第百十一話……皇帝の孤独
「ツーシーム。実は、中央政府のマリアーヌ=ローゼンタール総統から親書が来ているんだ」
ユリウスはツーシームの私室で、そう悩みを打ち明けた。
部屋には、さしたる明かりもない。
窓から差し込む星明かりと、ツーシームがくわえた安煙草の火だけが、時折、ユリウスの若い顔をぼんやりと照らしていた。
「……え?」
ツーシームは煙草を指に挟んだ。
「ノクターン公爵が死んだ後の、中央政府の事実上のナンバーワンじゃないか。何を言ってきたんだい?」
「それがね……」
ユリウスは少し言いよどんだ。
「中央政府の皇帝と僕、そのどちらについても正統性を否定しないことにして、互いの支配地域を尊重し、休戦したいと申し入れてきたんだ」
「へえ」
ツーシームは、ゆったりと紫煙を吐き出した。
「まあ、つまりは、あっちはあっちで大変ってことなんだろうねぇ」
「僕もそう思う」
中央政府は、ユリウスたちに同調して起こった各辺境地域の反乱を抱え、ルドミラ教国とも敵対している。
いかに旧帝国最大の勢力とはいえ、すべてを同時に相手にできるほど余裕があるわけではない。
だからこその休戦なのだろう。
ユリウスはしばらく黙っていたが、やがて小さな声で尋ねた。
「ツーシームなら、どうする?」
「あたし?」
「うん」
ツーシームは煙草を灰皿に押しつけながら、嫌な笑みを浮かべた。
「いまや坊ちゃんには、大勢の家臣がいるじゃないか。元帥だの伯爵だの、大層な肩書きの連中が山ほどいる。そんなの、やさぐれた宇宙海賊風情に聞かなくてもいいんじゃね?」
「意地悪を言わないでよ」
ユリウスは困ったように眉を下げた。
「重臣たちの多くは、もともと中央政府や大公家に仕えていた人たちなんだ。地方貴族だって、僕に忠誠を誓ってはいるけど……」
「信用できない?」
「そこまで言うつもりはないよ。でも、内心では自分の領地や家のことを一番に考えている。それは分かっているから」
「まあ、自分のことを一番に考えるのは普通だけどねぇ」
ツーシームは新しい煙草へ火をつけた。
「で、こっちとしても、旧第六総管区を手に入れたばかりだ。領地を整理して、軍を立て直して、税の仕組みも整えなきゃならない。中央政府との休戦そのものは、悪い話じゃない」
「うん」
「問題はルドミラだね」
ユリウスは黙った。
「中央政府と休戦すれば、ローゼンタールは安心してルドミラへ兵を向けられる。坊ちゃんが教国を助ければ、今度は休戦協定そのものが怪しくなる」
「……そうなんだ」
「つまり、休戦すればルドミラを見捨てることになる」
しばらくして、ユリウスが小さな声で答えた。
「でも、教国には、すでに食料や医薬品、エーテル燃料なんかを秘密裏に運ばせているんだ。武器や兵士は送っていないけど」
ツーシームは、少し考えた。
「じゃあ、休戦でいいんじゃない?」
「え?」
「表では中央政府と休戦する。裏では、ルドミラがすぐに干上がらない程度に物資を流す」
ツーシームは肩をすくめた。
「ルドミラが勝つ必要はないんだろ? 簡単に負けなきゃいい」
「……う、うん」
「だったら決まりだね」
そう答えたところで、ツーシームは妙なことに気づいた。
ユリウスの肩が、小さく震えていた。
「……坊ちゃん?」
「なに?」
「寒いのかい?」
返事を待たず、ツーシームは身を乗り出した。
自分の額を、ユリウスの額へくっつける。
「熱はないね」
「違うんだ」
「ん?」
「怖いんだよ」
ユリウスは俯いた。
「みんなが……いつ裏切るのかと思うと」
ツーシームは何も言わなかった。
「昨日までカスパルに忠誠を誓っていた人が、今日は僕に忠誠を誓っている。僕を皇帝陛下と呼んでいる人たちだって、僕が負け始めたらどうなるか分からない」
震える指を、ユリウスは握り締めた。
「グレゴールも、パウルスも、みんな信じたい。でも……もし裏切ったらって考えてしまうんだ」
ツーシームは、昔読んだ古い歴史書の内容を思い出していた。
巨大な権力の頂点へ立った統治者が、次第に周囲の誰も信用できなくなる。
臣下を疑い、友を疑い、家族まで疑う。
そうして裏切られる前に相手を殺すことを覚え、最後には粛清の嵐を巻き起こす。
そんな歴史は、古今を問わず何度も繰り返されていた。
「坊ちゃん。こっち来な」
「え?」
「いいから」
ツーシームは床へ座った。
ユリウスも言われるがまま、その前へ腰を下ろす。
ツーシームは後ろから、そっとユリウスの体を抱き締めた。
「……ツーシーム?」
「今日は皇帝じゃなくていいよ」
それだけ言った。
ユリウスの母親は、彼が幼い頃に亡くなったと聞いている。
そして、父親も殺された。
今や妻はいるものの、彼が心から甘えるには幼すぎる。
皇帝になった。
臣下は増えた。
領地も増えた。
艦艇も増えた。
だが、偉くなるほど、弱音を吐ける相手だけが減っていったのだろう。
統治者の心とは、案外、寂しいものなのかもしれない。
やがてユリウスの体から力が抜けた。
精神の疲労も限界だったのだろう。
そのままツーシームの膝へ頭を預け、静かな寝息を立て始める。
「……とうさん」
かすかな寝言が漏れた。
「かあさん……僕は、立派な後継ぎになったかい……」
ツーシームは何も答えなかった。
ただ、少年の髪を一度だけ撫でた。
それから夜が明けるまで、安煙草を一本、また一本とふかし続けたのであった。
◇◇◇◇◇
聖帝国ノヴァ、総統最高府。
巨大な窓の向こうでは、このたび国家元帥に任じられたロサリオ率いるルドミラ討伐艦隊が、次々に首都星ベルゼブブを飛び立っていた。
巡洋艦、駆逐艦、輸送艦。
巨大な船体が雲を突き抜け、青空の彼方へ消えていく。
「……それで、アリアス卿」
ローゼンタール総統は窓に背を向けた。
「アストレアの小僧との話は、どうなった?」
向かいに立つ外務尚書アリアスが、恭しく頭を下げる。
「はい。休戦そのものには応じるとの返答にございます」
「ほう」
「ただし、二人の皇帝が並立しているとの表現だけは、断固として認めぬと」
ローゼンタールは鼻で笑った。
「なるほど。実は取るが、名は捨てぬか」
「左様にございます。互いの実効支配地域には当面干渉しない。しかし、皇統の正統性については棚上げする。実質的には、そのような内容となりましょう」
「それでよい」
ローゼンタールは再び窓の外へ目を向けた。
ロサリオの艦隊が、また一群、上空へ昇っていく。
「今はアストレアの小僧と戦う時ではない。奴には、せいぜい新領土の整理に忙殺されてもらおう」
「これで、我々も二正面を気にせず動けます」
「うむ」
アリアスは手元の資料を開いた。
「そして、これにて第二総管区の機嫌を取り続ける必要も、以前ほどはなくなりました」
第二総管区。
工業力こそ乏しいものの、広大な農業惑星を多数抱え、旧帝国版図全土の食卓を支える巨大な食料供給地帯である。
中央政府は長引く戦争によって財政を悪化させ、これまで第四総管区の金融資本に大量の国債を引き受けさせてきた。
そして、その大規模な償還期限が近づいている。
「四兆では済まぬからな」
ローゼンタールが呟いた。
「はい。今後一年に満期を迎える分だけでも、国庫にはかなりの負担となります」
「だからといって、また第四総管区に頭を下げれば、連中はさらに条件をつけてくる」
「おそらくは」
ローゼンタールは、薄く笑った。
「ならば、とりやすい場所から取ればよい」
戦乱によって各地の農業惑星は荒れ、輸送網も寸断されている。
食料価格は、ここ数年で見たこともないほど高騰していた。
その一方で、戦災を免れた第二総管区の農業貴族や穀物商会は、空前の利益を上げている。
「穀物価格が二倍になれば、奴らの収入も増える」
ローゼンタールは卓上の経済資料を指で叩いた。
「戦争のおかげで儲けている者には、戦争の費用を負担してもらう。当然の話であろう?」
「特別戦時所得税を?」
「それだけでは足りぬ」
彼女は即答した。
「穀物輸出税を引き上げる。大農園には臨時資産税を課せ。農業商会にも戦費拠出金を割り当てよ」
「かなりの反発が予想されますが」
「反発?」
ローゼンタールは笑った。
「国家が滅びようとしている時に、食料で暴利を貪っておきながら、税を払いたくないと?」
アリアスは黙って頭を下げた。
中央政府とユリウスとの休戦は、戦争を一つ減らした。
しかし、それは帝国臣民の負担が減ることを意味しなかった。
ローゼンタールは、僅かな余力を浪費や怠惰へ回すほど、愚かではなかったのである。
「第二総管区には、まだ搾れるだけの富がある」
窓の向こうで、最後の討伐艦隊の艦艇が雲を突き抜けていった。




