第101話 橘尚哉は笑っている。
夏祭りが終わってから数日。
季節は少しずつ秋へ向かっていた。
けれど、まだ暑い。
教室の窓から入る風も生ぬるかった。
昼休み。
六花は頬杖をつきながら、何となく尚哉を見ていた。
尚哉は眠そうだった。
授業中からずっと眠そうだった。
今も机へ突っ伏している。
「橘くん」
呼んでみる。
「……ん」
返事はした。
でも顔は上げない。
「寝てる?」
「起きてる」
「寝てる人みたいな返事だったよ」
「そうか」
「そうだよ」
六花は少し笑った。
尚哉は相変わらずだった。
少し無愛想で。
少し面倒くさそうで。
でも優しい。
そんなところが大好き。
◇
「六花ちゃん…顔やばい」
突然、小春が言った。
「え?」
「今すごい顔してた」
「どんな顔?」
「好きな人見てる顔」
六花は固まった。
灰原が吹き出す。
「ほんと分かりやすいな」
「違うよ!」
「違わないでしょ」
「違うもん!」
小春はニヤニヤしている。
尚哉は面倒そうな顔をした。
「うるさいなぁ」
「あ、本人いた」
「本人いる前で言わないでよ!」
六花は顔を真っ赤にする。
小春と灰原は笑っていた。
尚哉は呆れていた。
いつもの昼休みだった。
◇
放課後。
ホームルームが終わる。
生徒たちが一斉に立ち上がる。
鞄を持つ音。
椅子を引く音。
話し声。
そんな中で六花は自然と尚哉の方を見る。
目が合った。
「帰るか」
尚哉が言う。
「うん」
それだけで少し嬉しい。
最近の六花は、そういうことで簡単に機嫌が良くなった。
◇
二人は校舎を出る。
夕方の風が吹いていた。
「そういえば」
六花が言う。
「ん?」
「もうすぐ秋だね」
「そうだな」
「今年もあっという間だった」
「まだ終わってないだろ」
「そうだけど」
六花は少し笑う。
去年の今頃は、まだこんな風になっているなんて思わなかった。
一緒に帰ることも。
名前で呼び合うことも。
手を繋ぐことも。
好きになることも。
全部。
想像していなかった。
◇
「冬になったらさ」
六花が言う。
「マフラー買わないと」
「まだ暑いだろ」
「毎年そう言ってると急に寒くなるんだよ」
「確かに」
「去年もそうだったし」
「まあな」
他愛のない話だった。
何でもない会話だった。
でも六花は好きだった。
こういう時間が。
こういう日常が。
◇
昇降口へ向かう。
人も少なくなっていた。
尚哉は何か思い出したように言う。
「そういや」
「うん?」
「この前の猫」
「猫?」
「祭りの射的」
「ああ」
六花は思い出して笑う。
「まだ持ってるの?」
「うん」
「可愛かったよね」
「そうか?」
「うん」
尚哉は少し考える。
「じゃあ今度やる」
「何を?」
「また取る」
六花は少しだけ目を丸くした。
「今度って」
「祭りとか」
「来年?」
「たぶん」
尚哉は何でもない顔で言う。
六花は少しだけ笑った。
来年。
その言葉が自然だった。
当たり前みたいだった。
それが嬉しかった。
◇
二人は階段を降りる。
六花はまだ少し笑っていた。
来年の話。
冬の話。
何でもない未来の話。
そういうものが幸せだった。
◇
だから。
最初は気付かなかった。
◇
尚哉の足が止まったことに。
◇
「尚哉くん?」
◇
返事がない。
◇
顔を上げる。
◇
尚哉の表情がおかしかった。
◇
焦点が合っていない。
◇
「え……?」
◇
尚哉がふらつく。
◇
手すりへ手を伸ばす。
◇
掴めない。
◇
「尚哉くん!」
◇
次の瞬間。
◇
尚哉の体が崩れ落ちる。
◇
その瞬間、世界から全てのノイズが消えた気がした。
◇
「尚哉くん!!」
◇
六花の叫びだけが、校舎へ響いていた。




