第百二十話……ニデル政変
――聖帝国暦六四五年十月中旬。
旧帝国軍とルドミラ艦隊の決戦が、双方決定的な勝利を得られぬまま終わった頃。
一隻の小型客船が、アストレア聖帝国領を離れ、ルドミラ首都星ヒンデンブルクへ向かっていた。
船の持ち主はアルテミス社で、船長を務めるのはビッグベアであった。
ただし今回ばかりは海賊船らしい物騒な装備の多くを外し、外見上はごく普通の民間船へ偽装されていた。
本来なら、この船でルドミラへ帰国するのはエロー枢機卿と、その随員だけのはずであった。
エローは以前、教皇サリーム・アル=ハディードの命を受け、アストレア聖帝国との外交交渉のために訪れていた人物である。
その帰国に際し、アストレア側から副宰相と書記官が同行することになった。
もちろん、そんな副宰相も、書記官も、本物ではない。
「だから、その襟を触るな」
船内の貴賓室で、書記官の服を着たグレゴールが苛立った声を上げた。
「さっきから苦しいんだよ」
「副宰相というものは、多少服が苦しくても人前で襟を引っ張ったりせん」
「本物の副宰相だって苦しけりゃ引っ張るだろ」
ツーシームは面倒そうに舌打ちした。
アストレア聖帝国宰相であるグレゴールは、今回はエロー付きの書記官へ変装している。
一方、ツーシームには副宰相という偽りの身分が与えられていた。
濃紺の礼服を着せられ、普段は乱雑にしている髪も整えられている。
腰の拳銃も、いつもの安煙草もない。
「それと、現地に着いたら余計なことは喋るな」
「それ、もう十回くらい聞いたぞ」
「十回言っても不安だから言っている」
「エローに喋らせとけばいいんだろ?」
「そういうことだ。お前は適当に偉そうな顔をして座っていろ」
「それなら得意だ」
「そこだけは心配していない」
二人の会話を少し離れた席で聞いていたエローは、呆れたように息を吐いた。
今回の帰国について、教皇庁へ伝えてある内容は単純だった。
エロー枢機卿がアストレア聖帝国での外交交渉を終えて帰国する。
その際、アストレア皇帝ユリウスより新たな提案を預かり、副宰相自らが同行する。
サリーム・アル=ハディードは、その提案の具体的な内容をまだ知らされていない。
エローが「極めて重要な条件であるため、教皇猊下へ直接申し上げたい」と伝えたからである。
教皇側からすれば、戦争中のルドミラに対する何らかの軍事支援、あるいは旧帝国との和平仲介に関する話だと考えるのが自然だった。
だが、実際には。
提示する条件など、最初から存在しない。
今回の目的は交渉ではなく、政変であった。
それとは別に、かなり以前から本当の副宰相のザイフリートが、得意の情報戦で、現地の反教皇派の要人とすでに秘密裏の関係にあった。
それら以外にも、直近では、反教皇派以外の要人の裏口口座へも、多額の金銭が新帝国から振り込まれていた。
『そろそろヒンデンブルクの管制圏に入るぞ』
ビッグベアの声が船内放送から流れた。
『検査船が来るかもしれねえから、変なもん出しっぱなしにするなよ』
グレゴールが天井を見上げる。
「もう少し外交使節らしい言い方はできんのか、あいつは」
「お前もさっきからアタイに偉そうだぞ」
「私は宰相だ」
「アタイも副宰相だぞ」
「偽物だろうが」
「今は本物扱いだ」
ツーシームが得意そうに笑う。
グレゴールは返事をするのも面倒になったのか、黙って窓の外へ視線を向けた。
青白い光を放つ首都星ヒンデンブルクが、少しずつ大きくなっていた。
◇◇◇◇◇
ヒンデンブルク最大の都市ニデルは、ルドミラの政治と宗教の中枢である。
教皇宮殿。
中央政府庁舎。
中央軍司令部。
首都放送局。
中央通信局。
それら国家運営に欠かせない施設の多くが、ニデル中心部に集中していた。
エローの帰国を乗せた客船が中央宇宙港へ着陸すると、教皇庁の高官たちが自ら出迎えに現れた。
「エロー枢機卿。御帰国をお待ちしておりました」
「出迎え、感謝する」
「そして、こちらがアストレア聖帝国の副宰相閣下で?」
「左様だ」
エローは何食わぬ顔でツーシームを紹介した。
「皇帝陛下より、今回の交渉について相当の権限を預かっておられる」
高官たちは恭しく頭を下げた。
「遠路、ようこそヒンデンブルクへお越しくださいました」
「うむ」
ツーシームが偉そうに頷く。
後ろに立つグレゴールは、今度は何も言わなかった。
下手に言葉を足されるより、その程度で済ませた方が安全だったからである。
何より、エロー本人が帰国してきたという事実が、ツーシームたちの身分を疑わせにくくしていた。
ルドミラ側にしてみれば、自国の枢機卿がアストレアの副宰相を伴って帰ってきたのである。
まさかその副宰相が、女海賊だなどと考える者はいなかった。
◇◇◇◇◇
その夜。
ニデル中央部の教皇宮殿では、エローの帰国とアストレア使節団を歓迎する晩餐会が開かれていた。
教皇庁の高官や政府首脳が居並ぶ中、中央の席には教皇サリーム・アル=ハディードが座っている。
「エロー枢機卿。まずは御苦労であった」
「ありがとうございます、猊下」
「アストレアでの交渉については、詳しい報告を楽しみにしている」
「もちろんでございます」
サリームは満足そうに頷くと、次にツーシームへ視線を向けた。
「副宰相殿も、遠路よく来られた」
「こちらこそ、ご招待に感謝いたします」
今度はツーシームも無難に返した。
隣に座っているグレゴールが、黙って料理を口へ運ぶ。
「ところで」
サリームがエローへ向き直った。
「皇帝陛下から、何やら重要な条件を預かってきたそうだな」
「はい」
「それは、旧帝国との戦争に関するものと考えてよいのかな?」
「その件も含めております。ただ、かなり込み入った内容ですので、食事の後に改めてお話しした方がよろしいかと」
「ふむ。そうか」
サリームはそれ以上追及しなかった。
アストレア側がどの程度の支援を約束するのか。
あるいは旧帝国との停戦を仲介するつもりなのか。
彼の頭の中にあるのは、その程度のことであった。
自分があと僅かな時間しか生きられないなどとは、想像すらしていない。
宮殿へ入る際、ツーシームたちは厳重な身体検査を受けている。
銃器、刃物、毒物、爆発物はもちろん、非破壊検査機器なども使い、衣服の内部まで徹底的に調べられた。
当然ながら、ツーシームは完全な丸腰である。
しかし、それもすべて計画のうちだった。
食事が進み、晩餐会の空気が十分に緩んだ頃。
エローの携帯端末が一度だけ震えた。
ニデル各地に潜伏していた反教皇派レジスタンスからの合図である。
中央通信局。
首都放送局。
軌道防衛管制所。
中央軍司令部。
各部隊や内応者たちが、所定の位置についた。
反教皇派は以前から教皇政府内部へ協力者を送り込み、今回の計画についてもエローが惑星グラウゼンから密かに指示を出していた。
あとは、一番大きな障害を取り除くだけだった。
教皇サリーム・アル=ハディード。
ルドミラの宗教的権威であると同時に、国家そのものを束ねる最高権力者。
彼が生きている限り、政府軍は組織的に動く。
だが突然死すれば、後継者が決まるまで指揮系統には必ず空白が生じる。
その短い混乱を利用して、エロー枢機卿が国家中枢を奪取する。
エローは静かにナイフとフォークを置いた。
「副宰相閣下」
ツーシームが顔を上げる。
「皇帝陛下から預かった件を、そろそろ教皇猊下へ」
「ああ」
ツーシームは立ち上がった。
サリームが彼女を見る。
「副宰相殿?」
「少し、近くで話していいか?」
「構わんが?」
ツーシームが長卓を回り込み、教皇の隣へ歩いていく。
親衛隊員たちもその動きを見ていたが、止める者はいない。
相手は女で、かつアストレア聖帝国の副宰相である。
しかも武器を持っていないことは、入室時の検査で確認されていた。
サリームが笑顔を浮かべる。
「それで、皇帝陛下の条件とは何かな?」
「条件か」
ツーシームはサリームの肩へ手を置いた。
「実はな――」
そのまま左腕を首へ回した。
「なっ!」
右手で頭を掴み、一気に捻る。
鈍い音が響き、サリームの身体から力が抜けた。
「猊下!」
親衛隊員たちが銃へ手を伸ばす。
だが、その瞬間。
宮殿全体の照明が消えた。
ほぼ同時にニデル各地でも反教皇派が行動を開始し、内部協力者によって中央通信局の警備網が停止した。
首都放送局には武装部隊が突入し、軌道防衛管制所では反教皇派の将校が管制室を占拠する。
中央軍司令部にも教皇死亡の情報が流れた。
しかし、誰が次の最高指揮権を持つのか、その時点では決められていない。
政府軍上層部が対応を協議している数十分の間に、ニデル中心部の主要施設が次々と反教皇派の手へ落ちていった。
教皇宮殿にも武装したレジスタンスが突入する。
「エロー枢機卿!」
「状況は?」
「中央通信局と放送局を制圧しました! 政府庁舎も間もなく落ちます!」
「中央軍司令部は?」
「現在交渉中です。教皇死亡を確認した将官の一部が、こちらへの恭順を申し出ています!」
「受け入れろ。抵抗する者だけを拘束する」
「はっ!」
エローが指示を出している傍らで、ツーシームは倒れた親衛隊員の拳銃を拾い上げていた。
「やっぱり武器があった方が落ち着くな」
それを見たグレゴールが呆れたように言う。
「お前に副宰相役を許可した私が馬鹿だった」
「うまくいったじゃねえか」
「結果論だ」
夜明け前には、教皇宮殿、中央通信局、首都放送局、軌道防衛管制所、中央政府庁舎の大部分が反教皇派の支配下に入った。
そして夜が明ける頃。
首都放送局から、エロー枢機卿の声明がヒンデンブルク全土へ流れた。
「ルドミラ国民諸君。教皇サリーム・アル=ハディードは死亡した」
その報は、やがて前線で旧帝国軍と対峙しているラヒームのもとにも届くことになる。
旧帝国軍とルドミラ軍が、宇宙で数千隻の艦艇が対峙している最中。
その戦争の行方を大きく変えたのは、正面戦場ではなかった。
敵国から帰国する一人の枢機卿と、副宰相に化けた一人の女海賊による、教皇暗殺。
また以前に、サリム・アル=ハディード侯爵が、旧帝国中央への反逆と同時に、ルドミラ教の教皇の地位を強奪したのも、反対派に貴重な人員を供給した一端だったかもしれない。
後に「ニデル政変」と呼ばれる一夜によって、ルドミラを巡る情勢は一変するのであった。
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