19❀ ちいさな変化
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私は静かすぎる気がして、テーブルの端のリモコンに手を伸ばした。
ボタンを押すと、ちょうどワイドショーの時間のようで、昼の情報番組が映る。
画面の隅の「像投影障害(俗称“アフロディーテの呪い”)の今」というタイトルがまず目に入った。
朱里が呑気に言った。
「わあ、こんな番組あるの?」
「よくやってるよ」
私が答えると、朱里は身を乗り出してテレビに向き合った。
「わたし全然知らないから、勉強しなきゃ」
街頭インタビューの場面ようだった。渋谷の交差点で、制服姿の女子高生三人が並んでマイクを向けられている。
「アフロディーテ症候群、どう思いますか?」
真ん中の子が、切りそろえられた前髪を整えながら少し照れたように言う。
「朝、鏡見るときちょっとドキドキします。映らなかったらどうしようって」
すぐ左隣の子が、笑いながら肩を小突いた。
「でもさ、なるのって芸能人とか、めっちゃ可愛い人ばっかじゃん」
「え〜ひどくない? じゃあうちは絶対平気ってこと?」
「そうは言ってないじゃん! まあでも、もしなったらマジで困るよ。証明写真撮れないし、就活とか詰むじゃん」
ゆるく髪を巻いた右隣の子が、本気か冗談か、分からない温度で言った。
「いやでも。ちょっと、かかってみたい。だって可愛い証拠ってことでしょ?」
「いやいや。実生活どうすんのって」
三人は笑っていた。その笑いは軽やかで、どこまでも他人事だった。
画面が暗転し、ナレーションが静かに重なる。女性アナウンサーのやわらかな声が、映像の余韻をなぞるように流れる。
「映らなくなるという現象は、日常のあらゆる場面に支障をきたします。進学、就職、恋愛、家族との関係――記録に残せないという不在のかたちは、社会の中で自分を証明できないという孤立を生み出しています」
場面が切り替わり、スタジオに戻る。
アナウンサーが、コメンテーターの心理士に視線を向けた。
「正確な統計は出ていませんが、ここ数年、自殺や失踪の増加とこの病の関連を指摘する研究もあります。井口さんは、どうご覧になりますか」
画面の中の心理士は、わずかに身を乗り出し、語調を強めた。
「非常に憂慮すべき状況だと思います。とりわけ、私たちが罹患者を追い詰めるような構図は、避けなければなりません」
一拍置いて、言葉を続ける。
「アフロディーテの呪いという俗称の影響で、選ばれた美しい人だけがかかる特別な病気だと誤解されがちですが、実際には年齢や見た目に関係なく、誰にでも起こり得ます」
心理士はカメラの奥をまっすぐ見据えた。
「もしこの病気にかかったと感じたら、どうか一人で抱え込まないでください。誰かに見てもらうこと、自分がここにいると実感できる関係を手放さないこと――それが、あなたを守ります」
心理士は一呼吸おき、穏やかな口調で続けた。
「なお、症例としてはごくわずかですが、発症後に回復する方もいらっしゃいます。その回復がなぜ起きたのか、はっきりしたことは分かっていません。ただ、事実として、完全に日常生活を取り戻している方も、少ないながら存在しています」
「それは……希望になる情報ですね」
司会が画面を見つめながら、少し言葉を選ぶように続けた。
「この病と向き合っている方々の声に、いま私たちが耳を傾けること――それ自体が、最初の一歩なのかもしれません。最後に、発症者ご本人の証言をお送りします」
司会が強く頷くと、画面が切り替わった。
ふっと暗転し、次の瞬間には、音声だけの証言が流れはじめていた。私は思わず耳を傾ける。
機械的に加工された少女の声が淡々と響く。
「二時間も準備しても、外に出る勇気が出ないんです。自分の顔がどうなってるのか想像すると、余計に怖くなって……」
知りたかったのに、聞いていられなくて、私は思わずリモコンに手を伸ばし、テレビを消した。画面が暗転し、部屋にはまた静けさが戻る。
黙ってテレビを見ていた朱里がのんびりと口を開いた。
「十七歳の女子高生って、久乃ちゃんと一緒だねえ」
「……私じゃないからね」
「分かってるよお」
朱里はいつものように微笑んだ。
「なんだか大変なことになってるみたい?」
「そう。だから、びっくりしたんだよ。朱里、あんまりにも普通だから」
「うーん。だって、わたしにはちょうど良かったから。タイミングばっちり、ってかんじ」
「なにそれ。そんなタイミングなんか、ないよ」
朱里は笑ったが、その合間で言葉を探してるように見えた。
彼女は少しの沈黙の後、髪を指で弄びながら訪ねた。
「……久乃ちゃんは、外に出るの怖いの?」
わずかに心臓が波打った。急に心のやわらかいところに踏み込まれて、すぐに返事ができなかった。
――なぜ今、そんなことを訊くのか。
私たちは、この閉じられた空間で満足していたはずだった。
それなのに、急に外の話を持ち出して。そんなの、ルール違反だ。
だいたい、朱里はこの病に対して、きっと痛みも恐れも抱いていない。
彼女は自殺も失踪もしないだろう。分かち合えるものなど、きっと最初からないというのに。
沈黙のまま視線を伏せる私に、朱里が戸惑っている気配がする。
やがて、彼女は諭すように語りかけてきた。
「ね、勘ぐらないでね。私はただ……怖かったとしても、今なら外にも行けるんじゃないかなって思っただけ」
その声色は限りなく優しかった。
「外で不安になったら、いつでも直してあげるし、教えてあげる。世界で一番可愛いのは久乃ちゃんだって」
柔らかい誘いは、少しずつ輪郭を濃くしてゆく。何かを誘導しているようだった。
「明日の夜、私のおうちに来ない? うちで夜通しパーティしよ。暗くなったら外に出て、日が出る前に戻るの。それなら、誰にも見られない」
朱里が爛々とした目をこちらに向けている。私は少しずつ彼女の世界の内側に取り込まれていくのを、抗えずに知覚していた。すべては、彼女の望む形に、静かに作り直されていく気がした。
私は視線をわずかに逸らし、曖昧に首を振った。
「……でも家の人が許さない。そうでしょ? うちだって……」
「私。……親と住んでないから。いつ来てもらっても大丈夫なんだよ? 久乃ちゃんのおうちだって、こっそり抜け出せばバレないって」
朱里は、上ずった声で私の言葉を遮った。我に返ったように取り繕って微笑んだが、そこにはぎこちなさが残った。胸の奥が少しざわついたけれど、私にはやはり、その違和感を口にする勇気はなかった。
「……勉強もしなきゃだし」
「こんなに毎日頑張ってるのに? ちょっとくらい休んだっていいんだよ。頑張り屋さんのひさちゃん」
調子を取り戻した甘い声音が、ゆっくりと私の意志をほどこうとしていた。
私はわずかに口角を上げ、言葉を切り返した。
「じゃあ、勉強合宿ならいいよ。夜通し数学教えてあげる」
「え……、え?!」
朱里は途端に顔を曇らせ、あからさまに眉をひそめた。
その素直な表情は私の知っているものだった。私は小さな満足を胸に覚えて目元を緩ませた。
わずかに彼女のペースを乱せたことが、奇妙に心地よかった。
「じゃあ……いいよ。明日の夜、絶対だよ」
彼女は悔しそうに、でもちょっとうれしそうに言った。私は受け入れられると思っていなかったので、わずかに目を見開いた。しかし、彼女はそんな私を見てはいなかった。
機嫌よく食器を下げにキッチンへ向かう。
やがて水音がし始めて、朱里が食器を洗い始めたが、それでも私は動けずにいた。
夜に外へ出る――そんなこと、この病にかかる以前から、ほとんどなかった。
ママが知ったら、どう思うだろうか。
学校にも行っていないのに、そんなふうに夜遊びのような真似をして。
でも、もしかしたら――これが、何かのきっかけになるのかもしれない。
世界に出ること。誰かに見られること。そして、自分の意志で何かを選ぶということ。この呪いのせいで閉ざされてしまった、すべての感覚とつながり。
もしその扉を、ほんのわずかでも開けることができたなら、それはきっと、意味のある一歩になる。
行ってみたい。
夜なら、人の目はない。顔を見られることもない。その静かな時間のなかでなら、私にも、まだ何か取り戻せるものがある気がした。
朱里といると、少しずつ、輪郭が戻ってくる。
世界は完全に失われてなどいなかったと、思わせてくれる。
彼女が差し出してくれるのは、ただの気まぐれではなくて、この小さな世界を、もう一度信じてもいいんだと教えてくれるやさしさだ。
私は、変わりたいと思った。




