第七十六話……銀河の疫病
帝都ネオ=ベルゼブブ、皇宮地下深く。
幾重もの防音隔壁に閉ざされた秘密の長距離通信室には、淡い青光を放つ極低周波通信モニターが静かに唸っていた。
その前に立つのは、銀髪をきっちり結い上げた女――宰相ローゼンタールである。
冷たい美貌は夜の氷みたいに研ぎ澄まされ、その双眸だけが獲物を見定める猛禽のように鋭かった。
彼女はゆっくり椅子へ腰を下ろし、片肘をついて問う。
「……で、パニキアの最果てを知ったであろう者どもを、取り逃がしたと申すのか?」
モニターの向こう、荒い走査線の中に映るのは、禿げ上がった中年男の顔だった。
男は額の汗をぬぐいながら、かすれた声で答える。
「は、はい……誠に申し訳ありません」
ローゼンタールは、わずかに口角を上げた。
だがそれは笑みではない。
相手の喉元へ刃をあてたまま、ほんの少しだけ押し込むような表情だった。
「人間種殲滅教団の連中も、役立たずよな」
彼女は指先で机を叩く。
「毎年、あれほど多大な資金援助を流してやっておるというのに……」
男の喉が、目に見えて上下した。
「も、申し訳ありません。ですが、Pウイルスの件は順調でございます」
その瞬間、ローゼンタールの目が細くなる。
「……ふふふ」
低く、湿った笑いが通信室へ転がった。
彼女は身をわずかに乗り出し、モニターの向こうを覗き込む。
「それくらいは頑張ってもらわねば困る。でなければ、お前の首もずいぶん涼しかろうて」
「は、はい! お任せください!」
男はあわててうなずき、額から流れる汗を袖で乱暴に拭った。
そのみじめな姿を眺めていたローゼンタールは、もはや興味を失ったように視線を外す。
細い指が通信機の切断スイッチへ触れた。
ぷつり。
音もなく画面が暗転し、部屋には機械の低い駆動音だけが残った。
しばし沈黙。
やがてローゼンタールは、ひとりごとのように呟く。
「さて……もう外は夜か」
彼女はゆっくり立ち上がった。
机上の書類束、暗号鍵、消えたモニター。
そのどれにも未練を見せず、黒い衣の裾を翻す。
「新しいノクターン公爵様のご機嫌も取らねばのぉ……」
その声には、忠義も敬意もほとんど感じられなかった。
あるのはただ、権力という猛獣をどう飼いならすか、それだけを考える鋭利な知性である。
秘密通信室の扉が静かに開く。
その先には、皇宮の壁の内側へ巧妙に隠された石造りの階段が、闇の中へ上へ上へと続いていた。
ローゼンタールは一度だけ肩越しに暗い通信室を振り返る。
銀河の各地で走り出したいくつもの混乱を、謎の策謀で弄んでいる女が、ここにいた。
彼女は何事もなかったかのように階段を上りはじめる。
その足音は静かで、規則正しく、少しも迷いがない。
まるで銀河の運命すら、すでに自らの掌中へあると信じているかのようであった。
◇◇◇◇◇
丁度その頃――。
アーヴィング大公国の首都星グラウゼンでは、ユリウスが大公アーヴィングの御前で、パニキア連邦との外交成功を報告していた。
重い香の漂う病室は、宮廷らしい壮麗さを残しながらも、どこか死の気配を帯びていた。
天蓋付きの寝台へ身を横たえるアーヴィング大公は、以前の威圧感を失い、頬もひどくこけている。
それでもユリウスの姿を見るなり、かすれた声で笑った。
「ようやってくれた、婿殿! ゴホッ、ゴホッ……」
だが次の瞬間、激しい咳がその体を折り曲げた。
ユリウスは思わず一歩進み出る。
「大公閣下、ご無理なされますな。誰か! ご典医を急いでこちらへ!」
侍従たちが慌ただしく走り去る。
病床の大公は苦しげに息をつきながらも、なお目だけは強かった。
ユリウスが持ち帰った成果――パニキアとの秘密条約は、大公国の背後不安を大きく和らげるものだった。
だが、その一方で宮中では別の噂が、小さく、だが確かに広がっていた。
もし大公がこのまま倒れたなら、次に公国を継ぐのは誰か。
それはまだ口に出してはならぬ問いでありながら、すでに誰もが胸の内で数え始めている問いでもあった。
やがて典医が到着し、深く一礼する。
「アストレア侯爵様、最近、妙な流行り病が広がっておりましてな……」
「流行り病?」
「はい。侯爵様らがパニキアへ出立された前後より、大公国全土で謎のウイルスが猛威を振るっております。致死率は高くございません。ですが、患者の気力と体力を、まるで根こそぎ奪うような性質を持っております」
ユリウスの目が、わずかに険しくなる。
大公は寝台の上で力なく笑った。
「聞いての通りじゃ……余も、いつまで政務を執れることやら」
「弱気なことを仰いますな」
ユリウスは静かに、だがはっきり言った。
「閣下はすぐによくなりまする」
「そうかのう?」
「ええ。大公国には、まだ閣下のお力が必要です」
その言葉に、大公は少しだけ表情を和らげた。
まるで、その一言で胸の重石がわずかに軽くなったかのようだった。
その後、ユリウスはその足で参謀本部へ向かった。
待っていたのは、参謀総長ハルダー元帥、そして宇宙艦隊司令長官パウルス元帥である。
老練な二人は、立ち上がってユリウスを迎えた。
「侯爵閣下、外交の儀、誠に感謝に耐えませぬ」
「おかげで我が国は、背後を気にせず戦えるようになりました」
その礼は、儀礼だけではなかった。
パニキア連邦との取り決めがもたらした意味を、二人は骨身で理解していたのである。
ユリウスは椅子へ腰を下ろし、すぐ本題へ入る。
「……で、次はルドミラ教皇国への援軍と聞いておりますが」
「左様にございます」
ハルダーが地図盤を起動させた。
赤い戦線が空中へ浮かび上がる。
「侯爵閣下にも一軍を率いてご参陣いただきたい」
「わかっております。……では、作戦の概要を」
パウルスが前へ出た。
「帝国軍は現在、教皇国外縁の攻略を進めております。我らは増援を送り、戦線の崩壊を防がねばなりません。ただし、公国軍正規兵のみでは兵力が足りませぬ」
「つまり、私の軍は」
「侯爵閣下配下の諸貴族家、その私兵の集合体にございます」
ユリウスは静かにうなずいた。
最初から分かっていたことだ。
大公国軍の正規兵力は、巨大な帝国と正面から殴り合うには少なすぎる。
この戦は、はじめから各地方貴族家の私兵を寄せ集め、辛うじて形にしている戦争だった。
地図盤の赤い光が、彼の顔を照らす。
重要な外交を終えたばかりだというのに、休む暇はない。
病む大公。広がる疫病。崩れかけた同盟戦線。
そのすべてが、若き侯爵の肩へ次々とのしかかってくる。
だがユリウスは、もう迷う顔をしていなかった。
「了解しました。出陣準備に入ります」
その声は若い。
けれど、もはやただの辺境領主のものではなかった。




