第七十五話……異次元の海
海賊船「モリガン」は、偽装商船「銀の秤」からおよそ二時間遅れでワープを敢行していた。
重力振の共鳴を避けるためである。
もし近接した時間差で同一航路へ飛べば、位相の乱れから航跡を読まれる危険があった。
護衛である以上、影のまま付いてゆく必要があったのだ。
だが、ワープアウトした直後、艦橋の空気が一変する。
「なんだあれは!?」
正面スクリーンに映ったのは、「銀の秤」を左右から挟み込む二隻の武装船だった。
朱色の船体。細長い艦首。獲物へ喰らいつく寸前の牙のような電磁砲塔。
ただの警備艇ではない。
その配置、その間合い、その殺気だけで十分だった。
ツーシームは寝起きの気だるさを一瞬で捨て、鋭い声を飛ばす。
「砲撃長! 電磁砲、発射用意! 方位F-304、D51!」
「了解!」
艦橋に緊張が走る。
だが、すぐ横からトロスト技師が慌てて口を挟んだ。
「いやいや、少し様子を見るべきです! ここで撃てば「銀の秤」は助かるでしょうが、戦闘を起こせば連邦の艦艇がすぐ寄ってきます!」
その理屈はもっともだった。
ここは敵地深く。
一発でも派手にやれば、周辺宙域の監視網が目を覚ます。
「モリガン」の秘匿行動も、ユリウスの帰還路も、一気に危うくなる可能性があった。
だがツーシームは、まるで迷わなかった。
「いや、乗り込まれてからじゃ遅い。砲撃開始だ!」
その一言で、皆のためらいは消えた。
次の瞬間、「モリガン」前部甲板の電磁砲塔が火を噴く。
加速された徹甲弾が暗黒を裂き、二隻の武装艇の後方へ突き刺さった。
狙いは見事だった。
前面装甲ではなく、防御の薄い機関部側面から後尾寄りを射抜いたのである。
「一番艦、命中!」
「二番艦、続けて命中!」
朱色の船体が「くの字」に歪み、わずか二秒も耐えられず爆散する。
閃光。破片。噴き出す火球。
二隻の武装艇は、宇宙の藻屑となって四散した。
ツーシームは間髪入れず怒鳴る。
「商船『銀の秤』へ打電! 我に構わず逃走すべし!」
「了解!」
「送信完了しだい急速潜航!」
「了解!」
通信が飛ぶ。
そのわずかな間にも、「モリガン」の位相エーテル機関は深い唸りを増していた。
そして次の瞬間、艦体は現実宇宙の輪郭から滑り落ちるように沈み込み、再び異次元の深淵へ姿を消す。
だが同時に、危険な狼煙も上がった。
爆沈する間際の警備艇により、海賊船「モリガン」の位置は近隣のパニキア連邦の基地へと知らされたのであった。
◇◇◇◇◇
星系外縁の闇を、歴戦の海賊船「モリガン」が這うように進んでいた。
だが、異次元潜航中の速度は通常航行よりはるかに遅い。敵の目を欺けても、追いつかれぬ保証まではなかった。
探信儀へ顔を寄せていた情報士官が、ひきつった声を上げる。
「敵艦艇、接近!」
艦橋の空気が一気に張りつめた。
正面スクリーンの彼方、星系外縁の暗黒へ、連邦艦艇の識別灯が六つ浮かぶ。
それはまるで、深海の獣が光る眼で獲物に追いすがるような光景だった。
「後方、パニキア連邦の高速巡洋艦! 照準波、来ます!」
赤い警報灯が艦橋を染める。
古びた隔壁が低く唸り、計器盤が細かく震えた。
ツーシームは片目を細め、歪み始めた星図を睨む。
次の瞬間、敵巡洋艦の腹部ハッチが開いた。
射出されたのは、黒銀の杭が十八本。
対異次元潜航艇用兵器である「虚空杭雷」であった。
それらは青い尾光を引きながら、異次元の海へ沈むモリガンの残影を追った。
そして、杭の先端が一斉に紫電を噴く。
「まずい!」
空間そのものへ亀裂が走った。
異次元の暗流が泡立ち、つづいて凄まじい爆発が艦を襲う。
爆圧は見えない濁流となって船尾へ噛みつき、装甲を歪ませ、白い衝撃波となって艦内を駆け抜けた。
床が跳ねる。
スクリーンが傾く。
乗員たちは椅子や計器盤へ叩きつけられ、悲鳴と金属音が重なった。
「隔壁損傷! 第三区画、位相膜損耗! 虚圧が艦内へ侵入しています!」
天井から火花が雨のように降る。
割れた端末片が若い通信士の頬を裂き、操舵手は肩を押さえながら片手で舵輪へしがみつく。
ビッグベアは倒れた機関員を抱え上げ、支柱の陰へ転がすように避難させた。
「医療班! 死んでない奴から先に見ろ!」
その怒号の中でも、ツーシームだけは冷えていた。
血のにじむ唇をぬぐい、傾いた戦術盤を見つめる。
「まだ沈んじゃいないね。沈没偽装だ。デコイ用の船体部品をばら撒け」
「了解!」
軋む船体が低くうなり、偽の破片が表の宇宙へ散ってゆく。
浮上して撃ち合ったところで、敵地奥深くでの六対一。勝ち目はない。
「エーテル機関停止。死んだふりだ」
「了解!」
それからの時間は、地獄だった。
異次元へ長く潜れば、位相干渉が蓄積し、船体は虚圧に汚染されていく。
隔壁はきしみ、空気は濁り、乗員の精神と肉体はじわじわ蝕まれる。
何時間経ったのか、もう誰にも分からない。
歴戦の船員ですら次元酔いを起こし、食ったものを床へ吐き散らす。
血、胆汁、焦げた配線の臭い。
モリガンの通路は、生きたまま棺桶へ押し込められたような異臭に満ちていた。
だが、そこで天がわずかに味方した。
近隣恒星が突如として恒星風を吹き上げたのだ。
猛烈な磁気嵐が宙域をなめ、観測も射撃もまともに成り立たなくなる。
情報士官が、かすれた声で叫ぶ。
「敵艦、引き上げていきます!」
ツーシームの目が鋭く光る。
「よし、急速浮上。すぐワープだ。ここで逃げ切るよ!」
満身創痍のモリガンは、裂けかけた位相膜を引きずりながら異次元の海を這い上がる。
そして、傷だらけの船体へ最後の力を振り絞らせ、危険宙域からの離脱を開始した。
海賊船モリガンはまだ沈まない。
この程度で沈むようなら、とうの昔に宇宙の藻屑であったかもしれない。




