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遊女に積立金を適用してみようか

 水戸の殿様との話し合いをした翌日、朝餉を終えた俺は、新しく考えたことをもう一度、帳面に書き出しながら整理していた。


 ふと思いついたのは、遊女の将来のための積立制度ではあるのだが、だが、改めて考えてみると、そもそも客が使った金と遊女本人の稼ぎを同じように考えてはいけない。


「客が十両払ったからって、その十両が丸々遊女の金になるわけじゃないからな……」


 俺は腕を組み、帳面を見つめながら眉を寄せた。


 吉原で客が使う金は揚代だけではなく、料理や酒、茶屋、祝儀などにも金がかかるし、高級な遊女になれば、着物や簪などの装身具、化粧、芸事の稽古や道具、それに身の回りの世話をする禿や新造のことまで考えなければならない。


 しかも、地位が上がれば上がるほど、客の前に出る姿を整えるための費用も増えていく。客が大金を使ったとしても、それがそのまま遊女の手元に残るわけではない。


 無論、見世側もいろいろ金が出ていくわけだから、言うほどガッポガッポ儲かってるわけじゃない。


「人気が出れば稼ぎも増えるが、その分だけ使う金も増える……か」


 俺は苦笑しながら呟き、帳面に新しい線を引いた。


 それに、この見世には水戸の若様をはじめ、紀伊や尾張の殿様、それに大名や豪商たちも客としてやって来るから、そうした客を相手にする以上、藤乃たちのような高い位の遊女ほど、衣装や芸事にも気を使わなければならない。


 だからこそ、単純に遊女の取り分を増やすだけでは、必ずしも将来のためになるとは限らない。


 金があればあるだけ使ってしまう人間は多いからな。


「だったら、最初から別にしておけばいい。

 まあ一種の企業年金みたいなものか」


 俺は顔を上げ、少し納得したように頷きながら帳面へ数字を書き込んだ。

 客から入った金を十とする。

 そのうち八を見世に入れ、一を遊女本人がその時々に使える取り分とし、もう一を本人の将来のために積み立てる。


「見世が八割、遊女が一割、積立が一割……」


 俺は書き込んだ数字を見つめ、指先でその横に丸を付けた。


 これなら、遊女本人が使える金はこれまで通り一割を確保でき、そのうえで、もう一割を将来のために別にしておけば、衣装や化粧、芸事などに使ってしまって、年季が明けた時には何も残っていないという事態も減らせるだろう。


 もちろん、積立金は見世の金とは完全に分けておく必要があって、遊女一人ひとりについて記録を残し、どれだけ積み立てたのかを明らかにしておけば、年季が明けた時に本人へきちんと渡すこともできる。


「これなら、年季明けの後に仕事を紹介するだけじゃなく、その仕事を始めるための元手まで用意できるな」


 俺は帳面を見ながら頷いた。


 これまで手習いや芸事を教えたり、年季明け後の仕事について考えたりしてきたが、結局のところ、住む場所を借りるにしても、商売を始めるにしても、先立つものは必要になる。


 身請けされれば、妻としてうまくやって行けるばかりでもないしな。

 ならば、吉原にいるうちから少しずつ残しておけばいい。

 そこで俺は、ふと筆を止めた。


「……でも、これをいきなり吉原全部でやるのは早いな」


 今の取り分が見世九割、遊女一割なのだから、見世の取り分を八割にすれば、見世からすれば一割減ることになる。遊女にとっては良い話でも、見世側からすれば経営に関わる問題だ。


「だったら、まず俺のところで試せばいい」


 俺はそう呟き、軽く頷いた。


 幸い、俺はいくつもの見世や施設を持っている。自分のところなら、まず俺の判断で試すことができるし、実際にどれだけの金が動くのかも確かめられる。


 見世の利益がどの程度減るのか。

 積立金が一人あたりどれくらいになるのか。

 帳場の仕事がどれだけ増えるのか。

 そして何より、遊女たち自身がこの制度をどう受け止めるのか。

 そこまで見てからでいい。


「実際にやってみないと分からないこともあるしな」


 俺はそう呟きながら、積立金を管理するための帳面についてさらに書き込んでいった。


 原則として、積立金は年季が明けるまで手を付けない。


 ただし、病気になった時や、親族の急病など、本当に困った事情がある場合まで一切使えないようにするのも問題だろう。そのため、特別な事情がある時には一定の手続きを踏んで一部を引き出せるようにする必要がある。


 身請けされた場合も同じだ。積み立てた金は身請け代とは別に、あくまで本人のものとして残す。


「ここまで決めてから相談した方がいいな」


 俺は書き終えた項目を読み返し、満足そうに小さく頷いた。


 失敗しても、自分の見世であればすぐに仕組みを直せる。吉原全体を巻き込んでから問題が見つかるより、その方がはるかにいい。


 俺は帳面を閉じると、そのまま番頭のところへ向かった。


 帳場では、番頭がいつものように帳面を広げて仕事をしていた。俺が近づくと、番頭は筆を止め、少し面白そうに眉を上げながらこちらを見る。


「おや、旦那。今日はまた何か思いつかれましたか?」


「まあな。ただ、今回は吉原全部に話を持っていくつもりはない」


 俺は番頭の向かいに腰を下ろし、帳面を机の上へ置いた。


「俺のところで、まず試してみたいことがある」


「試す、ですか?」


 番頭が首を傾げると、俺は帳面を開き、そこに書いた数字を指で示した。


「客が払った金を十としたら、見世が八、遊女本人が一、そして残りの一を積み立てるんだ」


 番頭は数字を追うように視線を落とし、しばらく黙って考えてから顔を上げた。


「……見世の取り分が九割から八割になる、と」


「ああ」


 俺は頷き、言葉を続けた。


「ただ、遊女の取り分を二割にして、その場ですべて渡すわけじゃない。一割は本人が使える金として、もう一割は本人の将来のために残す。見世の取り分は減るが、積立分は見世の金じゃない。最初から遊女本人のものとして分けておく」


 番頭は腕を組み、難しい顔で考え込んだ。


「確かに、遊女にとっては悪くない話ですな。しかし、見世の側からすれば、一割の減収になりますぞ」


「そこは分かってる」


 俺は苦笑しながら肩を竦めた。


「だからこそ、いきなり吉原全体でやるんじゃない。まずは俺のところだけで試す。どれくらい経営に影響するのか、実際の数字を見てから判断すればいい。

 それに、年季明け後の元手まで残せる見世だと分かれば、ここで働きたいと思う女も増えるかもしれないし、女衒も俺のところへ良い女を入れようとするかもしれない。そうなれば、見世にとっても悪い話ばかりじゃないと思うぜ」


 番頭はしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて小さく頷いた。


「それなら、私も賛成です。まず実際の帳面を作ってみて、無理がないか確かめるのがよいでしょう」


「やっぱりそうだよな」


 俺はほっとしたように息を吐き、肩の力を抜いた。


 頭の中で考えた制度が、そのまま現場で上手くいくとは限らない。帳場の仕事が増えすぎるかもしれないし、思った以上に見世の経営を圧迫する可能性もある。


 逆に、見世が十分に利益を出しながら遊女の将来のための金も残せるなら、その実績は大きい。


「まずは自分のところで試してみる。それからだな」


 俺がそう言うと、番頭も頷き、新しい帳面を手元へ引き寄せた。


「では、積立の記録をどうするか、ここから詰めていきましょう」


「ああ。せっかく考えたんだから、使える制度にしないとな」


 俺はそう答え、番頭と並んで帳面を覗き込んだ。


 まだ吉原全体を変えるような制度ではない。


 それでも、まずは自分の手の届くところから試してみる。実際の結果を見て問題点を直し、それで上手くいけば、その時になって初めて他の見世へ話を持っていけばいい。


 そう考えると、頭の中にあった案が、ようやく現実に動き始めたような気がした。

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