16❀ 目を閉じて
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朱里がうちに来るのは、あの日以来、すっかり日常の一部になっていた。
今日も朝からインターホンが鳴る。その音に、もう私は布団の中で縮こまったりはしない。私を脅かしたその音は、今やとてもまぬけに聞こえた。
時刻は八時半。朱里は私しかいない時間を狙ってやってくる。
《おはよ~。起きてる?》
スマホには、朱里からのメッセージが表示されていた。起きていなかったらどうするつもりだったのかと毎回思うが、いまさら突っ込む気力もない。
《開いてるよ》
返信を送ると、玄関の扉が開く気配。猫の足音のように軽いステップが、階段を駆け上がってくる。
「久乃ちゃーん、おはよー!」
「……おはよう」
パーカーのフードを深く被った朱里が、にこにこと部屋に入ってきた。フードから溢れ出す長い黒髪には、蜘蛛の巣に朝露が絡むように、小さな水滴がきらめいていた。
彼女は手に提げた大きめのコンビニ袋についた露を軽く袖で拭い、そのまま私の勉強机に置いて、パックのオレンジジュースと私の好物のちょっと高級なカフェオレを取り出した。
「はい、これ」
慣れた手つきでカフェオレを差し出してくる。軽く礼を言うと、朱里はオレンジジュースのストローを咥えながら、満足そうに微笑んだ。
「外、ちょ~っとだけ雨降ってた。ほら、見て?」
朱里はジュースを机に置いて、フードを脱いだ。首を軽く振ると、髪から細かな雫がこぼれ落ちる。
「こら。……でも傘はいらなさそうな小雨だね。きっと春雨だ」
「なに? おいしいやつ?」
「違うよ……春にしとしと降る雨のこと。世界が煙るみたいに、霞むように滲む、そんな雨」
「へー……」
朱里が眩しそうに私を見つめる。その視線に気恥ずかしくなって、曖昧に笑った。
「さ、今日もやるぞ~!」
朱里は楽し気に手を合わせた。
「ちょっと濡れてるけど、横座っていい?」
「待って。……はい、ここならいいよ」
私はクローゼットからハンカチを取り出してきて、ベッドに敷いた。
「わーい!」
朱里は喜んで腰を下ろした。膝が軽く触れ合い、雨の冷たさが朱里から私へと静かに移ってくる。
朱里は鬱陶しげにマスクを外すと、濡れた髪を耳にかけた。黒髪の先に残った小さな雫が、頬をかすめて静かに滑り落ちる。
顔を覗き込む朱里の表情は柔らかく、白い肌は雨の湿気を含んでわずかに艶を帯びていた。わずかに開いたその口元から漏れる息が、微かな体温を私の頬に運んできた。
「さ、顔、見せて」
私は少し顔を背けるが、朱里の指が優しく戻す。
「……私、久乃ちゃんの目、好きだなあ」
「嘘。……釣り目で、ちょっと三白眼だし」
私はすぐさま否定した。
学校では、毎日ナチュラルなブラウンのカラコンをつけていた。着色直径13ミリの2ウィークタイプ。黒目の黄金比率をネットで調べて、お小遣いの範囲で続けられるコスパのいいものを探して選んだ。高校に入ってから、家族以外に裸眼を見せたことなんて、たぶんない。
朱里は、私の否定にも構わず静かに微笑んだまま、じっと観察を続けた。宝石を鑑定するみたいな目で、細部まで私の顔を確かめる。
黒々としたまつ毛に彩られた深いブラウンの朱里の目が緩むのを見て、気恥ずかしくなり思わず逸らす。こんな美しい人に、私はいったい何をさせてるのかと、ふと我に返ることがある。
「……そんなに見ないでよ」
「だって、私が見てあげないと」
朱里が微笑んだ拍子にこぼれた吐息が、私の頬をくすぐった。わざとらしいほど距離が近い。
「あ。朝ごはん、パンだった?」
くんくんと嗅ぐふりをして、頬についた黒っぽいパンくずを指先で摘まんで見せる。
顔も洗ったし、歯も磨いたはずなのになんで。恥ずかしくなって顔を抑える。
朱里が来るようになってから、私の生活は少し変わった。
もちろん学校に行かなくなってからも、最低限の身支度はしていた。顔も洗うし、歯も磨くし、肌のケアだって欠かさなかった。でもそれはあくまで自分のためで、誰かに「見られる」準備とは違った。こんなふうに家にいる分には、誰も私を見つけることなんてできないのだから。
けれど今は違う。朱里が毎日ここに来るようになってからは、鏡がなくても、できる限り「誰かに見られる自分」を整えようとするようになった。
再び洗面所を占領し始めた私を、訝しむ母に「なんだか鏡がなくても身支度できるようになったみたい」と言い訳のようにつぶやいた。
感覚だけを頼りに整えるのは、やっぱり難しい。
冷たい水で頬を冷やし、化粧水を丁寧に叩き込む。乳液とクリームを重ね、肌の表面を指先で何度も撫でて、ムラや残りがないか確認する。髪には寝癖直しを吹きかけ、手櫛で流れを整え、ドライヤーを当てた。前髪も指の腹で形をなぞるように確認するしかない。そうやって触っていると、前髪がまた伸びたことに気づく。
また母にお願いして、切ってもらわないといけないかもしれない。どれくらい先になるだろうか。適当に切られちゃうかな。そう思うと憂うつになった。
支度を終えてから、パンを焼いた。焦げないように慎重に焼いたはずなのに、耳の端が少し黒くなってしまい、いちごジャムで隠した。
――あのトーストか。まさか頬にパンくずが残っていたなんて思いもしなかった。
これからは、朝食の後に全部済ませた方がいいのかもしれない。順番を逆にしようと心に決める。
あまりに私が動揺して見えたのか、朱里はふっと息を漏らして笑った。
「安心して。今日もすごく可愛いんだから!」
彼女の指先がそっと私の頬を撫でる。
私はその言葉を信じてはいなかった。それなのに、嬉しいような、苦しいような、不思議な重さで胸に落ちていった。
朱里はそのまま手を引っ込めると、おもむろに立ち上がって机に置いた袋から栄養ゼリーを取り出した。
「朝ごはん! 私もお腹空いちゃった」
キャップをひねって口元に運ぶ。ほんの少しだけ頬が膨らみ、吸い込むたびに喉が静かに動く。
朱里はちょっと時間をかけて、でも淡々と飲み終えると、手を合わせた。
「……ごちそうさまでした。アイロンだけしよっか? お勉強には前髪邪魔だもんね? 後ろはポニーテールでいい?」
「……ん。お願いします」
朱里が勝手知ったる我が家とでもいうように、可動式のドレッサーをベッド横まで引いてきて、アイロンとヘアゴム、ヘアブラシを取り出す。その動きにはもう迷いがない。まるで、ここが自分の家であるかのように自然だった。
朱里はI+NEの代表曲を鼻歌を口ずさみながら、ヘアアイロンをコンセントに差した。じわじわと温度が上がり始める音が微かに響く。朱里の指先が私の髪を優しく梳かし、後ろ髪を整えていく。
緩やかに引き上げられた髪が、後頭部に集まっていく感覚は、どこかくすぐったい。柔らかな産毛の生え際まで風に晒されるような、妙にすうすうした感覚が背筋を撫でる。髪という薄い守りを剥がされて、うなじが空気に触れるたび、静かな緊張が胸の奥に広がった。
朱里の鼻歌は、とうとうサビに差し掛かった。この気恥ずかしさを振り払うように、私の唇が動いた。重ねるようにして、声を乗せる。
朱里の手が止まった。驚いたように私の横顔をのぞきこむ。
「えっ……知ってるの?」
「そりゃあ……有名だし。……好きな曲だよ。なんか、勇気出る気がして」
ほんとうの理由は、朱里が遠くで頑張ってる――そう思えるからだった。
でも、その気持ちは言葉にしなかった。
朱里はぱっと笑顔になり、照れたように、小さく囁いた。
「ふふ。私も。実は、この歌が一番好きなんだ」
朱里はご機嫌のまま、ゆっくりと私の前に周り込み、再びアイロンを手に取った。
「前髪巻くから、目を閉じてね」
言われるままそっと目を閉じる。暗闇の中で、耳だけが朱里の息遣いを拾う。
温められた髪の毛が額に落ちるたび、微かな緊張が生まれる。朱里の指が額に触れるたび、私は奇妙な安堵と不安を同時に覚えていた。
もし彼女が、今この瞬間、少しだけ強く手を動かせば、私の額は簡単に火傷を負うのだ――そんな想像が、ほんの刹那、頭をよぎる。
けれど、朱里の手つきはあくまで優しく、慎重だった。私はこの無防備さを心地よく感じていた。彼女が私を傷つけることなんて、ない。なぜか、自信を持ってそう感じていた。
久々に再会したばかりなのに、どうしてここまで自分を委ねられてしまうのか、わからなかった。
「……はい、おしまい。今日も可愛い!」
アイロンをコンセントから抜くと、朱里は手早く片付けを始めた。




