第九十四話……金印の少女
雨は、夜の森を黒く塗りつぶしていた。
ツーシームは泥に足を取られながら、ビッグベアの腕を必死に支えていた。
普段なら大岩のように頼もしい男の体が、今はひどく重い。
だが、彼の傷はすべてツーシームを救い出すために作ったものであった。
「もう少しだ。あそこに納屋がある」
ツーシームは自分に言い聞かせるように呟いた。
追手の怒号は、少しずつ遠ざかっている。
だが安心はできなかった。
森の中では音が狂う。
近いはずの声が遠く聞こえ、遠いはずの足音がすぐ背後にあるように感じられる。
朽ちかけた納屋の扉を押し開けると、かびた干し草の匂いが鼻を突いた。
中には古びた農具と、形が崩れた樽が積まれているだけだった。
「入って。早く」
ツーシームはビッグベアを干し草の上へ座らせ、扉を内側から閉ざした。
隙間だらけの板壁から、青白い月光が細く差し込んでいる。
ビッグベアは苦しげに息を吐いた。
「お嬢……俺は、もう……」
「黙って」
ツーシームは彼の傷口を押さえた。
掌にぬるい血が広がる。
何度も戦場をくぐり抜けてきた彼女でさえ、その量には顔をしかめた。
「この程度で死ぬわけないでしょ。あんた、熊みたいに頑丈なのが取り柄じゃない」
「へっ……熊は熊でも、穴だらけじゃあな」
「笑えない」
ツーシームは短く言い、懐から布を引き裂いて傷に巻きつけた。
だが布はすぐに赤く染まった。
ビッグベアは彼女の手首を弱々しく掴んだ。
その指には、まだ信じがたいほどの力が残っていた。
「船長。最後に聞いてくれ」
「聞かない」
「俺は、ずっと……」
「聞かないって言ってる」
「最後に、言わせてくれ。俺は、お前さんを……」
その瞬間、ツーシームは彼の口を手で塞いだ。
「縁起でもないことを言うな」
彼女の声は震えていた。
「最後とか、そういう言葉を使ったら撃つ。私が撃つ。いいね」
ビッグベアは目を丸くし、それからかすかに笑った。
血の気を失った顔なのに、その笑みだけは昔と変わらなかった。
ツーシームは喉の奥が焼けるように痛んだ。
自分は泣かない。
海賊船の船長が、部下の前で涙を見せるものか。
そう思っていた。
だが今は、船も、仲間も、逃げ道もない。
あるのは壊れかけた納屋と、死にかけている相棒だけだった。
外で枝の折れる音がした。
二人は同時に息を殺した。
ツーシームは腰の銃に手を伸ばす。
弾は残り三発。
ビッグベアは斧を取ろうとしたが、傷が痛むのか、途中で顔を歪めた。
「動くな」
ツーシームは小声で命じた。
雨音の向こうから、足音が近づいてくる。
ひとつではない。だが軍靴の音にしては軽すぎる。
納屋の前で足音が止まった。
沈黙。
ツーシームは銃口を扉へ向けた。ビッグベアも歯を食いしばり、いつでも身を投げ出せるように体を起こす。
その時だった。
こん、こん。
小屋の扉が、控えめに二度鳴った。
ツーシームは引き金に指をかけた。
「誰だ!?」
◇◇◇◇◇
ユリウス・アストレアは、報告書の山に埋もれていた。
アストレア侯爵領は、アーヴィング大公国での内乱による崩壊から免れている。
だがそれは、まだ崩れていない、というだけに過ぎなかった。
支配地域外からの避難民の収容。
食糧配給、治安維持。
揺れ動く支配下貴族や大商人への配慮。港湾施設の再整備。
どれも一日遅れれば、領民の不満が火種になる。
ユリウスは眠る時間を削り、執務机にかじりつくしかなかった。
それでも、胸の奥には別の不安が沈んでいる。
ツーシームから連絡がない。
彼女は危険を笑い飛ばす女だった。
弾雨の中でも冗談を言い、敵の包囲網を商談のようにすり抜ける。
だからこそ、今の沈黙が恐ろしかった。
「旦那様、少しお休みになられては」
老臣グレゴールが声をかける。
「休めば、彼女が戻るのか?」
ユリウスは書類から顔を上げずに答えた。
グレゴールは黙った。
夕刻。
ようやく領内安定会議を終えたユリウスは、護衛を最低限に絞り、フォックス商会の屋敷へ向かった。
商会の者たちは彼を迎えたが、誰もが目を伏せた。
ツーシームの消息を問うまでもない。
答えは、その沈黙が告げていた。
彼女の部屋は、主を待つように整えられていた。
机の上には吸いかけの安煙草。
壁には未知の航路図。
椅子の背には、黒い外套が乱暴に掛けられている。
ユリウスは胸が詰まった。
「帰ってきたら、また怒鳴られるな。勝手に入るな、と……」
そう呟いた時、机の端で鈍い金色が光った。
小さな指輪だった。
輪の内側に、荒鷲の金印が刻まれている。皇帝に即位できる者だけが許される紋章。それが、場違いなほど静かに置かれていた。
「なぜ、ここに……」
ユリウスは指輪へ手を伸ばした。
指先が触れる寸前、金印が熱を帯びた。
次の瞬間、指輪の表面が脈打った。
「お下がりください!」
護衛が叫ぶより早く、金の輪から赤黒い肉芽が芽吹いた。
細い触手のようなものが机に張りつき、呼吸するように膨らむ。
ユリウスは銃を抜いた。
肉芽は骨を生み、血管を伸ばし、白い皮膚をまとっていく。
あたかも蛇口から吹き出る水のような速度で、肉体が形を持っていく。
やがて肉芽は、一人の少女の姿に形成されていた。
十二、三歳ほどに見える。銀色の髪。青白い肌。指にはめた指輪には、荒鷲の金印が淡く浮かんでいる。
少女はゆっくり目を開いた。
その瞳は、古い星の光を宿しているかのようだった。
「あなたは、何者です」
ユリウスは銃口を下げなかった。
少女は彼を見つめた。
「余は、皇帝の血を継ぐ者」
部屋の空気が静かに止まった。




