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101/132

第101話 橘尚哉は笑っている。

 夏祭りが終わってから数日。


 季節は少しずつ秋へ向かっていた。


 けれど、まだ暑い。


 教室の窓から入る風も生ぬるかった。


 昼休み。


 六花は頬杖をつきながら、何となく尚哉を見ていた。


 尚哉は眠そうだった。


 授業中からずっと眠そうだった。


 今も机へ突っ伏している。


「橘くん」


 呼んでみる。


「……ん」


 返事はした。


 でも顔は上げない。


「寝てる?」


「起きてる」


「寝てる人みたいな返事だったよ」


「そうか」


「そうだよ」


 六花は少し笑った。


 尚哉は相変わらずだった。


 少し無愛想で。


 少し面倒くさそうで。


 でも優しい。


 そんなところが大好き。


     ◇


「六花ちゃん…顔やばい」


 突然、小春が言った。


「え?」


「今すごい顔してた」


「どんな顔?」


「好きな人見てる顔」


 六花は固まった。


 灰原が吹き出す。


「ほんと分かりやすいな」


「違うよ!」


「違わないでしょ」


「違うもん!」


 小春はニヤニヤしている。


 尚哉は面倒そうな顔をした。


「うるさいなぁ」


「あ、本人いた」


「本人いる前で言わないでよ!」


 六花は顔を真っ赤にする。


 小春と灰原は笑っていた。


 尚哉は呆れていた。


 いつもの昼休みだった。


     ◇


 放課後。


 ホームルームが終わる。


 生徒たちが一斉に立ち上がる。


 鞄を持つ音。


 椅子を引く音。


 話し声。


 そんな中で六花は自然と尚哉の方を見る。


 目が合った。


「帰るか」


 尚哉が言う。


「うん」


 それだけで少し嬉しい。


 最近の六花は、そういうことで簡単に機嫌が良くなった。


     ◇


 二人は校舎を出る。


 夕方の風が吹いていた。


「そういえば」


 六花が言う。


「ん?」


「もうすぐ秋だね」


「そうだな」


「今年もあっという間だった」


「まだ終わってないだろ」


「そうだけど」


 六花は少し笑う。


 去年の今頃は、まだこんな風になっているなんて思わなかった。


 一緒に帰ることも。


 名前で呼び合うことも。


 手を繋ぐことも。


 好きになることも。


 全部。


 想像していなかった。


     ◇


「冬になったらさ」


 六花が言う。


「マフラー買わないと」


「まだ暑いだろ」


「毎年そう言ってると急に寒くなるんだよ」


「確かに」


「去年もそうだったし」


「まあな」


 他愛のない話だった。


 何でもない会話だった。


 でも六花は好きだった。


 こういう時間が。


 こういう日常が。


     ◇


 昇降口へ向かう。


 人も少なくなっていた。


 尚哉は何か思い出したように言う。


「そういや」


「うん?」


「この前の猫」


「猫?」


「祭りの射的」


「ああ」


 六花は思い出して笑う。


「まだ持ってるの?」


「うん」


「可愛かったよね」


「そうか?」


「うん」


 尚哉は少し考える。


「じゃあ今度やる」


「何を?」


「また取る」


 六花は少しだけ目を丸くした。


「今度って」


「祭りとか」


「来年?」


「たぶん」


 尚哉は何でもない顔で言う。


 六花は少しだけ笑った。


 来年。


 その言葉が自然だった。


 当たり前みたいだった。


 それが嬉しかった。


     ◇


 二人は階段を降りる。


 六花はまだ少し笑っていた。


 来年の話。


 冬の話。


 何でもない未来の話。


 そういうものが幸せだった。


     ◇


 だから。


 最初は気付かなかった。


     ◇


 尚哉の足が止まったことに。


     ◇


「尚哉くん?」


     ◇


 返事がない。


     ◇


 顔を上げる。


     ◇


 尚哉の表情がおかしかった。


     ◇


 焦点が合っていない。


     ◇


「え……?」


     ◇


 尚哉がふらつく。


     ◇


 手すりへ手を伸ばす。


     ◇


 掴めない。


     ◇


「尚哉くん!」


     ◇


 次の瞬間。


     ◇


 尚哉の体が崩れ落ちる。


     ◇


 その瞬間、世界から全てのノイズが消えた気がした。


     ◇


「尚哉くん!!」


     ◇


 六花の叫びだけが、校舎へ響いていた。


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