第六十九話……目覚めた金印
夜明け前の薄青い光が、ヴァルカンの館の回廊へ静かに差し込んでいた。
ユリウスが外交使節として出立する朝――その少し前、ツーシームは館の奥に設けられた一室へ足を向けていた。
荒鷲の金印を持つ少女。
帝国軍特殊部隊が昨夜あれほど執拗に探した以上、もはやこの館も絶対安全とは言い切れない。
どこか別の隠し場所へ移す必要があった。
「さて、寝ぼけ眼のまま運ばれてくれると助かるんだがねぇ……」
安煙草をくわえたまま、ツーシームは扉を押し開けた。
だが、そこで彼女の足が止まる。
「……ん?」
部屋の中央に、少女が立っていた。
いつもは伏せがちで、どこか夢の中を漂うような目をしていた娘が、いまは背筋を伸ばし、凛とした面持ちでこちらを見返している。
あきらかに空気が違った。
ただ起きているのではない。自分が誰であるかを、ようやく思い出した者の眼だった。
ツーシームは片眉を上げ、煙を細く吐いた。
「お加減はどうさね?」
少女は小さな顎を上げる。
「悪うない。余は、ようやく記憶を取り戻したぞ……」
その言葉は幼い顔立ちに似合わぬほど重く、古い響きを帯びていた。
ツーシームは一瞬だけ黙り込み、それから肩をすくめて笑う。
「あはは、そいつはめでたい。……いや、こっちの都合で言えば、もうちょっと忘れていて欲しかったんだけどね」
少女は「ふん」と鼻で笑うだけだった。
だが、その仕草にさえ、ただの怯えた娘にはない気品がある。
荒鷲の金印。
帝国が血眼になって追う理由が、ようやく輪郭を持ってきた気がした。
「余をどこへ連れてゆく気だ?」
「安全な場所さ。少なくとも、昨夜みたいに犬ころが窓から雪崩れ込む場所じゃない」
「そなた、存外に世話焼きだな」
「海賊と商売人はねぇ、預かった品が傷つくのを嫌うのさ」
少女はわずかに目を細めた。
その視線は幼いのに、妙に人を洞察し値踏みする。
ツーシームは心の中で舌を巻いた。
――こりゃ本物だねぇ。
そのころ館の表では、ユリウスの出立準備が整っていた。
正門前に待つ陸上ホバークラフトの周囲には、護衛のSPたちが忙しく動いている。外交使節の旅とはいえ、向かう先は異星人国家パニキア。
警戒は当然だった。
二階のバルコニーへ出た幼い妻イオナが、身を乗り出すように手を振る。
「あなた、行ってらっしゃいませ!」
下で振り返ったユリウスは、硬い表情をわずかに和らげた。
「ああ、行ってくる」
短いやり取りだった。
だが、その一言の裏には、若い侯爵としての責任も、夫として戻らねばならぬ想いも、どちらも込められていた。
ユリウスはSPと共にホバークラフトへ乗り込み、宇宙港都市レンドへ向けて走り出す。
朝靄を切り裂く機体を窓越しに見送りながら、ツーシームは少女へ視線を戻した。
「さあて、あっちも外交なら、こっちも引っ越しだ。お姫様、少しばかり急ぎますよ」
少女は静かにうなずく。
その瞳には、ようやく戻った記憶の火が、かすかに燃えていた。
◇◇◇◇◇
宇宙港レンドの発着塔は、朝から灰色の蒸気と警告灯のまたたきに包まれていた。
発着管制のアナウンスが幾重にも重なり、貨物リフトが唸り、地上勤務員たちが忙しなく走り回る。
そんな喧騒の中で、ユリウス一行を待っていたのは、星間ギルドの商人ヘッジボックだった。
細身の身体を上質な外套で包んだ男は、にこやかに一礼する。
「公爵閣下、どうぞこちらへ。発進準備はすでに整っております」
ユリウスは軽くうなずいた。
「……うん、頼むよ」
星間ギルドは国家に縛られぬ商業共同体である。
帝国の内乱にも、共和国との対立にも、異星人国家パニキアとの境界にも、商いの道があるなら船を通す。
ゆえに、正式な国交を持たぬパニキアへ赴く今回の航海で、ユリウスが選んだのは軍艦ではなく、この星間ギルドの商船のチャーターだった。
搭乗シャトルへ乗り込むと、操縦士が振り返りもせず告げた。
「全員、ベルトを締めてください。発進します」
「頼む」
短い返答の直後、機体が低く震えた。
ヴァルカン級の大気圏では、燃料を食う大型船を地表まで降ろすのは非効率である。
ゆえに中型以上の船舶は衛星軌道上の宇宙桟橋に繋がれ、地上との往復は専用シャトルが担う。
それが、この世界の常識だった。
やがて窓の外で大気が薄れ、黒い宇宙へ出る。
無数の作業灯をまとった宇宙桟橋が、巨大な鋼の蜘蛛の巣のように広がっていた。
その先端に、今回の足となる星間ギルドの商船が静かに待っている。
武装は最小限、外見は平凡。
だが、その平凡さこそが国境越えの商人には何よりの擬態だった。
「ようこそ、『銀の秤』へ」
ヘッジボックが胸を張る。
「見た目は地味ですが、足は速い。加えて口も堅い船です」
「商人には、その二つが重要なのだろうな」
「ええ、命よりも大事な時すらあります」
ユリウス一行が商船へ乗り込むころ。
その二光秒後方、常識の外側に、もうひとつの影があった。
位相空間へ身を沈めた次元潜航海賊船「モリガン」。
現実宇宙の縁をなぞるように異次元潜航を続けるその艦は、秘密裏にユリウスの護衛任務についていたのである。
艦橋で戦術図を眺めていたツーシームは、背後から飛んできた声に肩をすくめた。
「おい、お前。急がぬと置いていかれるぞ」
振り向けば、荒鷲の金印を持つ少女が腕を組み、いかにも不機嫌そうな顔で立っている。
まだ幼いはずなのに、その物言いだけは妙に年寄りじみていた。
「へいへい、分かってますよ、お姫様」
「姫ではない。余を軽んずるでない」
そのやり取りを聞いた船員の一人が、呆れたように口を挟む。
「船長、誰です? このクソ生意気な小娘は?」
ツーシームは、安煙草の煙をくゆらせながら、こともなげに答えた。
「うん? 次の皇帝陛下様だよ。みんな、失礼の無いようにな……」
一瞬、艦橋が静まり返る。
それから、何人かが吹き出した。
「またまた、ご冗談を」
「船長の悪い癖だ」
「そのへんの酒場で拾った子じゃないんですかい?」
ツーシームは笑ってごまかすだけだった。
だが少女は笑わない。
ただ細い目で、船員たちを順に見回した。
その視線だけで、古びた王冠の重みのようなものが、ほんのわずかに伝わった。
数日後――。
その冗談めいた一言が、どうやら冗談ではなかったらしいと、船中の誰もが知ることになる。
そうなった頃には、「モリガン」の船内の空気は少しだけ変わっていた。
誰もあの少女へ、軽口を叩かなくなっていたのである。




