第六十五話……潜航
巨艦「ハンニバル」の現在位置から、およそ六光秒。
その虚空に、音もなく一本の潜望鏡が浮かび上がっていた。
否。
正確には、浮かび上がったように「見えた」だけである。
新型海賊船「モリガン」は依然として位相空間の膜を半ば残したまま、現実宇宙の縁に爪をかけている。
巡洋艦級の船体で異次元潜航を維持するなど、本来なら狂気の沙汰であった。
だが、その狂気を形にしたのが、いまこの艦である。
潜望鏡越しに戦場を覗いていたツーシームは、細く息を漏らした。
「……へぇ、やるじゃないか。あの巨艦」
視界の彼方では、「ハンニバル」が帝国軍の集中砲火を正面から受け止めていた。
幾百もの火線。無数の誘導弾。
それらをものともせず進む艦影は、もはや艦艇というより移動する要塞であった。
隣に控えるトロスト技師が、乾いた笑みを浮かべる。頬はこけ、指先はかすかに震えていたが、声音だけは妙に弾んでいた。
「そりゃあそうでしょう。あの艦の主機関、燃料はエーテルじゃない。小型とはいえ、人工重力井戸――要するに、ブラックホールです」
「本物かい?」
「ええ。本物ですとも。生きた地球文明の超兵器。帝国中枢の工廠でも、あそこまで頭のおかしい代物はそうそう作れません」
ツーシームは片眉を上げた。
「褒めてるのか、けなしてるのか、よく分からないねぇ」
「技術屋にとっては最大級の賛辞ですよ」
彼女は再び潜望鏡に目を戻した。
「ハンニバル」の艦腹には、あの巨大な砲身が抱え込まれている。
戦場へ現れた瞬間から、帝国軍はあれを恐れていた。だが。
「だが、やはり撃てないようだね?」
そのひと言で、トロストの笑みがわずかに薄れた。
「ええ。火器管制はまだ沈黙したままですな。防壁も対空火器も化け物じみているが、肝心の牙が閉じたままです」
「それさえ出来れば、単艦で帝国軍を追い払うこともできように……」
「できましょうな。いや、追い払う程度で済むかどうか」
ツーシームは舌打ちし、潜望鏡から目を離した。
艦橋に投影された簡易戦術図では、「ハンニバル」を中心に帝国軍の針路が歪んでいる。
一隻が戦場の戦術力学そのものを書き換えていた。
「ヤツを前にしては、この新型『モリガン』の性能がかすむなぁ……」
その声には、珍しく本気の落胆が混じっていた。
海賊船「モリガン」の大改造は、彼女が執着して手に入れた新たな宝である。
巡洋艦級船体で異次元潜航を行える時点で、常識外れもいいところなのだが、いま目の前にいる怪物は、それすら霞ませてしまう。
トロストは肩をすくめ、少しむきになった口調で言い返した。
「いやいや、小型舟艇でしか成しえなかった異次元潜航を、このサイズで実現しているんです。そいつはそいつで、十分に怪物ですよ。位相殻の維持だけでも正気じゃない。潜航時のエーテル機関能力、船体強度、中央演算補正、どれ一つ欠けても自壊する代物です」
「ふぅん」
「ふぅん、じゃありませんよ。あちらは正面から殴る怪物。こちらは刃を見せずに喉笛へ食らいつく怪物だ。別種の恐ろしさです」
「慰めにしちゃ、ずいぶん回りくどいねぇ」
ツーシームはそう言ったものの、声音には先ほどより少しだけ熱が戻っていた。
再び潜望鏡を覗く。
彼女は口元を吊り上げた。
「まあいいさ。怪物が正面で暴れてくれるなら、海賊は海賊らしく、死角から稼がせてもらうだけだ」
トロストが薄く笑う。
「やはり、そっちの顔の方が似合いますな」
「言われなくても分かってるよ。――『モリガン』、潜航深度維持。敵と味方の通信にセンサーを感度最大に」
「了解!」
◇◇◇◇◇
グラストヘイム要塞の影を背に、巨艦「ハンニバル」が帝国軍左翼の砲火を一身に受け止めている。
その異様な光景に、パウルス麾下の幕僚たちも、さすがに平静ではいられなかった。
「閣下! これは意外な好機でございますぞ!」
「今なら帝国軍の陣形は崩せます! この機を活かせば、敵を撃退できましょう!」
艦橋の空気は、にわかに熱を帯びた。
だが、その浮き立つ気配を、パウルスの大きな咳払いが断ち切った。
「……いや」
老将は低く言い、戦術盤を見つめたまま続ける。
「ここは、停戦を持ちかける千載一遇の機会だ。すぐさま敵旗艦へ緊急通信を送れ。こちらは交渉の用意あり、とな」
「はっ」
命を受けた通信士官が駆け去る。
しかし幕僚たちの顔には、なお割り切れぬ色が残っていた。
勝てるかもしれぬ局面で、なぜ矛を収めるのか。そう問いたげな沈黙である。
それを見て取ったパウルスは、ゆっくり口を開いた。
「かの巨艦が今は善戦している。だが、戦場の形勢など一刻で変わる。停戦とは、こちらが優位に立つ瞬間にしか提示できぬ外交条件だ。ならば、それは今だ」
老齢の参謀長が、苦い顔で言葉を継いだ。
「それに……帝国の予備戦力は、実質無限でございますからな」
「そうだ」
パウルスはうなずいた。
「我がアーヴィング大公国の国力は、よく見積もって帝国の十分の一。それを忘れるな。一戦の勝利に酔えば、次の百戦で干上がる」
艦橋は静まり返った。
慎重に過ぎる意見かもしれない。
だが、停戦を切り出す好機でもある。そこに異論を挟める者は、もはやいなかった。
◇◇◇◇◇
次元潜航海賊船「モリガン」艦橋。
位相膜の向こうで戦場の火線が揺らめく中、ひときわ甲高い声が上がった。
「船長! 味方の極低周波通信、盗れましたよ!」
「ゾル婆、でかした!」
ツーシームが獣じみた笑みを浮かべる。
そう、新型「モリガン」の二つ目の超改造――それは、本来なら傍受不可能とされた極低周波通信を拾い上げる異形の盗聴装置であった。
その脇で、トロスト技師が青ざめた顔をした。
「ちょ、ちょっと! そんな乱暴に扱わないでくださいよ。その傍受機、修理用の部品だけで新型巡洋艦一隻分の値が飛ぶんですからね!」
ゾル婆は鼻で笑い、無造作に筐体を叩く。
「動きゃいいんだよ、動きゃ」
「よくない! 主要部品そのものが今の文明じゃ再生産不能なんです! 極低周波通信機ですら骨董品同然なのに、それを上回る化け物機材なんですよ、これは!」
ツーシームはふたりのやり取りを聞き流しつつ、傍受記録へ目を走らせた。
そこには、パウルス側から帝国軍へ停戦を探る文面が、はっきり残っていた。
「……なるほどねぇ」
彼女は細く笑った。




