第九十六話……金印の主
――聖帝国暦六四五年二月上旬。
ユリウスは、相変わらず政務に忙殺されていた。
アーヴィング大公国は、カスパル派と反カスパル派に分裂し、各地で小競り合いを繰り返している。
表向きの争点は正統性や統治方針であったが、実際にはもっと生臭かった。
ゴチエ大国のエーテル資源帯。
大公国最大の権益ともいえるその鉱区を、どちらの派閥が握るのか。
その一点をめぐり、両派は抜き差しならぬ対立に陥っていた。
ユリウスは、どちらの陣営にも明確には加担していない。
だが、それは中立というより、様子見に近かった。
彼の治めるヴァルカン伯爵領は小さくもないが大きくもない。けれど、軍備、補給、信用、人材のいずれも、安易に敵対してよい相手ではなくなっていた。
だからこそ、両派はユリウスを誘い、試し、時には脅した。
ユリウスは水面下で、両派の中にいる比較的穏健な人物へ接触し、資金や物資を回していた。
味方を作るためではない。今すぐ敵を増やさぬためである。
執務机の上には、未決裁の書類が山のように積まれていた。
その山の一角に、通信端末の呼び出し音が鳴る。
発信者名を見た瞬間、ユリウスは思わず椅子から腰を浮かせた。
「つながってくれ」
通信モニターに、包帯まみれのツーシームが映った。
「……あ、坊ちゃん。こんにちは。なんとか無事……ではないけど、そっちに向かっているよ」
その顔を見た瞬間、ユリウスは胸の奥に溜まっていた息を吐いた。
「よかった。なんとか生きていて」
「あんまり無事じゃないけどね」
ツーシームは、照れ隠しのように頭をかこうとして、包帯に引っかかり顔をしかめた。
「無理に動かないでくれ。傷は?」
「見た目よりは平気。たぶん。トムの方が重かったけど、手術は済んだ。しばらくは寝かせておけば大丈夫だと思う」
「そうか……」
ユリウスは安堵した。だが、それだけでは済まない。
彼は少しためらってから、口を開いた。
「ツーシーム。悪いとは思ったんだけど、君の部屋に入った」
モニター越しに、ツーシームの目が細くなる。
「……で?」
「不思議な金の指輪があった。触れようとしたら、指輪から肉芽のようなものが伸びて、それが少女の姿になった」
その瞬間、ツーシームの表情から、軽さが消えた。
「……ああ。そこまで見たんだ」
「説明してくれ。あれは何なんだ?」
ツーシームはしばらく黙っていた。
冗談でごまかすこともできた。知らないふりもできた。
……だが、彼女は彼を信じることにしたようだった。
「あれは、皇位継承者の金印だよ」
「本当に本物なの?」
「そう。ノヴァ帝国の正統皇位に関わるもの。そして、あの少女はただの人間じゃない。あたしたちの宇宙の成り立ちを知っている存在だ」
ユリウスは眉を寄せた。
「宇宙の成り立ち?」
「坊ちゃん。落ち着いて聞いてね」
ツーシームは、声を少し低くして説明していく。
「あたしたちが宇宙だと思っているこの世界は、実は限られた小さな領域にすぎない。外側には、もっと大きな宇宙がある。今の銀河聖帝国も、共和国も、パニキア連邦も、その中に閉じ込められた存在なんだ……」
執務室から、紙をめくる音すら消えた。
ユリウスは、何も言わなかった。
いや、言えなかった。
銀河聖帝国ノヴァ。幾千の星々。皇帝の権威。貴族の血統。戦争。資源。艦隊。信仰。歴史。
それらすべてが、小さな箱庭の中の出来事かもしれない。
その事実を、頭がすぐには受け入れなかった。
「共和国のバイオロイドも、パニキアのマーダ人も、自然に生まれたものじゃないらしい。初代皇帝が関わっている。あの金印の少女は、そう言った」
「初代皇帝が……?」
「詳しい話は直接会ってからする。通信では危ない。けど、坊ちゃんには先に知っておいてほしかった」
ツーシームは、少しだけ苦笑した。
「今、大公国の内輪揉めで忙しいのは分かってる。でも、その内輪揉めの外側に、もっと大きな問題がある」
ユリウスは机の上の書類を見た。
カスパル派。反カスパル派。ゴチエ大国の鉱区。補給線。資金繰り。治安維持。
それらは間違いなく現実の危機である。
だが、その現実を乗せた土台そのものが、今、揺らいでいるようだった。
「ツーシーム」
「うん?」
「無事に帰って来てくれ。君の口から、全部聞きたい」
「了解。できれば熱い風呂と、まともな食事も用意しておいて」
ユリウスは、その言葉にかすかに笑った。
「分かった。君とビッグベアの分も用意しておく」
「ありがと、坊ちゃん」
通信が切れる。
暗くなったモニターを前に、ユリウスはしばらく動けなかった。
◇◇◇◇◇
金印の少女は、広間の上座に座っていた。
その姿は、年端もいかぬ少女にしか見えない。だが、室内に居並ぶ者たちの誰もが、彼女をただの子供だとは思っていなかった。
ユリウス・アストレアは、その前に進み出る。
周囲には老臣グレゴールをはじめ、アストレア侯爵家の側近たち。
そして新たに傘下へ加わった下級貴族たちが居並んでいた。
ツーシームもまた、下座の片隅に座り、包帯を巻いた腕を膝に置きながら、のんびり成り行きを見守っている。
「皇帝陛下」
ユリウスは静かに膝をついた。
「お願いがございます」
金印の少女は、幼い顔に似合わぬ古めかしい笑みを浮かべた。
「なんじゃ。申してみい」
「はっ。では、謹んで申し上げます」
ユリウスは頭を垂れた。
「私を、帝国臣民のため、金印の主としてお認めいただきたく存じます」
広間に、かすかなざわめきが走った。
それは、あまりにも大きな願いであった。
金印の主となる。
すなわち、銀河聖帝国ノヴァの正統皇位へ手を伸ばすという意味に等しい。
少女は目を細める。
「ほう。つまり、帝位を望むか?」
「はい」
ユリウスはひかなかった。
その返答に、側近たちの息が詰まる。グレゴールでさえ、杖を握る手にわずかに力を込めた。
少女はユリウスを見下ろしたまま、問いを重ねる。
「先帝は確かに、直系の親族を守るため、余を作り出した。皇位をめぐる利権、派閥、貴族どもの欲望。その渦に親族を投げ込まぬためにな」
「承知しております」
「ならば問う。アストレア卿。そなたに、皇位へふさわしい理由があるのか?」
広間の空気が凍った。
ユリウスは、すぐには答えなかった。
自分の才を誇ることもできた。戦功を並べることもできた。
ヴァルカンを守った実績、大公国における影響力、民を飢えさせぬために尽くした政務。
たしかにそれらを言葉にすることはできた。
だが、それだけで皇帝になれるほど、玉座は軽くないと彼は思ったのだ。
「今をもっては、十分にはございませぬ」
ユリウスは正直に答えた。
周囲の貴族たちが動揺する。
だが、少女の表情だけは変わらなかった。
「ほう。では、何ゆえ望む?」
「私が、ふさわしい存在になってみせるためでございます」
ユリウスは顔を上げた。
「我が才をもってしては、帝国を平和へ導くに千年かかりましょう。私は天才ではありません。覇王でも、聖人でもありません。ですが、帝国臣民を見捨てるつもりはございませぬ」
その声は若く、けれど揺らがなかった。
「ゆえに、陛下の権威をお借りしたいのです。戦乱を収め、偽りの皇帝を退け、帝国を再び一つにするために」
「権威だけを借り、己は玉座に座るか?」
「いいえ」
ユリウスは右手を差し出した。
「我が指に同化なさいませ。そして、もし私が帝国を私物化し、民を踏みにじり、皇位に値せぬ者となったならば、その時はただちに我が体を破壊していただきたく存じます」
今度こそ、広間は完全に沈黙した。
それは忠誠の誓いではない。
自分自身へ処刑具を取り付ける覚悟であった。
金印の少女は、初めて愉快そうに笑った。
「なるほど。そなたは、余を飾りにするつもりではないのじゃな」
「はい」
「余を玉璽ではなく、監視者として迎えるか」
「その通りでございます」
「怖くはないか?」
「怖くないと言えば、嘘になります」
ユリウスは小さく息を吸った。
「ですが、帝国を背負う者が、己の命だけを惜しんではなりませぬ」
少女はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくり立ち上がる。
その小さな体から、目に見えぬ圧が広間全体へ広がった。
居並ぶ貴族たちは、思わず頭を下げた。
ならず者のツーシームでさえ、背筋をわずかに伸ばす。
「アストレア卿」
「はっ」
「我が帝国の末永い繁栄を誓え」
ユリウスは深く頭を垂れた。
「一命に代えましても」
「ならば、よかろう」
少女の体が光に包まれた。
肉体の輪郭がほどけ、金色の粒子となって宙へ舞う。
それらは渦を巻き、やがて一つの指輪へ姿を変えた。
皇位継承者の金印。
それは誰の手も借りずに浮遊し、ユリウスの右手の薬指へ静かに収まった。
次の瞬間、指輪の内側から細い肉芽が伸びた。
それは痛みを伴わぬ刃のように皮膚へ入り込み、血管、神経、骨へ根を張っていく。
ユリウスは眉一つ動かさなかった。
金印は、もはや装飾品ではない。
彼の肉体と同化した、皇位の証であり、監視者であり、処刑者でもあった。
老臣グレゴールが、震える声でつぶやく。
「……殿下」
その言葉を皮切りに、居並ぶ者たちは一斉に膝をついた。
「皇太子殿下に、栄光あれ」
下級貴族たちも、側近たちも、次々に頭を垂れる。
そこには、もう少女の姿はない。
だが、彼の血の奥深くで、確かに何かが息づいていた。
この瞬間、ユリウス・アストレアは、金印に認められた。
すなわち、銀河聖帝国ノヴァの次期皇帝候補として、歴史の表舞台へ押し出されたのである。




