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第100話 橘尚哉は未来を欲しがっている。

 夏祭りが終わって。


 誕生日も過ぎて。


 少しだけ特別だった日々が、また日常へ戻っていく。


 けれど。


 何も変わらなかったわけではない。


 二人で歩く帰り道。


 付き合う前から何度も歩いてきた道なのに、今はその意味が少しだけ違っていた。


 隣に六花がいる。


 それが当たり前になっている。


 当たり前になっていることが、尚哉には少し不思議だった。


「尚哉くん」


 六花が言った。


「ん?」


「将来の事って、考えたことある?」


 尚哉は少しだけ眉を寄せた。


「急だな」


「昨日、昔の話したから」


「ああ」


「今日は、これからの話」


 六花はそう言って少し笑った。


 尚哉は前を見る。


 夕方の空。


 駅へ向かう人たち。


 その中で、将来という言葉は少し遠くに感じた。


「分からない」


 尚哉は答えた。


「だと思った」


「おい」


「だって尚哉くんだもん」


「どういう意味だ」


「そのままの意味だよ」


 六花は楽しそうに笑う。


 尚哉は吐息のようなため息をつく。


 それは、嫌だからではなかった。


     ◇


「でもさ」


 尚哉は少し考えてから続けた。


「前よりは、考えるようになった気がする」


 六花が隣を見る。


「前より?」


「ああ」


 尚哉は言葉を探す。


「前は本当に、どうでもよかった」


「将来が?」


「たぶん」


 そう言ってから、自分でも少しだけ驚いた。


 たぶん、という言葉を使ったのは、今はもう同じではないからだ。


「何になりたいとか」


「うん」


「どこに行きたいとか」


「うん」


「そういうの、本当になかった」


 六花は黙って聞いている。


 昨日の自分みたいに。


 ただ、隣で。


「でも今は」


 尚哉は少しだけ言葉を止めた。


 自分で言おうとしていることが、少し照れくさかった。


 けれど。


 言わないままにするのは違う気がした。


「未来は、欲しいと思う」


 六花が足を止めた。


 尚哉も少し遅れて立ち止まる。


「……未来?」


「ああ」


「どういう未来?」


 六花の声は静かだった。


 尚哉は困る。


 具体的なものは、まだない。


 大学。


 仕事。


 大人になった自分。


 そういうものは、はっきり見えていない。


 それでも。


 何もないわけではなかった。


「来年も」


 尚哉は言った。


「また祭りに行くとか」


「うん」


「映画もまた行くとか」


「うん」


「白鷺……じゃなくて」


 言い直す。


「六花と、そういうのが続くとか」


 六花は目を瞬いた。


 それから、優しく微笑んだ。


「そっか」


「全然具体的じゃないけどな」


「ううん」


 六花は首を振る。


「すごく具体的だよ」


「そうか?」


「うん」


 六花は少しだけ嬉しそうに頷いた。


     ◇


 二人はまた歩き出す。


 夕方の風が吹く。


 まだ暑さは残っているけれど、夏は少しずつ終わりに近付いている。


 六花は少しだけ空を見上げた。


「私はね」


「ああ」


「昔は、未来って少し怖かった」


「怖い?」


「うん」


 六花は小さく頷く。


「お姉ちゃんが亡くなってから、自分だけ先に進んでいいのかなって思うことがあった」


 尚哉は何も言わなかった。


 昨日聞いた三海の話。


 六花が少しずつ言葉にしてくれた過去。


 それが胸の中に残っている。


「でもね」


 六花は続ける。


「今は、少し違うの」


「どう違うんだ」


「未来が欲しい」


 六花は言った。


 静かに。


 でも、はっきりと。


「尚哉くんと一緒にいる未来が欲しい」


 尚哉は何も言えなかった。


 真っ直ぐすぎて。


 少し困るくらいに。


「……そういうこと、普通に言えてすごいな」


「…普通じゃないよ」


 六花は少しだけ頬を赤くする。


「かなり頑張って言ってる」


「そうか」


「そうだよ」


 六花は少しだけ笑った。


 尚哉も少しだけ笑う。


 それから、自然に手が触れた。


 どちらからともなく、手を繋ぐ。


 夏祭りの日よりは、少しだけ自然に。


 けれど、まだ少しだけ照れくさい。


「来年も」


 六花が言う。


「再来年も」


 尚哉が続ける。


「その先も」


 六花が言う。


 二人は顔を見合わせる。


 少しだけ笑った。


 何の保証もない。


 約束したからといって、本当にそうなるとは限らない。


 そんなことは分かっている。


 でも今は。


 そう信じたかった。


 信じられる気がした。


     ◇


 駅が近付いてくる。


 いつもの別れ道。


 何度も交わしてきた言葉が、今日は少しだけ違って聞こえた。


「ようやく」


 六花がぽつりと言う。


「未来の話ができたね」


 尚哉はその横顔を見る。


「そうだな」


「なんだか嬉しい」


「……俺も」


 六花は驚いたように尚哉を見た。


「今の、珍しい」


「そこ拾わないでくれ」


「嬉しい」


「言わそうとしてるだろ」


 六花は笑った。


 尚哉も少しだけ笑った。


 手を離す。


 別れ道だった。


「じゃあまた明日ね」


 六花が言う。


「ああ」


 尚哉は頷く。


「また明日」


 いつも通りの言葉。


 けれど、今はそれが未来の約束みたいに聞こえた。


 六花は少しだけ手を振る。


 尚哉も軽く手を上げる。


 そして二人は、それぞれの帰り道へ歩き出した。


 明日も会える。


 その次の日も。


 来年も。


 その先も。


 そう信じられることが、こんなにも温かい気持ちになるものだと。


 尚哉はこの日、初めて知った。


 橘尚哉は未来を欲しがっている。

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