第五十四話……皇帝を買った女
聖帝国暦六四五年三月下旬――。
昨日、惑星ヴァルカンにて、ジャガースの開幕戦の始球式を終えたばかりのツーシームは、アルテミス商会本部の執務室で機嫌よく煙をくゆらせていた。
窓の外には、白い惑星首都レンドの街並みと、その向こうに広がる赤褐色の砂海が見える。
控えめなノックのあと、扉が開く。
帳簿係の制服に身を包んだ男が入ってきたが、その正体は海賊仲間の一人だった。
「姉御、モリガンの改造が終わりましたぜ」
低い声でそう告げる。
ツーシームは椅子の背にもたれ、ゆっくり煙を吐いた。
そして安煙草をガラスの灰皿に押し付け、火を消す。
「ああ、なら今すぐ見に行こうじゃないか?」
執務室を出た彼女は、商会裏手の発着場へ向かった。
そこに待機していたのは、砂漠用ホバークラフトである。
反重力スカートが低く唸り、機体は静かに浮上した。
やがて砂海へと滑り出し、レンドの街並みを背にする。
目的地は都市から一二〇キロ離れた秘密ドック。
灼熱の岩盤層の下に掘り抜かれた、アルテミス商会の隠し施設だった。
重いハッチが開く。
その奥、照明に照らされて一隻の艦が姿を現す。
ツーシームの愛船――宇宙海賊船「モリガン」。
改造を終えた艦体は、美しい光沢の黒装甲をまとい、静かにドック内へ鎮座していた。
闇そのものを削り出したかのような艦影である。
「……いいじゃないか」
ツーシームが満足げに呟く。
「ありがとうございます」
応じたのはアルテミス商会の主任技師のトロストだった。
細身の男で、頬はこけ、瞳はどこか落ち着きがない。
彼の指先はわずかに震えている。
宇宙麻薬――「スターダスト」の長期中毒者であることを、この場の誰もが知っていた。
もっとも、彼は凄腕技師であったが、やはり違法麻薬中毒者を雇う場所など、まともな世界には存在しない。
だからこそ、ツーシームの商会に居場所があったのだ。
「あの機関の取り付けは、うまくいったんだろうね?」
ツーシームが問いかける。
トロストは乾いた笑みを浮かべた。
「それはもう。この銀河でも最高の仕上がりですよ」
その隣で、もう一人の男が愉快そうに笑う。
星間ギルドの闇商人――ヘッジボックである。
「あんたたち、幼馴染なんだってね?」
ツーシームが軽く顎を上げた。
「ええ。若い頃はよく二人で非合法な実験をやったものです」
ヘッジボックが肩をすくめる。
彼の存在は、アストレア侯爵家のユリウスにすら伏せられている。
アルテミス商会との裏取引を取りまとめる、腕利きの闇商人だった。
「合法な実験なんて、あんたらやらないだろ?」
ツーシームが皮肉混じりに言う。
「ははっ、違いねぇ」
トロストが喉を鳴らして笑った。
麻薬で曇った目が、妙に楽しそうに細められる。
やがてツーシームは視線をヘッジボックへ戻した。
「……で、ヘッジボック。例の特殊機関を届けに来ただけ、って顔じゃないね?」
その言葉に、ギルド商人はにやりと笑う。
「さすがは社長殿。察しがいい」
彼は背後に控えていた男を前へ押し出した。
外套姿の男が一歩進み出る。
丁寧に一礼すると、静かな声で名乗った。
「初めまして。マータリと申します」
地下ドックの空気が、わずかに張り詰めた。
◇◇◇◇◇
「実は――御高名なフォックス社長に、ひとつお願いがありまして……」
マータリは静かな口調でそう切り出した。
だが、その瞳の奥には、ただならぬ野心が宿っている。
やがて彼が語り始めた計画に、ツーシームは思わず眉をひそめた。
それは――
銀河全域を結ぶ、星間鉄道網の建設構想だった。
数千、いや数万の恒星系を巡らせる大動脈。
文明圏を一本の軌道線で結び、旅客と物資の流れを一変させるという。
当然ながら、必要とされる予算は天文学的規模に達する。
「……おいおい」
ツーシームは腕を組んだ。
「もしや、軍ですら放棄したあの技術を使うつもりか?」
「さようでございます」
マータリは迷いなく頷く。
空間転移技術――。
かつて帝国軍が研究していた極秘計画だ。
通常のワープ航法が不可能な小型艦載機などを、外部から莫大なエネルギーを送り込むことで強制的に空間跳躍させる。
理論上は可能とされながらも、実験の大半が失敗に終わり、ついには軍部さえ研究を凍結した代物である。
「……ですが」
マータリは一歩踏み出す。
「星間列車は艦載機とは事情が違います。質量ははるかに大きく、構造も強固。空間抗堪性も高いため、むしろ転移に適しているのです」
彼の説明を聞きながら、トロスト技師がゆっくり頷いた。
宇宙麻薬に蝕まれた濁った瞳。
だが、技術の話になると、その奥に一瞬だけ鋭い光が宿る。
「……理屈は通ってるな」
かすれた声で呟く。
「……だがな」
ツーシームは苦笑した。
「この投資額はさすがにありえないだろう?」
提示された数字は、艦隊を一つ建造できる規模だった。
旅客輸送、物資輸送、そして軍事的機動線としての価値――利点はいくらでも思いつく。
それを勘案に入れてもなお、常識外れの金額であった。
「……では」
マータリは一拍置いた。
「交換条件として、こちらをお見せしましょう」
「ん?」
彼が軽く合図を送る。
すると、背後に控えていた少女が前へ押し出された。
年の頃は十にも満たない。
細い肩に粗末な外套を羽織り、どこか怯えたような目をしている。
「おいおい」
ツーシームは眉をひそめた。
「悪いがね、私はガキに興味は――」
言いかけたその瞬間。
ツーシームの視線が、少女の指に吸い寄せられた。
小さな手に嵌められた黄金の指輪。
そこに刻まれていたのは――
荒鷲の金印。
噂に聞く、銀河聖帝国ノヴァにおいて、ただ一つの意味しか持たない紋章。
それは――
正統皇帝の証。
ツーシームはしばし沈黙した。
そして、口元にゆっくりと笑みを浮かべる。
「……ふふ」
低く笑う。
「マータリさんよ」
彼女は椅子の背にもたれた。
「こいつは……面白い話じゃないか」
指で煙草を回しながら言う。
「何とか予算は工面してみよう」
マータリは深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
こうして交渉は成立した。
少女は――
ツーシームのもとへ極秘裏に引き取られることになる。




