真夏の総合湯屋、開業!
寛文三年(1663年)、夏。
内藤宿で買い取った松葉屋の改修工事が終わり、いよいよ総合湯屋の営業を始める日がやってきた。
江戸の夏は暑い。甲州街道を歩いてきた旅人なら、汗を拭ってもすぐにまた汗が噴き出してくるだろう。
だからこそ、開業するなら今がちょうどいい。
「準備はできているか?」
「はい。食事処も浴場も、いつでもお客を迎えられます」
主人の息子が、少し緊張した様子で答えた。
以前は客の少なさに悩んでいた彼も、今では新しい商売の立ち上げに関わっている。主人は旅籠の営業と仕入れの管理を担当し、飯盛女たちも、それぞれの希望や得意なことに合わせて食事処や売店、接客の仕事に取り組んでいた。
以前、吉原で遊女たちの暮らしを改善し始めたときも、まずは飯を食べさせるところから始めた。
今回も、その基本は変わらない。
客を取れたかどうかに関係なく、決められた食事を出し、給金も約束どおり支払う。経営が苦しいからといって、そこで働く者たちの食事を削るようなやり方はしない。
そのうえで、商売として成り立たせる必要がある。
「最初から大勢の客が押し寄せるとは思っていない。まずは近くの商人や職人たちに使ってもらって、具合を確かめよう」
「承知しました」
俺たちは、近隣の店や仕事場に声をかけておいた。今日から新しい湯屋と食事処を始めること、風呂だけでも食事だけでも利用できることを伝えてある。
これで、どれほどの客が来てくれるか。
俺は暖簾を掛け、店先に出した看板を眺めた。
派手な飾りはない。だが、風呂に入り、うまい飯を食べ、必要な道具を買って帰れる。そんな気軽に利用できる場所にしたかった。
やがて、昼前になって最初の客がやってきた。
「おっ、ここが新しくできた店かい?」
甲州街道を歩いてきたらしい男が、店先の看板を見ながら足を止めた。着物には旅のほこりが付き、額には汗が浮かんでいる。
「はい。湯屋も食事処もございます。食事だけでも、風呂だけでもご利用いただけますよ」
以前、飯盛女として働いていた女性が、笑顔で応対した。
「風呂か。今日は暑くてかなわん。汗もひどいし、ちょいと入ってみるか……いや、その前に何か食べたいな。何があるんだい?」
「蕎麦切りや冷麦、そうめんがございます。それに、鯵の干物を焼いた食事もご用意できます」
「この暑さだ。冷たい麺がいいね」
「それでしたら、冷麦はいかがでしょう。井戸水で冷やしてあります」
「じゃあ、それを頼むよ」
男は食事処へ案内された。
厨房では、朝から仕込んでおいた麺を茹で、清潔な井戸水で冷やしていた。麺を十分に冷やしたら水を切り、器に盛ってつゆを添える。
つゆは、味噌を煮て漉したものを基本に、鰹節のうま味を加えて仕立てたものだ。現代の醤油とみりんを使ったつゆとは違うが、麺をさっぱりと食べられるように工夫してある。
薬味には浅葱などを用意し、好みに応じて使えるようにした。
やがて、冷麦が男の前に運ばれた。
「ほう、これは涼しげだな」
男は箸を取り、麺をつゆにつけて口に運んだ。
冷たい麺が喉を通り、男の表情が緩む。
「……うん、うまい!」
「ありがとうございます」
配膳をしていた女性が、ほっとしたように笑った。
「この暑さじゃ、熱い飯を食べる気にもならなかったが、これならすんなり食べられるね。つゆも、思ったよりさっぱりしている」
「お口に合ったようで何よりです」
「いや、これはいい。風呂もあるんだろう? 食べ終わったら、そっちも使わせてもらおうかな」
「はい。どうぞご利用ください」
俺は少し離れたところから、その様子を見ていた。
もちろん、一人がうまいと言ってくれたからといって、商売の成功が決まるわけではない。それでも、最初の客に食事を喜んでもらえたのは、よい兆しだった。
やがて男は食事を終え、代金を払って浴場へ向かった。
「では、こちらで手拭いをお使いください。風呂に入る前に、まず身体を洗っていただきます」
案内役の女性が、洗い場を指し示した。
「身体を洗うのかい?」
「はい。特に脚をよく洗ってくださいませ。街道を歩いていらしたのでしょう? 草鞋や脚絆には泥やほこりが付いているでしょうから」
男は自分の脚を見下ろした。
「なるほど。確かに、ここまで歩いてくりゃ、泥も汗も付いているな」
「脚だけでなく、身体の汗や汚れも落としてからお入りください。皆で使う湯屋ですから、気持ちよく使えるようにお願いいたします」
「分かったよ。そりゃそうだ。泥の付いた脚で湯に入ったら、ほかの客にも迷惑だもんな」
男は納得した様子で、草鞋と脚絆を外し、洗い場へ向かった。
俺はその様子を見てうなずいた。
長い道中を歩いてきた客は、脚に泥やほこりが付いていることも多い。汗もかいているし、そのまま湯に入られたら、せっかくの風呂がすぐに汚れてしまう。
入浴前に身体を洗うことを、店の決まりとして徹底しておく必要がある。
そのために、浴場には手桶と洗い場を用意してある。湯屋を清潔に保つには、客に協力してもらうことも大切なのだ。
男は身体を洗ってから戸棚風呂に入った。
戸棚風呂は、湯を沸かす設備も含めて職人たちと何度も確認してある。大量の湯を張る大きな浴槽ではなく、湯と蒸気を使って身体を温める、当時の湯屋になじみのある方式だ。
しばらくして、浴場から男の声が聞こえた。
「いやあ、こいつは気持ちいいな!」
長旅の疲れに加え、真夏の暑さで身体にたまっていた汗が流れていく。男は戸棚風呂で身体を温め、汗を流してから浴場を出てきた。
そして、俺たちが用意した水風呂に目を留めた。
「おや、こっちは水が入っているのかい?」
「はい。井戸から汲んだ水を入れてあります。湯上がりに、短い時間、身体を冷やすのにお使いください」
「へえ、そいつはありがたい。試してみようか」
男はそっと水に手を入れ、思った以上に冷たいことに驚いたようだった。
「おお、こりゃ冷たい!」
それでも、少しずつ身体を慣らすようにして水に浸かると、火照っていた身体がさっぱりしていく。
「いやあ、こいつはいいな。暑い日に風呂に入って、最後に冷たい水で身体を冷やせるとは」
男は短い時間で水風呂から上がり、手拭いで身体を拭いた。
水風呂は誰でも長く入ればいいというものではない。冷たい水に慣れていない客もいるし、湯で身体が温まった直後に無理をさせる必要もない。まずは短い時間から試してもらい、体調に合わせて利用してもらうことにしていた。
水風呂については、もう一つ工夫をしてある。
木製の浴槽の底近くに排水穴を設け、木栓で塞いでおく仕組みだ。水を交換するときは栓を抜くだけで排水できる。浴槽を持ち上げたり、桶で何度も水を汲み出したりする必要がない。
排水は床下に流れ込まないよう、溝を通して外へ流れるようにしてある。
もちろん、栓を抜けば水が流れるというだけでは衛生管理にならない。営業中も水の汚れや利用人数を確かめ、必要に応じて交換する。営業終了後は水を抜き、浴槽を洗って乾かす。汚れた水が井戸の近くへ流れ込まないように、排水先にも注意を払っていた。
そのため、浴場の従業員には、湯の温度や薪の消費だけでなく、水の入れ替えや掃除にかかった手間も記録してもらうことにした。
商売を長く続けるためには、気持ちよさだけでなく、管理の手間や費用も考えなければならないからな。
男は浴場を出ると、風通しのよい縁台に腰を下ろした。
少し離れたところでは、別の客も手拭いで汗を拭きながら休んでいる。庭先から入ってくる風が、火照った身体をゆっくりと冷ましてくれた。
「いやあ、さっぱりした。こりゃ、なかなかいい場所だね」
男は満足そうに息を吐いた。
俺はその様子を眺めながら、内心で笑った。
(戸棚風呂で温まり、水風呂で冷やして、縁台でひと休みか。現代の感覚でいえば、サウナのあとに水風呂に入って休憩するようなものだな)
もちろん、当時の客にそんな言葉は通じない。
だが、風呂で汗を流し、冷たい水で身体をさっぱりさせ、風に当たりながら休む。その心地よさは、時代が違っても変わらないだろう。
しばらく休んだ男は、帰る前にもう一度、食事処の方を見た。
「なあ、あの冷麦は、また食べられるのかい?」
「はい。そうめんもございますよ」
「そうか。今度はそっちも食べてみたいね」
「ありがとうございます。またお越しください」
男は笑って手を振ると、再び甲州街道へと戻っていった。
その背中を見送りながら、俺は小さくうなずいた。
風呂だけを利用して帰る客もいるだろうし、食事だけを目当てに来る客もいる。今日の男のように、食事をしてから風呂に入る者もいる。
それぞれが違う目的で立ち寄ってくれれば、商売の可能性は広がる。
ただし、今日のところはまだ客数も少なく、いきなり大繁盛というわけにはいかない。
昼過ぎになると、近隣の商人や職人も何人か訪れた。
冷麦を注文する者、蕎麦切りを食べる者、鯵の干物を焼いた食事を選ぶ者。風呂だけを利用して帰る者もいた。
そのなかには、湯上がりに冷たい茶を飲みながら縁台で休み、連れの者と話し込んでいく客もいた。
俺は、食事処の様子を確かめに行った。
「どうだ。無理なく回せているか?」
「はい。まだ客数が少ないので、何とか対応できております。ただ、注文が重なると厨房が忙しくなりますな」
主人が答えた。
「そうか。客が増えたときに備えて、どこまで同時に調理できるか確認しておこう」
最初から品数を増やしすぎると、仕込みも手間もかかる。注文が増えても同じ品質で提供できるようになってから、少しずつ料理を増やしたほうがいい。
夏の間は、冷たいそうめんや冷麦を中心にする。蕎麦切りや鯵の干物も定番にして、客の好みに合わせて選べるようにする。
秋になったら、卵を一つ落とした月見うどんを季節限定で出してみたい。冬には、野菜をたっぷり入れた味噌仕立ての煮込み麺や、鴨と葱を使った温かい蕎麦も考えている。
春には山菜を使ったうどんもいいだろう。
ただし、まだどれも試作前の構想だ。仕入れ値や調理の手間、客の反応を確かめてから、実際に献立へ加えるつもりだった。
料理を看板にするなら、味だけでなく、安定して同じものを出せることも大切だからな。
売店の方も、まだ本格的に品数をそろえたわけではない。
手拭いや荷縄、草鞋の替え紐など、旅人が道中で必要になったときに役立つものを少しずつ並べている。焼き饅頭や味噌玉、店独自の七色唐辛子については、まだ試作や保存性の確認が必要なので、急いで売り出すつもりはなかった。
売れそうだからといって、最初から大量に作れば、売れ残りを抱えることになる。
小さく始めて、客が何を求めているのかを確かめ、売れたものを少しずつ増やす。それが今回の方針だった。
夕方になり、俺たちはその日の営業を終えた。
主人の息子が帳面を開き、売り上げと支出を確認している。
「大きな儲けにはなりませんでしたが、風呂だけのお客も、食事だけのお客もおりました。冷麦は、思ったより注文が多かったです」
「そうか。水風呂の評判はどうだった?」
「利用した方は、皆さん気持ちよさそうにしておりました。ただ、水の入れ替えや掃除には手間がかかりますな」
「そこは、きちんと記録をつけておこう。水や薪をどれだけ使ったか、何人が利用したか。続けられる形にしなければ意味がないからな」
主人も、うなずきながら答えた。
「食事処も、注文が重なる時間帯がありました。ただ、今の人数でも何とか対応できています。しばらく様子を見て、必要なら仕事の分担を考え直しましょう」
「ああ。それでいい。最初から人を増やす必要はない。今いる者たちで無理なく回せるやり方を探そう」
俺は、初日の売り上げだけで判断するつもりはなかった。
今日の客が何を喜んでくれたのか。何が売れ、何が売れなかったのか。風呂と食事を両方利用した人はどれくらいいたのか。水風呂の利用後に、どんな感想を持ったのか。そうしたことを一つずつ確かめていく。
それが、商売を育てるということだろう。
そして何より、今日は従業員たちが、客を取れなかったからといって食事を抜かれる心配もなく、一日を終えられる。
以前のような働き方を変えるためにも、この店をきちんと経営として成り立たせなければならない。
俺は帳面を閉じ、店の中を見回した。
まだ、立派な繁盛店とはいえない。だが、真夏の暑い日に冷麦を食べ、風呂に入ってさっぱりし、縁台で休んでから街道へ戻っていく客がいる。
そして、帰り際には「また来たい」と言ってくれた。
それだけでも、ここに新しい商売を始めた意味はあったと思う。
「明日からも、客の様子をよく見ておこう。料理も風呂も、もっとよくできるところがあるはずだからな」
「はい」
主人と息子、そして従業員たちがうなずいた。
真夏の総合湯屋は、こうして営業を始めた。
これから、どんな料理が評判になるのか。土産物はどれが売れるのか。戸棚風呂や水風呂は、どれだけ客に喜ばれるのか。
まだ分からないことは多い。
だが、焦る必要はない。
小さく始めて、客の声を聞き、よいものを少しずつ増やしていく。
そうしていつか、内藤宿を通る旅人が「あそこに寄っていこう」と思ってくれる場所に育てていけばいいのだ。




