20❀ 重ならない
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ママと朝、顔を合わせるのは、いつぶりだろうか。
六時のダイニング。東の窓から差し込む光が、ガラステーブルの上にまっすぐ影を落としている。
薄く反射する天板の上には、白いボウルがひとつ。牛乳に浸されたグラノーラが、ママのスプーンの動きに合わせて、わずかに揺れていた。
わたしは、そっとキッチンからもう一つの白いボウルを持ってきて、ママの向かいに腰を下ろした。
「食べるの?」
ママが顔を上げた。声に、少しだけ意外そうな響きが混じっていた。
「……うん」
そう答えて、テーブルの上のピッチャーから牛乳を注ぐ。冷たい白が、からりと乾いたグラノーラをゆっくりと沈めていく。
中学生の頃から、朝ごはんはほとんど食べなくなっていた。太る気がして、わざと抜いていたら、いつのまにか体が受けつけなくなっていた。
最初の頃、「大丈夫なの?」とママに聞かれた。「食欲ない」と答えると、「じゃあ仕方ないわね」とだけ返ってきた。それきりだった。
本当に心配していなかったのか、それとも言葉以上に考えていたのか――わからないままだった。
たぶん、「ダイエットしてる」と言っていたら、止められていたと思う。
ママは、額面通りの言葉しか返さないけれど、いつだってその裏を読んでいるような気配があった。必要なことだけを聞いて、あとは黙って見ている。
その沈黙が、時に一番こわかった。
アフロディーテの呪いにかかって学校に行けなくなったときも、反応は変わらなかった。
「行けないならしょうがないわね」。
ただそれだけで、すぐに学校と掛け合い、自宅学習の手続きを整えた。
成績が落ちなければ問題ない――そう判断されたように思えた。
突き放されているのか、信じられているのか。どちらなのか分からなくて、私はいつも、息を詰めていた。
ママは、私の話を深く聞いてくることはない。けれどそれでも、ちょっとした変化にはすぐに気づいてしまう。
スプーンを置いて、スマホのスケジュールを見つめたまま、ふいに口を開いた。
「なんかいいことあった? 元気そう」
やっぱり、ばれてる。
朱里と過ごすようになってから、私は少しだけ変わった。ふさぎ込む時間が減ってきた。
それを、ママはもう察していた。
見ていないふりをしながら、見ている――それが、ママという人だった。
「別に、ふつうだよ。……ママは今日、早いの?」
私が誤魔化すように訊くと、ママは軽くうなずいた。白いシャツの袖を一度まくり直し、淡々とした口調で言う。
「うん。半には出る。会議の前に、資料に目を通したくて」
ぶれない、迷わない、まっすぐな答え方だった。そういうところが、ママらしいと思った。
少し息を吸ってから、わたしは言葉を探すように訊ねた。
「夜は?」
「飲み会。たぶん、十一時には戻るよ」
――朱里の家に行ける。
ママは酔って帰ってくると、シャワーも浴びずにそのまま眠ってしまう。それならきっと、ママが寝ているあいだに家を出られる。
わたしはそれを、確かめるためにここへ来た。
一口だけ、シリアルを口に運んだ。それ以上は、やっぱり食べられなかった。
けれどママは、それにも何も言わない。ただ黙って、スマホの画面に指を滑らせている。
わたしはその顔を盗み見ながら、ママのことを考えていた。
この人は、どこにも綻びがない。白いシャツの襟も、タイトスカートのラインも、髪のまとめ方も、指先のネイルも、すべてが正確で美しい。肌も冗談みたいに綺麗だった。
完璧な人間。いつだって。
わたしが、寝癖を隠すために前髪を巻き直して、肌荒れにコンシーラーを重ねて、それでも外に出られない朝を過ごしているあいだにも――ママは毎朝、七時にヒールを履いて、何事もなかったように家を出ていく。
たぶん、そういう人なのだ。
言い訳や感情に足をとられない。最短距離で動いて、必要以上の言葉を持たない。
美しくて、賢くて、なんでもできて、まちがえない。
――久乃ちゃんのママ、ほんとに綺麗!
ママに会うたび、友だちの声が少しだけ高くなった。それから、ちょっと気まずそうにわたしの顔を見る。
誰も、悪くなんてない。
でも、誰かが悪いとしたら、きっと私だと思った。
どうしてだったんだろう。
どうして私は、美しくも、賢くもなれなかったんだろう。
ママはいつのまにか席を立ち、リビングの奥に消えていた。
ふやけたグラノーラにラップをかけて、冷蔵庫にしまう。ゆっくりと部屋に戻って、スマホを開いた。
朱里に、スタンプをひとつ送る。
両手で大きく丸を作った、小さなリスのスタンプ。
まあるい頬に、ちょこんと立った耳。ベージュとクリームの中間色の毛並みは、画面越しにもふわふわとして、どこかあたたかい。
このキャラクターを初めて知ったのは、たしか小学校四年生の頃だったと思う。
朱里がふとした雑談の中で、「久乃ちゃんって、ちょっとこの子に似てない?」と言って、画面を見せてくれた。そのときは何の気なしに笑って流したけれど、帰宅してから、気になって検索した。
無防備な顔。控えめな身振り。周囲に馴染もうとしているのに、どこか一歩引いて見えてしまうその仕草。見れば見るほど、自分に重なる気がして、どうしようもなく心が動いた。
それから、私はこのキャラクターを追うようになった。
ただ好きだったから、というより――。
このリスが「かわいい」と言われているうちは、 自分にも、まだ誰かに愛される可能性があるように思えたから。
新しいスタンプが出るたびに買って、朱里に送るときは、いつもこのリスを選んだ。
言葉にするとこぼれてしまいそうな気持ちも、この丸い頬が、代わりに届けてくれる気がした。
すぐに、返信が届く。
『うれしい!』
続けて、白いうさぎのスタンプが画面の中で、くるくると無邪気に踊っていた。
小さな耳に、まるくもふもふとした頬。真っ白な輪郭のなかに、きょとんとした丸い目が浮かんでいる。
初めて見るキャラクターだった。
少なくとも、小学生の頃の朱里は、こんなスタンプは使っていなかったはずだ。
知らない間に、朱里はこの子が好きになっていたんだ――そんなふうに、ふと思った。
思えば、彼女はアイドルとして活動していた頃、たしかウサギ顔だって言われていた。たれ目で幼く見える横顔が、何度も雑誌やSNSで話題になっていた。
当時の私は、それを遠い世界の出来事みたいに眺めていたけれど、今こうして目の前にいる朱里と、画面の中のウサギが、どこか重なって見える。
朱里は変わったのだと思った。
私の知らない時間を通って、大人になって、でもどこかでまた、新しい好きを見つけて。
こうやって、いまの彼女を少しずつ知っていくのは、なんだか不思議で、少しだけさみしくて、それでも嬉しかった。




