第百十八話……教皇冠を餌に
ルドミラ教国の外交特使エロー枢機卿と、アストレア聖帝国皇帝ユリウスとの会談は、一対一で行われた。
場所は、旧大公宮殿の奥に設けられた小さな応接室である。
護衛すら扉の外へ下がらせ、記録官も置かれていない。
それだけに、形式的な挨拶が終わると、エロー枢機卿は早々に本題へ踏み込んだ。
「さて、陛下。率直に申し上げましょう」
「どうぞ」
「陛下にとって、我らルドミラ教国と、旧帝国中央政府。いったい、どちらが大切なのでございますか?」
ユリウスは黙って先を促した。
「陛下の艦隊は、いつまで待っても我らの救援には参られない。それどころか、旧帝国側へ兵を向ける様子もございませぬ」
エローは少し身を乗り出した。
「これは、我らが結んだ和平約定の精神に反するのではありますまいか?」
ユリウスはしばらく黙っていた。
そして、困ったような顔を作った。
「もちろん、援軍を送りたいのは山々なのですよ」
「では、なぜ?」
「我が国の有力貴族たちが、納得しないのです」
「貴族たちが?」
「ええ」
ユリウスは静かに答える。
「ルドミラばかりを助け、我々が一方的に血を流すのは不平等ではないかと申しております」
エローの表情がわずかに強張った。
「特に惑星ペルーンの奪回では、多くの帝国臣民が命を落としました」
「……」
「しかし、逆にルドミラ教国が我々のため、分かりやすい形で軍を動かしてくださったことはございません」
痛いところであった。
事実として、ルドミラ教国は旧第六総管区側から軍事支援を受けたことこそあれ、自ら大軍を送って彼らを救援したことはない。
もちろん、教国にも教国なりの事情があった。
だが、同盟とは本来、双方が助け合うものだと問われれば、エローには強く反論できなかった。
「……では」
エローは声を低くした。
「陛下は、我らを見殺しになさるおつもりですか?」
その瞬間。
ユリウスの目つきが変わった。
先ほどまでの、困り果てた若い皇帝の顔ではない。
エローは一瞬、その瞳に冷たい光が宿ったように感じた。
「そうは申しません」
ユリウスは一枚の書類を取り出した。
「ですから、別の提案を用意しました」
「別の提案?」
「お読みください」
書類を受け取ったエローは、数行目で動きを止めた。
そして、目を大きく見開く。
「……な、なんと?」
もう一度、文面を確認する。
「我らルドミラ教国に……アストレア聖帝国の傘下へ入れと仰せですか?」
「左様です」
ユリウスは平然と答えた。
「先日、我が国はパニキア勢力を傘下へ加えました。旧第六総管区の再編も進み、軍事力、人口、資源生産力のいずれを見ても、現在の我が国はルドミラ教国を大きく上回ります」
「しかし……」
「こちらもご覧ください」
ユリウスは別の資料を表示した。
量子エーテル生産量。
税収。
造船能力。
人口増加率。
軍事支出。
今後数年間の経済成長予測。
エローの顔から、さらに余裕が消えていく。
「これは……」
「まだ公表していない数字も含まれております」
ユリウスは淡々と続けた。
「今後、両国の国力差はさらに開きます」
そして、静かに言い切った。
「国力の対等でない国家同士に、真に対等な同盟など存在しませぬ」
「……」
「名目だけ対等にしたところで、いずれ無理が生じます」
エローは書類を机に置いた。
「し、しかしですな……」
額に汗が浮かぶ。
「このような条件を、我が教皇猊下が受け入れるとは、とても思えませぬ」
ユリウスは小さく笑った。
「受け入れさせる必要はありませんよ」
「……は?」
エローは思わず間の抜けた声を出した。
「申し訳ございませぬ。陛下が何を仰っているのか、菲才の身には理解いたしかねます」
「簡単なことです」
ユリウスは椅子へ深く腰掛けた。
「あなたが、教皇になればよい」
エローの顔から血の気が引いた。
「……何を?」
「本来、教皇位はあなたのものであったはずです」
「陛下」
「政争によってその地位を失い、ハディード殿が現在の座に就いた」
ユリウスは真っ直ぐエローを見た。
「ならば、元へ戻すだけではありませんか?」
「いやいやいや……」
エローは慌ててハンカチを取り出し、額の汗を拭った。
「私には直属の兵などおりませぬぞ。ましてや教皇猊下にはラヒーム将軍がおる。反乱など起こしたところで、半日も持ちますまい」
「その点についても、考えております」
「……」
「我が国から、少数の精鋭をお貸しいたしましょう」
エローの手が止まった。
「少数とは?」
「政変に必要な程度です。戦争をするつもりはありません」
ユリウスは指を一本立てた。
「あなたは教皇の座へ戻る」
二本目。
「我々はルドミラ教国の宗教的権威を尊重し、信仰について一切介入しない」
三本目。
「その代わり、軍事、外交、資源、徴税など、宗教統治以外の旧第五総管区の主権は、アストレア聖帝国へ移していただく」
エローは無言となった。
「あなたは教皇となり、信徒の頂点に立つ」
ユリウスは続けた。
「我々は国境を安定させ、第五総管区を帝国へ組み込む」
「……」
「中央政府軍が迫る今、ルドミラは我々の軍事力を得る」
ユリウスは微笑んだ。
「双方にとって、悪い取引ではないと思いますが?」
長い沈黙が流れた。
エローは俯き、指先でハンカチを弄んでいた。
拒絶する言葉はいくらでもあった。
反逆である。
信義に反する。
国家を売り渡す行為である。
だが。
彼の脳裏に浮かんでいたのは、別のものだった。
教皇冠。
かつて自分が手にしながら、失った地位。
自分を追い落とした者たち。
そして、再び大聖堂の頂点に立つ自らの姿。
「……宗教政策には、本当に介入なさいませぬな?」
ユリウスの口元が、わずかに緩んだ。
「約束いたします」
「教皇領の寺院財産についても?」
「信仰に直接必要な財産は保護しましょう」
「我が身分と教皇位の世襲……いや、失礼。後継者の指名権については?」
「そこは協議が必要でしょう」
「なるほど……」
先ほどまで汗を拭っていたエローの顔から、次第に動揺が消えていった。
代わって浮かび始めたものを、ユリウスは見逃さなかった。
野心。
老いた聖職者がひた隠し続けてきた、権力への渇望である。
「細かな条件を詰めましょう」
エローが、静かに言った。
「もちろんです」
ユリウスは呼び鈴を鳴らした。
しばらくして扉が開き、一人の男が入室する。
「お呼びでございますか、陛下」
「ザイフリート。入ってくれ」
つい先日、副宰相へ任命されたばかりのザイフリートであった。
「エロー枢機卿とは、大筋で話がまとまりました」
「承知いたしました」
ザイフリートは大量の書類を机に置く。
「では、政変後の統治機構、駐留軍の規模、旧第五総管区の税制、教会財産の扱いについて、順にご説明いたします」
エローは書類の量を見て、わずかに頬を引きつらせた。
「ずいぶんと……準備がよろしいようですな」
「外交とは、準備が九割にございますので」
ザイフリートは涼しい顔で答えた。
その後、細部について長時間の協議が続いた。
そして最後に。
ユリウスとエロー枢機卿は立ち上がり、固く握手を交わした。
表向きには、ルドミラ教国の援軍要請を巡る友好国同士の会談。
だが、この時。
その密室では、旧第五総管区そのものをアストレア聖帝国へ組み込むための計画が、静かに動き始めていたのである。




