落とした。
「よかった……」
六花はそう呟いた。
本当に、そう思った。
それでも胸の奥に残った不安は、消えてくれなかった。
◇
病室へ入ると、尚哉はベッドの上にいた。
白いシーツ。
白い枕。
腕には点滴。
制服姿のままではなく、病院の寝間着に着替えさせられていた。
その姿を見た瞬間、六花の息が止まる。
さっきまで教室にいた人が。
いつもの帰り道を歩いていた人が。
今は病院のベッドにいる。
それがどうしても現実味を持たなかった。
「あ、六花」
尚哉がこちらを見る。
声はいつもより少し弱かった。
でも。
ちゃんと尚哉の声だった。
「尚哉くん……」
「そんな顔するなよ」
「だって」
「大丈夫だろ」
尚哉は少しだけ笑った。
いつものように。
何でもないことみたいに。
「ちょっと倒れただけだし」
「ちょっとじゃないよ」
六花は思わず言った。
声が震えた。
「本当に、本当に怖かったんだから」
尚哉は黙った。
六花も黙る。
小春も灰原も、何も言わなかった。
病室の中だけが、少し静かになる。
「悪かった」
やがて尚哉が言った。
「心配かけた」
「謝らなくていい」
「でも心配しただろ」
「したよ」
六花は即答した。
「すごくした、めちゃくちゃした」
尚哉は少し困ったように視線を逸らした。
「……なら、悪かった」
「だから謝らなくていいんだってば」
六花は少しだけ笑いそうになった。
笑える状況ではない。
それでも。
尚哉が目を覚ましている。
声が聞ける。
会話ができる。
そのことだけで、少し救われていた。
◇
医師の話は、まだはっきりしなかった。
一時的な失神かもしれない。
疲れかもしれない。
ただ、念のために検査をした方がいい。
精密検査。
再検査。
経過観察。
聞き慣れない言葉ばかりが並んでいた。
病名は出なかった。
深刻な話も、まだなかった。
けれど。
何も分からないということが、六花には一番怖かった。
尚哉は違った。
「なんか大袈裟だな」
病室を出た後、尚哉はそう言った。
検査のためにしばらく病院へ通うことになったらしい。
でも本人は、まるで面倒な宿題を出されたくらいの顔をしていた。
「大袈裟じゃないよ」
六花が言う。
「急に倒れたんだよ?」
「いや、まあ分かってるけど」
「本当に?」
「本当に」
尚哉は少しだけ肩をすくめる。
「でも意識も戻ったし、普通に話せてる」
「それはそうだけど」
「なら大丈夫だろ」
また。
その言葉だった。
大丈夫。
昨日までなら、六花もその言葉を信じられたかもしれない。
尚哉が言うなら大丈夫だと。
そう思えたかもしれない。
けれど今は違った。
倒れた瞬間の姿が、頭から離れない。
焦点の合っていなかった目。
掴めなかった手すり。
崩れ落ちる体。
校舎に響いた、自分の声。
全部がまだ胸に残っている。
「……大丈夫って」
六花は小さく言う。
「そんな簡単に言わないで」
尚哉が黙る。
言ってから、六花は少し後悔した。
責めたかったわけじゃない。
でも怖かった。
ただ怖かった。
「ごめん」
六花はすぐに言った。
「私、ちょっと変だね」
「変じゃないだろ」
尚哉は短く答えた。
それから少しだけ考える。
「でも」
「うん」
「俺は本当に、大丈夫だと思ってる」
六花は顔を上げる。
尚哉はいつも通りだった。
少し無愛想で。
少し眠そうで。
それでも、ちゃんとそこにいる。
「だから」
尚哉は続ける。
「そんな顔するな」
六花は何も言えなかった。
そんな顔。
自分が今どんな顔をしているのか分からない。
泣きそうなのか。
怒っているのか。
安心したいのか。
全部分からなかった。
◇
病院を出る頃には、空が暗くなり始めていた。
尚哉は念のため、そのまま家族と帰ることになった。
小春と灰原も、今日はそれぞれ帰ることになった。
病院の前で、六花は尚哉を見た。
「本当に大丈夫?」
「またそれか」
「またそれだよ」
尚哉は少しだけ笑った。
「大丈夫だって」
「……うん」
六花は頷いた。
頷くしかなかった。
「心配かけたな、じゃあまた明日」
尚哉が言う。
いつも通りの言葉だった。
昨日までなら、それだけで安心できた。
明日も会える。
そう思えた。
けれど今は。
「また明日」
六花も返す。
ちゃんと言えた。
けれど、尚哉が家族と一緒に車へ向かう後ろ姿を見送りながら、胸の奥に小さな不安が残った。
本当に、また明日が来るのかな。
そんなことを考えてしまった自分が少し嫌になる。
自分の中の尚哉の存在の大きさを、六花は痛いほど感じていた。
橘尚哉は大丈夫だと言う。




