第七十二話……宇宙の入り口
聖帝国暦六四五年八月下旬――。
ユリウスたちが惑星ゲフェニアでパニキア連邦との交渉に臨んでいた頃。
海賊船「モリガン」は連邦の広大な索敵網を避けるため、近隣小惑星帯の陰でじっと息を潜めていた。
砕けた岩塊の群れが鈍く星光を返し、艦内には退屈と緊張が入り混じった、妙に気の抜けた空気が漂っている。
艦長室の隅。
ツーシームは長椅子に寝っ転がり、片手に安酒、口元に安煙草という、ひどく締まらぬ格好で天井を眺めていた。
そこへ、荒鷲の金印を持つ少女が、つかつか歩み寄ってくる。
「おい、いい所に連れていってやろうか?」
ツーシームは片目だけ開けた。
「……ん? こんな知らない宙域で、土地勘なんてあるんですかい?」
少女は鼻で笑う。
「あるよ。行く? 行かない?」
その言い方には、幼い顔に似合わぬ妙な確信があった。
ツーシームはしばし相手の目を見つめ、それから上体を起こす。
糸を引く紫煙がゆらりと流れた。
「まあ、そう言われちゃ、行かないって選択肢はないでしょうね」
彼女は煙草へ火をつけるなり、艦橋へ向かって怒鳴った。
「トム! みんなに、休憩は終わりだって伝えな!」
副長ビッグベア――トムが、岩でも転がるような声で応じる。
「了解です、船長!」
次の瞬間、艦内の空気が一変した。
食堂で飯をかきこんでいた者、便所で一息ついていた者、仮眠室で転がっていた者まで、船員たちが慌ただしく持ち場へ走り出す。
誰もがこの船では、ぐうたらな艦長の命令こそ、最も敬意を表すべき存在だったのだ。
艦橋へ入ったツーシームは、戦術盤の青白い光を眺めつつ、にやりと笑う。
「急速潜航。次元断層の谷間へ潜るよ」
操舵士が振り向く。
「了解! ヨーソロ!」
「モリガン」の船体が低く唸った。
位相エーテル機関が脈打ち、現実宇宙の輪郭がゆっくり歪みはじめる。
窓の外では小惑星群がぐにゃりと引き延ばされ、星々は糸のような光条へ変わっていった。
次元の狭間を縫うように進むこの感覚は、並の船乗りなら正気を失う。
だが「モリガン」と乗員たちは、巡洋艦級の巨体でありながら、その狂気じみた潜航を平然とやってのける。
少女は艦橋後方で腕を組み、前方の闇をじっと見ていた。
まるで、この先に何があるか、本当に知っている者の顔で。
ツーシームは煙を吐き、横目でその小さな背を見やる。
「お手並み、拝見といきますかねぇ……」
かくして海賊船「モリガン」は、次元断層の深い谷間を伝いながら、パニキア連邦奥地――人類未踏とされる宙域へ、静かにその針路を向けた。
その先で彼女たちを待つものが、財宝か、秘密か、それとも古い亡霊か。
まだ誰も知らなかった。
◇◇◇◇◇
聖帝国暦六四五年九月初旬――。
《モリガン》の息が詰まるような航海は、十日間にも及んだ。
通常空間のみならず、次元の狭間すら縫って進む連続ワープは、いかに熟練の乗員であっても骨身を削る。
位相エーテル機関のうなりは艦内の床を絶えず震わせ、慣れた者でさえ、食欲をなくし、眠りは浅くなり、夢の中まで星の軌跡に追い立てられる。
だが、今回はただの遠征ではない。
本当の任務はユリウス一行の護衛である。
時間を無駄にはできなかった。
航路モニターの前で、荒鷲の金印を持つ少女が、すっと指を伸ばす。
「この小惑星が目的地じゃ」
その声は幼いのに、妙に確信に満ちていた。
表示された宙域は、もはやパニキア連邦の版図に含めるのもためらわれるほどの辺境である。警戒網も、巡察艇の航路も、ここまでは伸びていない。
操舵席のツーシームが気だるげに返す。
「あいよ」
「モリガン」は静かに針路を変えた。
だが、目標へ近づくにつれ、艦橋の空気が変わる。
「……船長! これを見てください!」
航海長の声は裏返っていた。
正面レーダーが異常反応を捉えたのだ。
そこにあるのは、ただの岩塊ではない。前方宙域いっぱいに、巨大な「壁」が立ちふさがっているかのような観測結果だった。
「ん!? これは……」
普段はどこか腑抜けた顔をしているツーシームの目が、すっと鋭く細くなる。
副長ビッグベアも、太い腕を組んだまま唸った。
「岩じゃねえな。空間そのものが詰まってるみたいだ」
航海長が半ば本気で振り返る。
「ひょっとして……宇宙の果て!?」
その言葉に、少女はくすりと笑った。
「宇宙に果てなんかないよ。帝国の子供ですら、みんな知ってることじゃないか」
「まあ、そうなんですけどね……」
航海長は気まずそうに頭をかく。
だが、観測機器は依然として「終端」めいた何かを示し続けていた。
ツーシームは椅子にもたれたまま、少女をじろりと睨む。
「じゃあ、ここはどこなんだい?」
少女は壁のような反応を見つめ、静かに答えた。
「ここは宇宙の入り口じゃよ。むしろ、私たちが普段いる宙域の方が、歪んでいるのかもしれない」
「……分かんねえな」
ビッグベアが率直に吐き捨てる。
だがツーシームは、その愚痴を手で制した。
「続けな。で、どうすりゃいい?」
少女はモニターの一角を指さした。
「あそこの隙間へ船を進めて」
「あいよ」
操舵士が慎重に艦首を向ける。
すると、小惑星の表面にまぎれていた裂け目のような部分が、近づくにつれて輪郭を現した。
天然の窪みではない。
明らかに人工物で削り出された、巨大な入り江だった。
「こんなところに、冗談だろ……」
誰かが呟く。
「船をつけな」
少女は平然と言う。
海賊船「モリガン」がそろそろと接岸可能域へ寄せられると、入り江の内壁が低く唸り、船体を抱え込むように閉じていく。
次の瞬間、外部は完全に遮断された。
真空排除。
圧力上昇。
酸素濃度、適正化。
艦橋の表示板に、信じがたい数値が並ぶ。
「……施設が生きている」
随伴していたトロスト技師が呆然と呟いた。
少女は振り返り、まるで自分の家へ客を招くように言った。
「さあ、行こうか」
ツーシームは安煙草を揉み消し、腰のブレードを確かめる。
「とんでもない所へ連れてきてくれるねぇ」
一行が外へ出ると、そこには古びているのに朽ちていない通路が伸びていた。
壁面には見知らぬ紋章が刻まれ、薄青い光が脈打つように走っている。
その狭い通路の先に、ひとつの扉。
少女は何のためらいもなく金印を掲げた。
かちり、と乾いた音が響く。
封印が解けるように扉が左右へ開いた。
その先にあったのは、戦場でも財宝庫でもない。
静まり返った、小さな管理室のような空間だった――




