第八十二話……恩をあだで返す
聖帝国暦六四五年十一月中旬――。
アーヴィング大公国がルドミラ教皇国へ差し向けた援軍艦隊は、教皇国領の要塞サーペントを包囲する帝国艦隊と、ついに正面から遭遇した。
前衛に出していた策敵艦から、鋭い通信が飛び込む。
「敵と思しき艦影発見! 位置、N八九一―六一!」
その報を受けた司令長官パウルスは、ただちに命じた。
「全艦艇、艦隊戦用意! 縦陣を解き、方陣へ展開せよ!」
「了解!」
命令は瞬く間に全艦へ伝播し、左翼を担う第二艦隊司令ユリウスのもとにも届く。
彼の指揮下には、戦闘艦と輸送船を合わせて大小八百五十隻。
これほど大規模な艦隊を正式に率いるのは、彼にとってこれが初めてだった。
旗艦ハンニバルの艦橋は、張りつめた空気に満ちている。
ユリウスは戦術盤を睨みつけたまま、次々と指示を飛ばした。
「防御シールド艦艇を前方へ展開!」
「ビーム砲艦は横陣二列! 射界を重ねろ!」
「了解!」
ハンニバルそのものは、なお攻撃的な主火器を使えない。
だが、その圧倒的な防御力と通信処理能力は、旗艦としてはこの上ない。
青白い表示光の中で、巨大戦艦はまるで戦場全体を抱え込む城のように沈んでいた。
ユリウスは緊張を押し殺しながら問う。
「敵の総数は?」
情報士官が苦い顔で応じる。
「妨害電波と小惑星帯の遮蔽により、不明です!」
その時だった。
老臣グレゴールが、場違いなほど落ち着いた足取りで茶を運んでくる。
今回の彼は名誉参謀のような立場で、これといった実務は与えられていない。
「若様、敵は小惑星帯を利用して布陣しておりますな」
彼は静かに湯気の立つ茶杯を差し出した。
「あまり急がず攻めるのがよろしいのでは?」
その言葉に、大公から派遣された作戦参謀たちが一斉に咳払いし、露骨に視線で制してくる。
グレゴールは、わざとらしく肩をすくめた。
「おっと、失礼、失礼」
そそくさと下がっていく老臣の背を見て、ユリウスの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
胸を締めつけていた緊張が、ほんの少しだけほどける。
その頃には、前面の防御シールド艦が電磁防壁を幾重にも展開し終え、その後方では四百隻に及ぶビーム砲艦が、寸分の乱れもなく戦列を整えていた。
艦首砲身には青白い光が満ち、今にも死を吐き出さんとしている。
ユリウスは深く息を吸い、静かに、しかし力強く命じた。
「全艦艇、砲撃戦用意!」
その声と共に、艦橋の空気はついに戦場のそれへ変わった。
次の一瞬、虚空は無数の光で裂かれようとしていた
◇◇◇◇◇
聖帝国暦六四五年十一月中旬。
聖帝国ノヴァ第二総軍の旗艦艦橋には、静かな緊張が張りつめていた。
第二総軍司令官、レオンハルト=トラヴァース元帥。
銀髪を整えたその壮年提督は、彫像めいた端正な顔立ちを持ちながら、眼光だけは鋼のように冷たかった。
帝国軍において元帥位は、ふつう七十前後でようやく届く高位である。
だが彼は違った。幾多の戦役で重ねた戦功により、まだ五十代で制服組第三位の重責へ就いていたのだ。
艦橋へ、観測士官の声が飛び込む。
「閣下、敵の来援です!」
トラヴァースは振り向きもせず、正面戦術盤を見据えたまま問う。
「……うむ。では、敵要塞サーペントの方はどうだ?」
「はっ。依然として地上軍から良い知らせはありません」
帝国第二総軍の宇宙艦隊は、すでにサーペント要塞の包囲を完了していた。
だが要塞攻略そのものは、惑星地上軍へ委ねられている。宇宙で首を絞め、地上で心臓を潰す。それが今回の作戦だった。
しかし、その背後へアーヴィング大公国の援軍が差し込んできたのである。
「敵の総数は?」
情報士官が即答する。
「総数およそ二千四百隻。三個艦隊へ分かれ、こちらへ接近中です」
トラヴァースは一拍だけ考えた。
正面スクリーンには、小惑星帯を含む戦域図が淡く浮かび、要塞サーペントの光点が包囲環の奥でかすかに脈動している。
「うむ……」
元帥は低く言った。
「要塞包囲に六百隻を残せ。残余は小惑星帯に布陣中の迎撃部隊へ合流する。急げ」
「はっ!」
その一声で、艦橋が一気に動き出した。
参謀たちが細部を詰め、連絡士官が各艦隊へ次々に指示を飛ばす。
陣形変更。補給艦後退。防御艦前進。砲戦距離算定。
無数の命令が、まるで生き物の神経信号のように艦隊全域へ走っていった。
やがて、長く仕える副官が、少しだけ口元を緩めて告げる。
「敵の第二艦隊司令官は、ユリウス=アストレア元帥とのことですぞ」
その名に、トラヴァースの眉がわずかに動く。
反乱側にあって急速に頭角を現した男。
それ以前に、トラヴァースやその幕僚においても恩人。
すでにその名は、帝国軍全体にも知れ渡っていた。
「……ほう」
トラヴァースは、そこでようやく椅子へ深く身を預けた。
そして、薄く、不敵に笑う。
「あの時の恩を……、あだで返すことになるやもしれんな」
その笑みには驕りも慢心もなかった。
ただ、強敵を前にした精悍な猛獣だけが持つ、静かな昂ぶりがあった。




