第九十二話……大公の遺言
大公は、片膝をつくユリウスを見下ろし、静かに告げた。
「余の後は、エリザベートの子を後継ぎに据えようと思う」
「……は?」
ユリウスは思わず顔を上げた。
病室に、気まずい沈黙が落ちる。
エリザベートは、大公の公妾である。大公が溺愛している女であり、その寵愛ぶりは宮廷中に知られていた。
だが、問題はそこではない。
エリザベートは懐妊していると聞いている。
けれど、その子はまだ生まれてすらいないのだ。
「お待ちください。エリザベート様のお子は、まだ……」
「分かっておる」
大公は遮るように言った。
「まだ生まれておらぬ。男児か女児かも分からぬ。だが、それでも余は、その子を後継ぎに据えたい」
書記官と側近たちが、目を白黒させていた。
無理もない。
大公には子が多い。
中でも長子カスパルは、地方貴族や大商人たちから広く支持を集めていた。
派手さはないが、実務に通じ、利権の調整もうまい。大公国の次代を担う者として、すでに多くの者が彼を見ている。
その流れを覆すのは、至難の業だった。
しかも、エリザベートへの寵愛は常軌を逸している。正妃よりも大きな館を与え、湯水のように金を使わせ、宮廷内の人事にまで彼女の意向を反映させていると噂されていた。
ここでエリザベートの子を後継者に据えるなどと言えば、宮廷は割れる。
議会も割れる。
大公国そのものが、割れるかもしれない。
「余の願いを通すのは難しい。それは分かっておる」
大公は苦しげに息を吐いた。
「だが、侯爵が支持してくれるならば、この願いは叶うやもしれぬ。そなたは今や、サーペント解放の英雄だ。軍も民も、そなたの言葉を無視できぬ」
「しかし、それは……」
ユリウスは言葉を詰まらせた。
これは単なる願いではない。
危険な後継者争いへの加担である。
大公は病床で身を起こそうとした。侍従が慌てて支えようとするが、大公はそれを手で制した。
「頼む」
かすれた声だった。
大公は、病の身でできる限りの礼を尽くし、ユリウスの手を取った。
「この通りだ。余の最後の願いと思ってくれ」
ユリウスは、その手を振りほどくことができなかった。
先に無理を言ったのは、自分である。
ノーム人の待遇改善など、大公国の根幹に触れる難題だった。
鉱山貴族も、工業商会も、地方領主も反発する。
大公はその提案書に署名した。
ならば、自分だけが代償を拒むことはできない。
ユリウスは、苦いものを飲み込むように頷いた。
「……分かりました。大公殿下の御意志、しかと承りました」
大公は、安堵したように目を閉じた。
「頼んだぞ、侯爵」
ユリウスは深く頭を下げ、病室を辞した。
廊下に出た瞬間、胸の奥が重く沈んだ。
自分は今、正しい取引をしたのか。
それとも、大公国の未来に火種を残したのか。
答えは出なかった。
――その二日後。
いわゆる「ノーム人待遇改善新法」の草案が、大公国貴族院に提出された。
内容は画期的だった。
ノーム人の居住制限の緩和。
強制的な長期労務契約の廃止。
賃金規定の見直し。
兵役参加者への一般臣民資格付与。
軍功を挙げた者への叙勲資格。
それは、これまで鉱山と工場の底に押し込められてきたノーム人たちを、大公国の臣民として扱う第一歩であった。
当然、議場は紛糾した。
反対派は八割を超えた。
鉱山利権を持つ貴族、工業地帯に基盤を持つ議員、商会と結びついた代議士たちが、口々に反対を叫ぶ。
「大公国の産業が崩壊する!」
「戦場で働いた程度で、身分制度を揺るがしてよいはずがない!」
「これはアストレア侯爵による人気取りだ!」
議場は怒号に包まれた。
だが、審議の途中で事態は急変した。
大公親衛隊が、議会へ突入したのである。
銀色の装甲服をまとった親衛隊員たちは、議場の出入口を封鎖し、反対派議員を次々に拘束していった。
抵抗した者は床へ押さえつけられ、抗議の声を上げた者はその場で退場させられた。
「これは暴挙だ!」
「議会への干渉であるぞ!」
叫び声は、装甲靴の音にかき消された。
拘束された反対派議員たちは、それぞれの屋敷へ移送され、自宅軟禁に置かれた。
その後、残された議員たちによって、ただちに採決が行われた。
結果は可決。
ノーム人待遇改善新法は成立した。
知らせを聞き、歓喜する者がいた。
涙を流すノーム人がいた。
沈黙する貴族がいた。
そして遠く宮殿の一室で、ユリウスはその報を受け、しばらく何も言えなかった。
◇◇◇◇◇
「なんか違うんだよねぇ」
ユリウスは、グラスの中で琥珀色の酒を揺らしながら呟いた。
場所は首都クラウゼンの片隅にある、小さなバーである。
貴族や高級士官が出入りするような店ではない。
壁は少し煤け、床は古く、カウンターの奥では無口な店主が黙ってグラスを磨いていた。
その隣で、ツーシームは安ウイスキーを傾けている。
「どうしたの、坊ちゃん。随分と歯切れが悪いね」
「いやさぁ」
ユリウスはため息をついた。
「ノーム人待遇改善新法を通してもらったのは良いんだ。約束は果たせた。エジルにも、ツーシームにも、カタコン将軍にも顔向けできる」
「うんうん。そこまでは良い話だねぇ」
ツーシームは、のんきな顔で皿のポテトサラダをつついた。
「でも、やり方がさぁ……」
ユリウスの声が沈む。
「議会に親衛隊を入れて、反対派を拘束して、自宅軟禁して、そのあと採決だよ。確かに法は通った。だけど、それで本当に良かったのかって思ってしまうんだ」
「まぁねぇ」
ツーシームは酒を一口飲み、肩をすくめた。
「でも、他人の利権を奪うんだよ。しかも、鉱山貴族や工業商会が長年吸ってきた甘い汁だ。気持ち良く解決する方法なんて、最初からなかったかもね」
「そういうものかな」
「そういうものさ。綺麗な手で泥沼から誰かを引っ張り上げるなんて、なかなかできないよ」
ツーシームはフォークでポテトサラダを崩しながら続けた。
「ノーム人たちが永遠に二級市民のままでいるよりは良いんじゃない? 少なくとも、今回の法で扉は開いた。あとは、あの小さい連中が自分たちで押し広げるさ」
ユリウスは返事をしなかった。
正しいことをした。
そう思いたい。
だが、正しいことのために正しくない手段が使われた時、人はどこまで胸を張れるのか。
その答えが、彼にはまだ分からなかった。
ツーシームは、ふと思い出したように言った。
「それよりさ。大公様のお妾さんのお腹の中の子供を世継ぎにするって話の方が、よっぽど不自然じゃない?」
ユリウスは露骨に顔をしかめた。
「……そうなんだよなぁ。頭が痛いよ」
「まだ生まれてないんだろ?」
「うん」
「そりゃあ、揉めるねぇ」
ツーシームは他人事のように笑った。
ユリウスは頭を抱えた。
「大公殿下には恩がある。ノーム人新法も通してもらった。だから、無下にはできない。でも、長子カスパル殿を支持している貴族も商人も多い。大公殿下の御意向をそのまま押せば、宮廷が割れる」
「坊ちゃん、皇帝を目指すんだろ?」
ツーシームは、わざと軽い調子で言った。
「それくらいの政務は、なんとかしなきゃねぇ」
「簡単に言わないでよ」
「簡単じゃないから、偉い人がやるんだよ」
その言葉に、ユリウスは返せなかった。
その夜、ユリウスは人間というものが、どれほど難しい存在であるかを思い知った。
戦場なら、敵と味方は比較的はっきりしている。
砲火の向こうにいる者を撃ち、背後にいる者を守ればいい。
だが政治は違う。
正義の中に利権が混じり、恩義の中に打算が潜み、善意の背後で誰かが得をする。
屋敷に戻ったユリウスは、胃の奥に重い石を抱えたような気分で眠りについた。
これからしばらく、胃の痛む日々が続くのだろう。
そう思っていた翌朝。
「え!?」
朝食の席で、ユリウスは思わず声を上げた。
「大公殿下が、お亡くなりになったって?」
目の前のメイドは、青ざめた顔で頭を下げた。
「……はい。宮殿より、確かにそのようなご連絡がございました」
「いつだ?」
「昨夜遅く、と」
ユリウスは椅子から立ち上がった。
「公表は?」
「まだでございます。外部へは当面、秘密にするようにとの伝達も添えられております」
部屋の空気が、一気に冷えた。
新年の朝だった。
街ではまだ祝祭の名残が続いている。
人々は勝利と新年を祝い、通りには飾りが残り、酒場には笑い声がある。
だが、その裏で大公は死んだ。
そして、その死は隠されている。
ユリウスは、しばらく何も言えなかった。




