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誰も気づいてない

 次の日、メアリーはエドワードの執務室に赴いた。


 ノックした。


--返事がない。人はいるはずなのに。


 メアリーはしばらく待った。もう一度ノックした。


--まだ返事がない。


 さらにノックした。


「……どうぞ」


 中から女性の声が聞こえた。


 メアリーはドアを開けて中に一歩入った。


 部屋の奥にはエドワードがいる。脚を机に投げ出してメアリーを睨んでいる。


 入口のすぐ横には若い女性が立っている。メアリーは彼女に視線を遣った。見ない顔だ。そして、顔がやや上気している。息も整っていないようだ。よく見るとボタンが留まっていないところがある。


 メアリーはエドワードに向いた。


「旦那様……」


「新しい秘書だ」


 エドワードがメアリーを制するように口を開いた。


「新工場の見積もりです」


 メアリーはエドワードを見たまま秘書に冊子を渡した。秘書はエドワードに小走りで近づいて渡した。


「遅いぞ!」


「申し訳ありません!」


 メアリーは頭を十分に下げた。


 エドワードは秘書にたずねた。


「どうだこの女は?俺の言うことはよく聞くのだが、どうにも鈍いのだよ」


 エドワードは大声で笑った。秘書も合わせるように笑った。


「では失礼いたします」


 メアリーはお辞儀をしてから退出した。


 ドアを閉じた後、メアリーは目を強く閉じた。


 奥の歯をかみ合わせた。


--何も見なかった。何も聞かなかった。


 深く息を吐いてから、もう一度吸い込んだ。目を開けて、エドワードの執務室を離れた。


 * * *


 メアリーは自室に戻って、資料を読み込んでいると、急にドアが開き、秘書が入ってきた。


「旦那様が怒っておられます!」


 秘書は急かそうとしているが、メアリーは立ち上がって書棚に向かった。


「はやく!」


 秘書が怒鳴った。


「すぐに行きますよ」


 メアリーは秘書に向かって表情を変えずに言った。書棚から冊子を一つ手に取った。


「鍵をかけるから出て行って」


 秘書に言うと、「ふん」と言って部屋の外に出た。すぐにメアリーも外に出て鍵をかけた。振り返ると既に秘書はいなかった。


 メアリーは一人でエドワードの執務室に向かった。


 エドワードの怒鳴り声が、執務室の外まで聞こえていた。メアリーは深呼吸をしてから、ドアをノックした。


「メアリーです」


「入れ!」


 メアリーが入ると、工場長がエドワードに向かって頭を下げたまま動かない。


「ああ、旦那様、申し訳ありません」


 メアリーが小走りにエドワードの前に進んだ。


「蒸気機関を試験研究にするように言ったのは私です」


 メアリーはエドワードと工場長の中間に立った。


「なぜ貴様が首を突っ込む!?」


 エドワードがさらに声を荒げる。


「申し訳ありません。ただ、こちらをご覧ください」


 メアリーが書類の束を差し出した。


「旦那様には、事業に関する書類は常にご覧いただいております」


 エドワードは黙って書類を手に取った。


「前回お命じなった綿花仕入れの五割増し計画の報告書です。綿織物が売れるまでがやや苦しくなります。その間は少なくとも支出を抑えざるを得ません」


 エドワードは書類に目を通しているように装った。


「なるほど」


 エドワードは書類をメアリーに返した。


「では五割増で綿織物が売れるまでは投資は避けるべきだな。よし、蒸気機関は研究開発で認める。」


「さすが旦那様。賢明なご判断を頂戴できまして、感謝申し上げます」


 メアリーがうやうやしく頭を下げた。


「そうだろう。将来を見据えるのも重要だが、足元を見誤っては元も子もないからな」


 エドワードが満足そうにしゃべっている。それをメアリーはうなずきながら聞いている。


 そして、メアリーは工場長に手で合図をした。工場長はそれを見て、お辞儀をして執務室から出た。


「では旦那様、頂いたご指示で進めたく存じます」


「おう。しっかりやれよ」


「では失礼します」


 メアリーは執務室から出た。


 ドアを閉め切ったところで、メアリーは小さく息を吐いた。


--疲れた。


 誰にも聞こえないように呟いた。


 * * *


 メアリーは晩餐に出ることもあれば、そうでないこともある。この日は、エドワードらが食堂で晩餐を取っている間、自室で書類を読み込んでいた。


 右手で書類を持ったりメモを取ったりして、また左手には肉を挟んだパンを持ち、時々パンをかじっていた。


 ふと手を止めた。


--今頃、旦那様と秘書とが仲良く晩餐を楽しんでいるんだろうな。


 パンを一口かじった。


--いまは考えない。


 口の中のパンをゆっくり咀嚼して、飲み込んだ。


 再び書類に意識を集中させた。


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