第百十六話……アストレア聖帝国
――聖帝国暦六四五年九月中旬。
聖帝国ノヴァの帝都ネオ・ベルゼブブ。
総統最高府の執務室では、軍務尚書ハイアットが、ローゼンタール総統へ「ルドミラ教国遠征軍」の現状を報告していた。
「……それで、未だに遅々として進まぬのか?」
「左様にございます」
ハイアットは、卓上に第五総管区の立体星図を投影した。
だが、その星図には空白が多い。
「そもそも宇宙地理院の予算不足により、第五総管区の本格的な測量は、およそ二百五十年間も行われておりませぬ」
「二百五十年か」
「はい。当時から辺境であり、大規模な戦場になる可能性も低いと判断され、優先順位を下げられ続けてきました」
星図の一部が拡大される。
複雑な重力場。
小惑星帯。
恒星風の強い星域。
旧来の航路図では安全とされていた場所にも、現在では新たな危険宙域が生まれている。
「ロサリオ国家元帥は、進軍路上に補給拠点を築きながら慎重に前進しております。ですが、輸送路そのものが不確かなうえ、ルドミラ軍は土地勘を活かし、輸送船ばかりを狙って襲撃してまいります」
「ゲリラ戦か」
「左様にございます。敵は正面から艦隊決戦を挑んではきません。補給艦を数隻沈めては姿を消し、別の場所でまた襲う。その繰り返しにございます」
「そうか」
ローゼンタールは、意外にもハイアットを責めなかった。
彼女自身、情報部出身の人間である。
現在も帝国情報機関へ強い影響力を持ち、表向きの軍事報告だけでは分からない事情にも通じていた。
若くして異例の出世を遂げた理由も、そこにある。
ローゼンタールは幼少期から電子情報処理に異様な才能を示し、十代の頃にはハッキングの天才として知られていた。
そして官界へ入ってからは、その能力を情報収集に存分に利用した。
上司の政敵。
敵対派閥の貴族。
軍部の有力者。
彼らが隠したがる弱みを誰より早く掴み、それを必要な時だけ使う。
それが、マリアーヌ=ローゼンタールという女の出世術でもあった。
「さらに申し上げます」
ハイアットが星図を切り替えた。
「ロサリオ国家元帥閣下は、敵主力を発見次第、決戦へ持ち込むおつもりです。しかし現状では、その主力艦隊がどこにいるのかさえ掴めておりませぬ」
「やはり、戦力が足りぬか?」
「はい」
ハイアットは即答した。
「敵地深くへ侵攻し、輸送路を守りながら敵主力まで追うのであれば、戦力が互角程度では苦しゅうございます」
攻撃側は、戦う艦艇だけを揃えればよいわけではない。
補給線を守る艦艇。
攻略した拠点を維持する艦艇。
輸送船を護衛する艦艇。
進めば進むほど、前線で自由に動かせる戦力は減っていく。
対するルドミラ軍は、自国領内である。
必要な場所に必要な時、戦力を集中させることができた。
「ふむう……」
ローゼンタールは机に置かれた電子書類をめくった。
しばらく考えた後、指先で一つの項目を叩く。
「ロサリオは不機嫌になるであろうが……」
その口元に、わずかな笑みが浮かんだ。
「追加で二個艦隊を動員するか」
「それがよろしいかと存じます」
「同行させる惑星地上軍は、首都防衛隊の精鋭部隊からは抜くな。各地の星系防衛隊から少しずつ抽出せよ」
「御意」
「あと、ロサリオには余が決めたとは言うな」
「……では?」
「軍務尚書の強い要請で増援を送ることになった、とでも言っておけ」
ハイアットの顔がわずかに引きつった。
「……畏まりました」
ローゼンタールは満足そうに頷いた。
◇◇◇◇◇
――その頃。
ユリウスは、ひたすら内政に追われていた。
旧第六総管区を手に入れたとはいえ、その統治機構は未だ完全にはまとまっていない。
アーヴィング大公家や、最後までカスパルに従った貴族家から没収した領地、艦艇、兵士、軍需工場。
それらを新たな国家体制へ組み込む作業だけでも、膨大な時間を必要とした。
特に軍制改革は急務であった。
没収した貴族私兵をそのまま残せば、再び地方貴族の武力となる。
そこでユリウスは、接収した戦闘艦や兵員を既存の旧正規軍と再編成し、皇帝直轄軍へ組み込んでいった。
軍籍。
給与。
階級。
指揮系統。
装備規格。
そのすべてを出来るだけ統一する。
さらに、第四総管区から低利で借り入れた資金を利用し、元宇宙海賊や元傭兵たちにも正規軍への門戸を開いた。
犯罪歴について一定の審査を行い、軍規への服従を誓わせたうえで、正式な給与と恩給を保証する。
昨日まで金で戦っていた者が、今日から皇帝の軍人となる。
多少の混乱はあったが、待遇が安定したことで応募者は予想以上に多かった。
新帝国の軍事力は、猛烈な勢いで膨れ上がっていた。
◇◇◇◇◇
「陛下。少々よろしゅうございますか?」
惑星グラウゼンの旧大公宮殿。
執務机を埋め尽くす書類の山から、ユリウスが顔を上げた。
「なんだい、爺?」
グレゴールが咳払いする。
「陛下。その呼び方はそろそろ……」
「二人しかいないじゃない」
「いつ誰が聞いているとも限りませぬ」
「はいはい。それで?」
グレゴールは一枚の書類を差し出した。
「そろそろ、我が国の正式な国号を定めねばなりませぬ」
「……国号?」
ユリウスは数秒黙った。
そして。
「あっ」
完全に忘れていた。
周囲の人間も似たようなものである。
戦争。
領地再編。
軍制改革。
税制。
パニキアとの外交。
毎日のように問題が押し寄せてきたため、皆が便宜上使っていた「新帝国」という呼び名で済ませていたのだ。
「候補はあるの?」
「もっとも無難なところでは、アストレア聖帝国かと存じます」
「アストレア聖帝国……」
ユリウスは、何度か口の中で繰り返した。
「でも、それだと聖帝国ノヴァの正統な後継国家に見えなくならない?」
「むしろ、それでよろしいのでは?」
「というと?」
「陛下の御国は、すでに旧帝国そのものではございませぬ」
グレゴールは静かに説明した。
「ノーム人をはじめとする二級市民制度を改め、今やパニキアの異種族までもが陛下の臣民となろうとしております」
「うん」
「古き聖帝国ノヴァをそのまま復活させるのではなく、その正統を受け継ぎながら、新たな帝国を作る。その意思を国号にも示してはいかがでしょう」
ユリウスは少し考えた。
「……悪くないね」
「では?」
「その案を賢老院に諮問してみて」
「畏まりました」
グレゴールは頭を下げた。
「もっとも、賢老院の老人方なら、国号一つ決めるのに百個ほど意見を出してきそうですがな」
「やめてよ。ただでさえ書類が多いんだから」
ユリウスは机に積まれた書類を見て、本気で嫌そうな顔をした。
◇◇◇◇◇
――その後。
賢老院、重臣会議、主要諸侯の意見を経て、新国家の正式名称は決定された。
アストレア聖帝国。
それに伴い、これまで暫定的な表現となっていた公文書も改められた。
ユリウス=アストレアは、「アストレア聖帝国初代皇帝ユリウス一世」と公式に記載されることとなった。
旧第六総管区を中心に成立した新国家も、以後、公式文書ではアストレア聖帝国と記される。
もっとも。
長い戦乱の中で生まれた人々の習慣というものは、法令一つでは変わらない。
広大な宇宙を旅する大商人や、辺境星域民、旧帝国外星人、そして当の帝国臣民ですら、「新帝国」という、短く分かりやすい呼び名を使い続けたのだった。
そのため後世の歴史書においても、アストレア聖帝国成立初期については、しばしば「新帝国」という俗称が併記されることとなったのである。




