第七十四話……帰路の関門
謎の管理室に心を奪われたのは、何といってもトロスト技師だった。
古代技術の残滓がそのまま息づくような場所を前にして、彼の指先は落ち着かず震えていた。
「船長、せめてあと半日! いや、三時間でもいい! あの制御盤だけでも解析できれば、文明史がひっくり返るんですよ!」
だがツーシームは、さっさと踵を返していた。
「ひっくり返るのは結構だがね、今回はユリウス坊やの護衛なんだ。優先順位ってもんがあるでしょ」
「うう……っ」
結局、「モリガン」は未練を振り切るように小惑星を離脱し、惑星ゲフェニアへ針路を向けた。
連邦の警備艇網を避け、時に次元の狭間へ身を沈め、時に通常空間の小航路へ紛れ込む。
神経を削る潜航が続き、八日後、ようやくゲフェニア近郊宙域へ到達したのである。
その頃、惑星ゲフェニアでは――。
最高評議員の邸宅、その奥まった応接室にて、ユリウスは待ち望んでいた言葉を受けていた。
「アストレア侯爵殿、概ねの部分は合意できました」
粘つく緑の手を組んだ評議員は、慎重な目つきで続ける。
「ただし、残念ながら我が最高評議会としては、表立って帝国内の勢力争いへ肩入れはできませぬ。ゆえに、形式は秘密条約となります」
ユリウスは深くうなずいた。
「ええ、それで構いません。ご助力、感謝します」
差し出された粘液だらけの手を、彼はためらわず握った。
その顔には、久方ぶりに晴れやかな笑みが浮かんでいる。
だが評議員は、そこで声をひそめた。
「もう一つ。人間どもと手を組むなど許せぬ、という急進的反対派もおります。どうか、その点はご留意を」
「お気遣い、感謝です」
その忠告を受けたユリウスたちは、反対派の目を避けるため、邸宅地下に掘られた秘密通路を通って脱出した。
湿った石壁の回廊を抜け、ようやく地上へ出た時、グレゴールが小さく息を吐く。
「交渉中より、帰り道の方が危ういとは思いませんでしたな」
「外交なんて、そんなものなのかもね……」
やがて宇宙港近くの高級ホテルへ到着すると、待ちかねていたヘッジボックが駆け寄ってきた。
「侯爵様、お待ちしておりましたぞ!」
「心配をかけたね」
再会の喜びもそこそこに、一行は魚の泳ぐ水路を進む水上タクシーへ乗り込む。
異星の灯が水面に揺れ、ゲフェニアの夜景が静かに遠ざかっていった。
秘密条約を懐へ抱えたまま、彼らは帰路へ就こうとしていた
◇◇◇◇◇
惑星ゲフェニアの宇宙港。
ユリウス一行は、軌道往復運航船へ乗り込むと、轟音と共にロケット点火、一直線に惑星軌道上の宇宙桟橋へ打ち上げられた。
窓外で雲海が裂け、蒼い大気が薄れ、やがて黒い宇宙が広がる。
その先には、無数の作業灯をまとった宇宙桟橋が、巨大な骨格のように静かに浮かんでいた。
桟橋へ接岸後、一行は待機していた星間ギルドの商船「銀の秤」へ乗り込む。
古びた船腹はあちこちに補修跡があり、見るからに年季が入っていた。
ヘッジボックは機関席へ腰を落ち着け、手慣れた動作で起動系を叩く。
「ぼろ船のかわい子ちゃん、ちゃんとご機嫌よく動いてくださいね……」
祈るような呟きの後、古びたエーテル機関が低く唸った。
一度、二度、危なげな咳き込みのような振動を見せたが、どうにか出力は安定する。
艦体がゆっくり桟橋を離れ、無事に惑星ゲフェニアを後にした。
その後、「銀の秤」は通常航行で星系外縁へ達し、二度の短距離ワープを敢行した。
ここまで来れば、いったんは警戒圏を外れたはず――誰もがそう思っていた。
だが、現実は甘くなかった。
「前方に接近物2! 武装警備艇です!」
操舵士の声が、艦橋の空気を一瞬で凍らせる。
正面スクリーンに映し出されたのは、二隻の小型武装艇だった。
細身の船体。前傾した砲塔。表面は、朱色の対ビームコーディングが施されている。
その異様な色彩だけで、ただの連邦正規哨戒艇ではないと知れた。
次の瞬間、艦内通信へ金属質な怒声が割り込む。
「停船セヨ! タダチニ機関ヲ停止セヨ!」
ヘッジボックは顔色を変え、叫んだ。
「エーテル機関停止! 早く! ここで抵抗の意志を見せたら終わりだ!」
おんぼろ商船である「銀の秤」は急ぎ機関を絞り、推進光を消した。
無抵抗を示すため、姿勢制御だけを辛うじて残し、宇宙の闇へ静かに漂う。
ヘッジボックは艦橋脇の窓へ張りつき、接近してくる警備艇の船体紋章を見た瞬間、喉を鳴らした。
「……い、いかん。あれは……『人間種殲滅教団』だ」
グレゴールの顔が険しくなる。
「何ですと?」
ヘッジボックの声は震えていた。
「パニキア連邦の過激派の政治結社です。人間相手なら、捕虜すら取らぬ。帝国の版図にまで悪名が知れ渡っている奴らです」
ユリウスの胸の内で、冷たいものが沈んだ。
ここで命を落とすだけでも致命的だ。
だが、それ以上にまずいのは、懐にある秘密条約締結書だった。
これを奪われれば、アーヴィング大公国の対パニキア外交そのものが瓦解しかねない。
操舵士が叫ぶ。
「船長、いまなら再起動して逃げられるかもしれません!」
「無駄だ!」
ヘッジボックは即座に怒鳴り返した。
「今ここで動けば、確実に撃沈される! あの距離で電磁砲を食らったら、この船は紙切れ同然だ!」
スクリーンの向こうで、朱色の武装艇がゆっくり左右へ開く。
逃げ道を塞ぐような配置だった。
その艦首から伸びる電磁砲身は、すでに「銀の秤」へ照準を合わせている。
甲板側面では、接舷用のアームまで展開され始めていた。
グレゴールが低く囁く。
「閣下、もしもの時は、私が囮になります。書類だけでも――」
「駄目だ」
ユリウスは短く遮った。
「ここで二手に散れば、かえって怪しまれる」
「しかし……」
「まだ終わっていない」
そう言ったものの、額には冷たい汗がにじんでいた。
艦橋の全員が息を潜める。
古びた商船の中で、誰もが次の一秒を怯えながら待っていた。
朱色の武装警備艇が、獲物へ喰らいつく寸前の肉食獣のように、じりじりと距離を詰めてくる。
そしてついに、外部回線へ新たな声が響いた。
「人間乗員ノ身柄確認ヲ要求スル。応答セヨ。応答ナキ場合、船体ヲ切開スル」
その言葉に、艦橋の空気は完全に凍りついた。
秘密条約か。
命か。
あるいは、その両方か。
「銀の秤」は今、帰路の虚空で、最悪の関門へ突き当たっていた




