第六十六話……停戦の代償
停戦成立の報せが銀河を駆けめぐった翌日――。
ヴァルカン軌道上、アルテミス商会の私室では、場違いなほど気の抜けた空気が流れていた。
長椅子にだらしなく寝ころび、ツーシームは片脚を投げ出したまま新聞を広げている。
唇の端には、いつもの安煙草。紫がかった煙が、照明の下でゆらゆらとたなびいた。
紙面の一面には大きな活字が躍っていた。
――帝国中央政府軍、アーヴィング家率いる反乱軍、停戦成立。
――グラストヘイム要塞戦線、当面の戦闘停止へ。
ツーシームは鼻で笑った。
「ようやくかい。随分と高くついた花火だったねぇ」
その声には、呆れ半分、満足半分の色があった。
今回の戦は、同じ帝国圏に属する者同士が噛み合う内輪揉めに近い。異星人相手の外征戦争とは訳が違う。
補給線の先にも後ろにも、敵味方と縁を持つ地方貴族家がいる。
交易路が詰まれば、その領内経営は痩せる。鉱山の産出は滞り、農業衛星の資材も届かず、税収もまた細る。
つまり――。
戦場で勝ちさえすればよい戦ではない。
帝国中央も、アーヴィング家も、地方貴族たちの支持なしには戦争を続けられぬ。
兵も金も糧食も、最後にはそこへ行き着く。内乱とは、剣だけでは終わらぬ戦なのであった。
ツーシームは灰を落とし、新聞の経済欄へ視線を滑らせた。
そこには、停戦成立を受けた星間株式市場の混乱が細かく載っていた。
造船。鉄鋼。軍需輸送。
いずれも戦時特需を見込んで買い上げられていた銘柄である。
だが停戦の一報で流れは一変し、値は崩れ、投げ売りが投げ売りを呼んでいた。
彼女の口元が、ゆっくり吊り上がる。
「ゾル婆、そろそろゆっくり買いを入れてみるかね?」
部屋の隅で端末をいじっていたゾル婆が、顔も上げずに答えた。
「あいよ。どのへんから拾うんだい?」
「まずは造船屋だ。慌て者が投げた分を、底でさらう。鉄鋼も悪くないね。停戦したからって、艦隊が消えるわけじゃない。傷んだ船は直さにゃならないし、要塞だって補修が要る」
「……ほほう。狼狽売りした連中の逆を行くってわけだね」
「そういうこった」
数日前。
停戦の気配を、誰より早く嗅ぎつけていたアルテミス商会は、戦時特需銘柄を大きく売り浴びせていた。
グラストヘイム戦線での空気の変化も、極低周波通信から拾った断片も、彼女らには十分な材料だった。
市場が事態を理解した頃には、もう遅い。
落ちる前に売り抜けた者だけが笑う。
その結果、商会にもたらされた利益は、もはや「ひと儲け」などという可愛い言葉では済まなかった。
巨万の富。
それも、血の臭いがまだ戦場に残るうちに転がり込んだ金である。
ツーシームは新聞を胸の上に落とし、天井を見た。
「戦争ってのは、勝っても負けても誰かが泣く。だが、市場ってやつぁ、その泣き声がする前に動く。まったく、嫌な世界だよ」
ゾル婆がカラカラ笑う。
「船長は、そういう世界が得意な変な海賊さね……」
「荒事だけじゃ、今の海賊は食えないからねぇ」
安煙草の先が、じり、と赤く灯る。
停戦で戦は止まった。だが、金の流れは止まらない。むしろ人が安心した直後こそ、新しい獲物が市場へ転がる。
ツーシームは片目を細め、ゆっくり煙を吐いた。
「さて。次は誰が、平和って言葉に浮かれて財布を落とすかねぇ」
その顔は、戦場を渡る海賊というより、歴戦の相場師と言うに相応しかったかもしれない。
◇◇◇◇◇
停戦は成った。
だが、その成立と同時に、あらたな火種となったのがグラストヘイム要塞の帰属であった。
帝国中央は、当然のごとく返還を要求する。
一方で、大公国側が要塞を明け渡せばどうなるかは、誰の目にも明らかだった。
帝国軍は体勢を立て直し、補給を整え、ほどなく再侵攻してくるに違いない。
宇宙図の停戦線の上に載ったまま、要塞はなお剣の柄であり続けていたのである。
アーヴィング大公は、執務室の深い椅子に身を沈め、重々しく口を開いた。
「……やはり、断るべきだな?」
呼び出された大公国軍参謀総長、ハルダー元帥は、白髪交じりの頭をわずかに垂れた。
「いえ、閣下。そのように断じてはなりません」
「ほう?」
「返さぬ、では早すぎるのです。条件次第では返す用意もある――その振りを続けねばなりません。でなければ、この停戦そのものが壊れかねませぬ」
大公は眉をひそめた。
「要するに、時間を稼げという話か」
「左様にございます。その間に、我らは新たな同盟相手を得ねばなりません」
室内に沈黙が落ちた。
窓外には、帝都から遠く離れた辺境国家の首府らしく、武骨な防空塔群が灰色の空へ突き出している。
アーヴィング大公は指先で机を軽く叩き、やがて低く問うた。
「どこに、その相手がいる? 旧第五総管区のルドミラ教皇領とは、すでに盟約を結んでおるぞ」
ハルダーは、そこで一拍置いた。
まるで、その名を口にするだけでも室内の空気が濁るのを承知しているかのように。
「……パニキアの異星人どもにございます」
大公は身を起こした。
「なんだと?」
その声には、露骨な嫌悪が混じっていた。
「奴らは古来より帝国の敵だ。辺境を荒らす蛮族どもではないか。そのような者らと手を結べと言うのか?」
「お怒りはごもっともにございます」
ハルダーは表情を崩さぬまま続けた。
「しかし、教皇領と我が国の力を足してなお、帝国中央とは国力で五倍以上の差がございます。これは私の独断ではなく、伯爵級以上の会議で出た結論でもあります」
「……五倍か」
「はい。正面から持久戦を続ければ、いずれ干上がるのは我らにございます。ゆえに、帝国の背後を常に不安定にしておかねばなりません。パニキアとの接近は、そのための楔でございます」
大公は長く息を吐いた。
嫌悪は消えぬ。だが、数字が示す現実は、誇りだけでは動かせない。
停戦は勝利ではない。ただ、次に備えるための薄い氷でしかないのだ。
「ふむ……」
彼は椅子の肘掛けを指でなぞりつつ、やがて言った。
「では、外交使節は誰がよい?」
ハルダーは即答した。
「ユリウス侯爵閣下がよろしいかと」
「異星人を相手にするには、若過ぎではないか?」
「若いからこそにございます。いまやグラストヘイム戦線で名は売れました。加えて、あの者は辺境の出にございます。ゆえに帝国流の虚飾に染まっておりません」
大公は鼻を鳴らした。
「なるほど。異星人相手に、帝都流の気取りは通じぬか」
「むしろ、害になりましょう」
ふたたび短い沈黙。
やがてアーヴィング大公は、深く椅子にもたれたまま片手を振った。
「よかろう。良きに計らえ」
ハルダー元帥は、かしこまって一礼する。
「はっ」
その瞬間、ひとつの外交任務が急ごしらえで定まった。
停戦線の向こう側で、帝国中央が牙を研ぎ直すその前に。
教皇領との盟約だけでは埋められぬ力の差を、さらに別の秤で釣り合わせるために。
こうして、ユリウスのパニキア行は、慌ただしくも決定されたのであった。




