第六十話……退路喪失
聖帝国暦六四五年五月中旬――。
「今だ。――奴らの退路を断て」
クライツ上級元帥の命令は、短く、そして決定的であった。
その瞬間。
帝国軍は一斉に動いた。
各星系に分散していた部隊が、あらかじめ定められていた包囲線へと収束。
アーヴィング大公国軍の側面、そして後背へと回り込み、同時多発的な襲撃を開始する。
……さらに。
主要補給線に対しては、独立機動艦隊が投入され、輸送船団を重点的に狙撃。
補給の根を断ち、戦線そのものを崩壊させる――徹底した殲滅戦であった。
その影響は、即座に前線へと現れる。
惑星ザイカー。
その衛星軌道上に展開していた、マーリン男爵麾下の艦隊。
小型艦を中心とする十数隻の艦艇が、地上占領部隊の指揮を執りつつ、制宙任務にあたっていた。
「男爵閣下! 我が軍の補給線上に敵艦隊出現! 規模、百隻以上!」
「……なに?」
一瞬の静止。
だが次の瞬間、男爵は即断した。
「各艦に伝達。――総退却だ。即時、衛星軌道を離脱!」
「はっ!」
命令は迅速に伝達される。
だが――
「閣下、地上部隊は!?」
幕僚の一人が声を上げた。
「見捨てるおつもりですか!?」
「やむを得んのだ!」
男爵は吐き捨てるように言った。
「ここで躊躇すれば、我々も包囲される! 退路を失えば、全滅だぞ!」
……沈黙。
誰も反論できなかった。
結局――艦隊は地上部隊を残したまま、加速を開始する。
惑星の重力圏を離脱し、逃走。
その背後では。
取り残された地上部隊から、断続的に救援要請が発信され続けていた。
だが、それに応える者は誰もいない。
同様の事態は、各戦線で同時に発生していた。
補給線は寸断され、通信は混乱し、命令系統は崩壊。
現地指揮官たちは、それぞれの判断で撤退を開始する。
ある者は高価な宇宙艦艇を優先し。
ある者は私兵のみを回収し。
ある者は――何もできぬまま、包囲された。
統制なき撤退。
それは、もはや「撤退戦」ですらなかった。
――潰走。
アーヴィング大公国軍は、各個に引き裂かれ、崩れ始めていた。
◇◇◇◇◇
「A-166宙域にて敵襲!」
「D-86宙域、輸送艦撃沈!」
「S-28宙域より救援要請! 繰り返す、救援要請!」
怒号にも似た報告が、司令部を埋め尽くす。
アーヴィング大公国軍、総司令部。
その中枢に座すパウルス元帥のもとへ、各戦線からの悲鳴が絶え間なく流れ込んでいた。
通信スクリーンは、赤く染まっている。
補給線断絶、各個撃破、退路喪失――いずれも、致命的な報告ばかりだ。
そして。
それが、想定外ではないことを、彼も、その幕僚たちも理解していた。
「……」
「……、……」
長い沈黙。
あの大攻勢。
勢いに任せた進撃が、補給と統制を置き去りにしていたことなど、最初から分かっていたのだ。
だが。
各星域の地方貴族たちの盟主である「――大公閣下のご意向」であった。
誰も、止めなかった。
いや――止められなかった。
「閣下」
初老の参謀長が、低く問う。
「いかがなさいますか?」
パウルスは、ゆっくりと目を上げた。
「……補給線の損耗は?」
「輸送船の損耗率、四十六パーセント」
一瞬、空気が止まる。
半数に迫る損失。
それは、戦線維持がもはや不可能であることを意味していた。
「……そうか」
短い応答。
だが、その声には、迷いがなかった。
「補給船団、および護衛部隊は、直ちに後方へ撤退させよ」
「はっ」
「――司令部に残存する全戦闘艦艇を集結」
パウルスの視線が、戦況図を射抜く。
「退却路を、なんとしてでもこじ開ける」
彼の幕僚たちが、一斉に頷く。
それは、単なる攻勢ではない。
撤退戦。
しかも、味方を「逃がすための戦い」だった。
「各艦に通達。再集結地点は――グラストヘイム要塞宙域」
「了解!」
命令は司令部から矢継ぎ早に発せられる。
アーヴィング大公国の首都星でもある要塞惑星クラウゼン。
その衛星軌道上に、各星系に散在していた艦艇群が、次々と集結を開始した。
煌びやかな新鋭艦もあれば、オンボロの旧式艦もある。
統一も整備も不十分な、寄せ集めの戦力。
だが――
それでも味方を救うためには、戦うしかなかった。
「ワープ準備、完了!」
「……全艦、跳べ」
静かな命令。
次の瞬間、艦隊は一斉にワープへと移行する。
向かう先は、難攻不落のグラストヘイム要塞。
――そこが、大公国軍に残された最後の防壁となる。
あるいは。
……最後の、墓場となるか。
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