火事や地震に備えた講を話してみたよ
さて、一時的に働けなくなった者を、どうすればなんとか立ち直らせることができるのかについては、水戸の殿様と相談してきた。
その話が一段落したところで、俺はふと思い出したように、もう一つ相談しておきたいことがあると切り出した。
「殿様、もう一つ、江戸の町のことで相談したいことがあるんですが」
俺がそう言うと、殿様は湯飲みを口元から離し、こちらへ顔を向けながら眉を上げた。
「まだ何かあるのか?」
「ええ。今度は、働けなくなった者の話とは別です」
俺がそう答えると、殿様は少し姿勢を正し、黙って続きを待つ。
「江戸には、『火事と喧嘩は江戸の華』なんて言葉がありますよね」
その言葉に、殿様はわずかに口元を緩めた。
「確かに、江戸の火事は多いな」
やはり殿様は、火事の多さそのものを知らないわけではない。
当然だろう。江戸に住み、幕府の動きを知る立場にある大名なのだから、火事が江戸の町にとってどれほど厄介なものなのかを知らないはずがない。
「ただ、多いというだけじゃありません。かなりの火事が大火事にまでなってしまうんです」
俺がそう続けると、殿様は表情を引き締め、少し考えるように顎へ手を添えた。
「先年の明暦の大火を見れば、それも分かる。風が強い折などは火の手が早く、町家が立て込んでおれば、なおさらだ」
「ええ。そこなんです」
俺は頷いた。
現代の俺からすれば、江戸の火災が特に十一月から五月にかけて多発することも、その理由もある程度分かっている。この時期は乾燥した空気に加え、冬期には北西風、春先には南西風といった強い季節風が吹き、さらに暖房や調理のために炭などの火を使う機会も増える。つまり、火災のきっかけそのものが少なくなく、そのうえ一度発生した火を大きく育ててしまいやすい条件が揃っているのだ。
もっとも、こうした気象条件は江戸だけのものではない。他の町でも冬から春にかけて乾燥し、風が強くなるという状況は似たようなものだっただろう。
それでも江戸の火事が、ことさらに「江戸の華」とまでいわれる理由は、やはり火災の規模と頻度にある。
「火事が多いことそのものより、燃え始めれば大きくなりやすいことが問題だ、と?」
殿様がそう問いながら、畳の上へ置いた湯飲みから手を離す。
「そういうことです。江戸の場合は、一度燃え始めると、ほかの町ではなかなか見られないほど大きな火事になりやすい。そして、それが何度も繰り返される」
俺はそう答えてから、なぜそこまで火が大きくなるのかを説明した。
「一番大きい理由の一つは、江戸、特に町人街に人と建物が集まりすぎていることです」
そう言ってから、俺は少し言葉を選んだ。
現代なら「過密都市」とでも表現するところだが、そんな言葉を殿様に使う必要はない。
「江戸では、武家地、寺社地、それに町人の住む町地が分かれていますよね」
「うむ」
殿様はすぐに頷いた。
「そのうち町人の住む土地は、それほど広くありません」
後世の資料から見ると、江戸では武家地・寺社地・町地の面積がおおむね六・二・二ほどだったとされている。町人が江戸の人口の半分ほどを占めていたことまで考えると、限られた町地にかなり多くの人間が暮らしていたことになる。
「なるほど。町人地に人と建物が集まっているからこそ、ひとたび火が出れば隣へ移りやすいわけだな」
「ええ。路地裏まで長屋が詰まっているような場所では、隣の家との間も近い。そこへ風に煽られた火の粉が飛べば、次々に燃え移ることになります」
殿様は少し目を細め、実際の町の様子を思い浮かべるように黙り込んだ。
実際、当時の江戸では大火が何度も発生している。
二百六十年に及ぶ江戸時代全体を後世から振り返ると、大火は約九十件と記録されている。単純に平均を取れば、三年に一度ほどの割合になる。
俺にとっては数字として知っているだけのことだが、殿様にとっては、自分が今生きている江戸でこれから先に起こり得る災害でもある。
「先の明暦の大火だけでも十分に恐ろしいものだったが、それほど繰り返されるとなれば、火事は決して珍しい災いではないな」
「そうなんです」
俺は頷いた。
そして俺も、これまで火事への備えをいろいろ考えてきた。
火を出さないための防火、火が出たときにできるだけ早く消すための消火、そして火が広がる前に町の人間を安全な場所へ逃がすための避難。道路を広げたり、火消しの仕組みを整えたり、避難訓練を行ったりしてきたのも、そのためだった。
もっとも、火消しについてはこの時代にも大名火消や定火消などがすでに存在している。明暦の大火の後には定火消も整えられているので、殿様に火消しそのものを一から説明する必要はない。
どれだけ防火に力を入れても、どれだけ消火の仕組みを整えても、それでも火事が起きる可能性を完全になくすことはできない。
未来の時代でさえ、火を使わない冷暖房機器が普及したあとも火災は起きている。それを考えれば、火そのものを完全になくすことなどできないだろう。
ましてや江戸では、どこか一か所から出た火が、あっという間に大火へ発展することだってある。
「では、その火事をどうしても防げず、家や店が焼けてしまったら、その後はどうなるでしょう?」
俺がそう尋ねると、殿様は一瞬だけ目を細めた。
「焼けた後のことか」
「はい」
その問いを口にしたところで、俺は自分が今まで「火事を防ぐこと」ばかり考えていて、「火事の後に残された人間をどうするか」という問題をほとんど考えていなかったことに気づいた。
「家が焼ければ、そこに住んでいた人間は住む場所を失います。店が焼ければ、建物だけじゃなく、商品も道具も失うわけです」
俺がそう言うと、殿様も静かに頷いた。
「商売をしていた者なら、再び店を開くにも金がいるな」
「そうなんです。もう一度建物を建てて、商売道具を揃えて、商品を仕入れなければならない。当然、それには金が要ります。しかし、元手になるものは全部焼けてしまっている」
俺はそこで少し声を落とした。
「火事で財産を失ったばかりの人間に、そんな金を簡単に用意できるはずもないでしょう」
「ましてや、火事の被害が広ければ、同じような者が一度に大勢出る」
殿様が眉を寄せながら言った。
「そうです。だからこそ、個人の力だけで立て直すのには限界があります」
そこで俺は、江戸の借家について後世から知っていることを思い出した。
江戸では、借家が火事で全焼した場合、建物そのものがなくなれば、それまでの借家契約も終わるという考え方があった。後世にはこれを「相対死」と呼んでいる。
つまり、焼け落ちた家の家賃を、家がなくなった後まで借家人が払い続けなければならないということではない。
その点だけを見れば、現代の感覚で考えるよりも、むしろ合理的な仕組みにも思える。
だが、それで被害が消えるわけではない。
「家がなくなれば住むところがなくなるし、店が焼ければ商売の道具も商品もなくなります。家財を穴蔵に入れたり、持ち出したりして守ることができればまだいい。でも、運び出せなかったものは、そのまま焼けてしまう」
「親類を頼る者もいような」
殿様が静かに言った。
「ええ。親類のところへ身を寄せたり、仮小屋を建てたりして、とりあえず暮らしをつなぐことはできる。でも、そこから元の生活へ戻るには、やっぱり金が必要になります」
殿様は黙ったまま聞いていたが、やがて顔を上げた。
「しかし、損をするのは借家人だけではないだろう」
「その通りです」
俺は少し嬉しくなって頷いた。
「家主も火事で建物を失えば大きな損失を受けます。建物がなくなっている間は、当然ながら家賃も取れない」
「土地を持つ者も同じだな」
「ええ。土地そのものが焼けるわけじゃありませんが、そこに建物がなくなれば、そこから得ていた収入に影響が出る」
俺は三者の関係を整理するように、指を折った。
「つまり、店を借りている者には店を借りている者の損失があり、家主には家主の損失があり、地主には地主の損失がある」
「三者とも、火事になれば困るわけだ」
「そういうことです」
そこで俺は、しばらく考えてから口を開いた。
「だったら、この三者が普段から少しずつ金を出し合って、いざというときに助け合う仕組みにするのはどうでしょう」
殿様はすぐには答えず、俺の顔をじっと見た。
「講のようなものか?」
「はい」
その返答に俺も頷いた。
講そのものは、この時代にも存在する。俺が思いついたのは、それを災害のときに使えるようにすることだった。
「皆で少しずつ金を出し合い、普段から蓄えておく。そして火事や地震などで大きな被害を受けた者が出たときには、その蓄えから金を出して、生活の立て直しや建物の再建を助けるんです」
殿様は腕を組んだまま、しばらく黙って考えた。
「公儀や町が困った者を救うのとは違い、普段から自分たちで備えておくわけか」
「そうです。金のある者を中心にする仕組みにもできますが、そもそも質に入れるものすらない者もいますから、そういう者まで含めて考えたいとは思います」
俺の言葉に、殿様は小さく頷いた。
現代の俺からすれば、それは保険に近い発想だった。
ただ、この時代に「保険」という名前や制度そのものを持ち込む必要はない。皆で金を積み立て、被害に遭った者を、その蓄えから助ける。その仕組みだけを江戸の「講」に組み込めばいい。
「それなら、火事だけを対象にする必要もあるまい」
殿様がそう言った。
「そうです」
俺はすぐに頷いた。
「江戸では火事が大きな災害ですが、地震だって建物を壊して、人間の暮らしを一瞬で奪います。火事なら焼失、地震なら倒壊。被害の形は違っても、そこから生活を立て直さなければならないという点では同じです」
「ならば、火事と地震のどちらにも備える、と」
「ええ。普段から少しずつ積み立てておけばいいと思います」
俺の頭の中では、これは現代の保険に近い発想だった。
もちろん、誰でも同じ金額を出せばいいというわけではない。
「火の始末をきちんとしている店と、火の粉が飛び散りやすいような状態で商売をしている店が、同じ負担では納得せぬ者も出るでしょう」
「確かに、それでは日頃から気をつけている者が損をするな」
殿様が少し眉を寄せる。
「建物についても同じです。普段から修繕をしている家と、壊れかけたまま放っている家では、災害に遭ったときの危険が違う」
「ならば、普段から手を入れている者には、それだけの利があるようにするのだな」
「そうです」
俺は頷いた。
「防火や建物の維持をきちんとしている者ほど負担を軽くする。そうすれば、災害が起きた後の救済だけではなく、災害そのものを減らす方向にも働くはずです」
殿様はその言葉を聞くと、顎へ手を添えた。
「助けるだけでなく、普段から火を出さぬよう仕向けるわけか」
「はい」
俺はそこで、もう一つ大切なことを付け加えた。
「それに、金を渡すだけじゃ足りません」
「ほかにも必要か?」
「大火の後に必要なのは、再建するための金だけじゃないんです。家を失った人間が、とりあえず眠れる場所、食べるもの、仕事を再開するまでの生活をつなぐための支援、それに焼けた店や家を建て直すための資金まで必要になります」
殿様は少し考え込み、それからゆっくりと頷いた。
「明日を食べるものにも困っている者に、家を建て直す金だけ渡してもどうにもならぬな」
「そういうことです。そこまで含めて考えなければ、本当の意味での災害からの復旧にはなりません」
俺はそこで、さらに借家人のことを考えた。
火事で借家が焼けたからといって、その人が必ず別の場所へ移りたいとは限らない。建て直されたなら、元の場所へ戻って商売を再開したいという人もいる。
後世には、こうした形で元の場所へ戻ることを「元店直り」と呼ぶこともある。
「借家人については、もう一つ考えておきたいことがあります」
「何だ?」
殿様がこちらを見る。
「焼けたからといって、元の店へ戻りたい者まで追い出してしまうのは、もったいないでしょう」
「確かにな。馴染みの客がいる商売なら、なおさらだ」
殿様の返答に、俺は頷いた。
「だから、建て直された後に元の借家人が戻れる道を残したいんです」
火事になったことを理由に、再建後の家賃を大幅に上げられてしまえば、元の場所へ戻りたくても戻れない。
もちろん、家主にも再建費用がかかる以上、何もかも以前と同じ条件にしろというのは無理がある。
「家主にも再建の負担があります。ですから、家主に無理をさせるのではなく、災害講から再建を助ける。その代わり、元の借家人が戻れる道を確保する」
殿様は少し考え、それからゆっくりと頷いた。
「家主を助けることと、借家人を守ることを一つにするわけか」
「はい。借家人自身も、そこで再び商売をするのか、それとも別の場所へ移るのかを選べるようにする」
「それなら、焼けたからすべてが終わる、ということにはならぬな」
「そうなんです」
俺は思わず頷いた。
「火事を完全になくすことができない以上、重要なのは、火事が起きた後にどれだけ早く人間が立ち上がれるかだと思います」
殿様は黙って俺を見ている。
俺はこれまでを振り返るように、ゆっくりと言葉を続けた。
「今まで俺は、火を出さないこと、火を消すこと、そして火から逃げることばかり考えていました」
俺はそこで一度言葉を切った。
「でも、本当に必要なのは、その先まで含めた仕組みなのかもしれません」
「防ぐだけでは足りぬ、ということだな」
「はい。災害を防ぐ。それでも被害が出たら助ける。そして、できるだけ早く元の生活へ戻れるようにする」
俺はそこで一度言葉を切り、殿様の顔を見た。
「そこまで一つにつなげて考えたほうがいいと思います」
殿様はすぐには答えず、腕を組んだまま目を伏せた。
しばらくしてから顔を上げると、今度は先ほどまでとは違う、少し厳しい表情をしていた。
「考え方は分かった。しかし、実際に行うとなれば、金を集めるだけでは済まぬな」
「俺もそう思います」
殿様の言葉に、俺は頷いた。
「いきなり江戸全体で始めるつもりはありません。まずは、この吉原で試してみるのがいいでしょう」
「吉原か」
「ええ。店を借りている者だけじゃなく、家主や差配、それから地主にも話を聞く」
俺は指を折りながら、必要になりそうなことを並べた。
「誰がどれだけ負担するのか。火事や地震が起きたとき、どこまで支援するのか。大勢の店が一度に焼けた場合はどうするのか。それから、集めた金を誰が管理するのか」
「そこが一番厄介そうだな」
殿様は苦笑しながら首を横に振った。
「金を集めれば、それを預かる者が要る。預かる者を誰にするか、使うときに誰が決めるかも決めねばならぬ」
「そうなんです。そういった細かいところまで決めなければ、ただの思いつきで終わってしまう」
そこで俺は、頭の中にあった具体的な案を一つずつ口にすることにした。
「だったら、最初はあまり複雑にしないで、ある程度決まりを作っておきましょう」
「どのような決まりだ?」
殿様が少し身を乗り出した。
「まず、皆が同じ金額を出すのではなく、立場によって掛け金を変えるんです」
「立場によって?」
「ええ。店を借りている者と、建物を持っている家主では、火事で失うものが違います。それに、土地を持っている地主も、被害の受け方が違う」
俺は指を一本立てた。
「借り手は、商売道具や商品、それから火事の後の生活を立て直すための金が必要になります。だから、月々一朱」
次に二本目の指を立てる。
「家主は、建物そのものを建て直さなければならない。その分、掛け金を上げて、月々二朱」
そして三本目の指を立てた。
「地主は、土地そのものが焼けるわけじゃありません。ただ、建物がなくなれば、再建されるまで地代が入らなくなる。だから地主は月々一朱くらいでいいと思います」
「なるほど。失うものに応じて負担を変えるわけか」
殿様は納得したように頷いた。
「ただ、家主だけ多く出させると不満が出るかもしれません。だからこそ、火事になったときには、その分だけ受けられる支援も大きくする」
「具体的には?」
「借り手なら、店が全焼して商品や道具までほとんど失った場合、最大で一両。半焼なら最大二分くらい」
「家主は?」
「建物そのものを失うことになるので、全焼なら最大で三両。半焼なら最大一両くらいでしょうか」
「地主は建物を持たぬから、もっと小さくなるな」
「ええ。地主については、再建まで地代収入が途絶えることへの補填として、全焼なら最大二分、半焼なら一分くらいにする」
殿様は腕を組み直しながら、数字を頭の中で考えるように目を伏せた。
「同じ火事でも、受ける損失が違うから支払いも違うわけか」
「そうです。建物を持っていない借り手に、建物の再建費まで渡す必要はありませんし、逆に家主へ借り手の商品代だけを渡しても再建はできない」
「理にかなっている」
殿様がそう言うと、俺は少しだけ肩の力を抜いた。
「もちろん、これで損失を全部埋めるつもりはありません。あくまで、もう一度立ち上がるための支えです」
「全財産を補償するわけではないのだな」
「はい。そこまでやると、講そのものが持ちません」
俺はそこで、もう一つ大切なことを付け加えた。
「それと、防火にきちんと取り組んでいる店については、掛け金を安くしたい」
「どうやって判断する?」
「火の元をきちんと管理していること、消火用の桶や道具を備えていること、建物の傷んだところを放置せず修繕していること。それから、必要な防火設備を整えていることを確認するんです」
「確認を受けた者は、少し得をするわけか」
「ええ。たとえば一年間きちんと備えを続けた店には、翌年の掛け金から二朱分を差し引く。そうすれば、普段から気をつける意味が出てきます」
「火事に遭わなかった者にも利があるようにする、と」
「そうです。災害が起きてから助けるだけではなく、火事そのものを減らす方向へ金を使う仕組みにしたいんです」
殿様は小さく頷いた。
「それならば、掛け金を払う者も納得しやすかろう」
「それに、加入するだけで終わりにはしません。火事が起きたときには、無理のない範囲で消火活動に参加することも条件にしたい」
「店主が出るのか?」
「店主本人でなくてもいいと思います。店主が動けないなら奉公人を出してもらう。ただし、病人や怪我人、それにどうしても参加できない事情がある者まで無理に引っ張り出すつもりはありません」
殿様は少し考えてから頷いた。
「掛け金だけ払って、いざというときは人任せという者を減らすわけか」
「はい。金だけでなく、普段の備えと、町を守るための協力も含めて一つの仕組みにするんです」
「なるほど」
殿様が頷いたところで、俺は次の話へ進んだ。
「それから、火事になったときに、どれだけ金を出すかも最初に決めておきます」
「被害の大きさによって変えるのだな?」
「ええ。全焼か半焼か、それから何を失ったのかによって変える。ただ、どれだけ損害が大きくても、一軒ごとの上限は決めておく」
「さきほどの一両や三両が、その上限というわけだな」
「そうです。店、蔵、商品を全部失ったからといって、損失を丸々補償するわけじゃありません。そこまでやると、大火が起きたときに講の金が一気になくなってしまう」
「ならば、その金は何に使うのだ?」
「まずは食べるものや仮住まいなど、当面の生活をつなぐための見舞金。それから建物を建て直すための資金や、商売を再開するための商品、道具を買う費用です。全部を一括で渡すんじゃなく、必要に応じて分けて渡したほうがいいでしょう」
殿様は顎へ手を添え、考え込む。
「しかし、それでは火を出した者まで同じように救うことになるのではないか?」
「そこは区別します」
俺はすぐに答えた。
「隣の店から火が燃え移ったような延焼なら、もちろん対象にします。自分の店が火元であっても、過失による失火なら、すぐに対象外にはしない」
「故意に火をつけた場合は?」
「それは対象外です。自分で火をつけておいて、『店が焼けたから金をくれ』では、さすがに仕組みそのものが壊れますから」
殿様は厳しい顔で頷いた。
「故意の放火や、明らかに講の金を騙し取るための行いは除くわけだな」
「ええ。そこは最初から明文化しておいたほうがいいと思います」
俺はさらに続けた。
「それと、大勢の店が一度に焼けた場合に備えて、一軒あたりの上限だけじゃなく、一度の大火で講から出せる金の総額にも上限を決めます」
「ほう」
「たとえば、講に十両たまっているとして、その大火で全部出してしまうようなことはしない。一定額は必ず残して、次の災害にも備える」
殿様は少し目を細めた。
「つまり、目の前の被害者を救うことと、講そのものを潰さぬことの両方を考えるわけだな」
「そうです。全部使ってしまったら、次に火事が起きたときに誰も助けられませんから」
「しかし、被害を受けた者からすれば、金を出し渋られているようにも感じよう」
「だからこそ、最初から決めておくんです。『借り手は全焼なら最大一両、半焼なら最大二分。家主は全焼なら最大三両、半焼なら最大一両。地主は全焼なら最大二分、半焼なら最大一分。一度の大火では講の積立金の半分まで』と、誰が被災しても同じ基準で判断できるようにする」
殿様は腕を組んだまま、静かに頷いた。
「なるほど。決まりが曖昧だから揉めるのであって、最初から基準を示しておけば、少なくとも恣意で金を出し入れすることは減らせる」
「そういうことです」
ただ、俺にはもう一つ不安があった。
「それから、不正請求を防ぐ仕組みも必要です」
「不正請求?」
「実際には焼けていない商品まで、『焼けた』と言って金を請求する者が出るかもしれない。それに、もともと壊れていた建物を地震で壊れたと言い張ったり、店にあったはずのない商品まで失ったことにする者が出る可能性だってある」
殿様の表情が険しくなる。
「確かに、金が積まれていると分かれば、そこへ手を伸ばそうとする者は出よう」
「だから、被害に遭ったら本人の申告だけで決めない。町役人や町内の有力者、それに差配など、普段から店を知っている者に実際の被害を確認してもらいます」
「何を確認する?」
「店がどこまで焼けたのか。蔵は残っているのか。商品や道具がどの程度失われたのか。火事の前に本当にそれだけの商品を持っていたのか。そのあたりを、できるだけ複数の人間で確認するんです」
「一人に任せぬのだな」
「はい。一人だけで確認して、その人間が被災者と馴れ合っていたら、それこそ不正が起きます。だから、町役人一人だけじゃなく、町内の者も立ち会わせて、複数人の確認を必要にする」
「被害の記録も残す必要があろう」
「もちろんです。誰の店が、いつ焼けて、どの程度の被害だったのか、いくら支給したのかを帳面に残しておく。それなら後から見返すこともできます」
殿様はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「思った以上に細かいな」
「保険みたいなものを作ろうとすると、どうしてもこうなります」
思わずそう言ってから、俺はこの時代にはその言葉を使う必要がないことに気づき、少し笑った。
「……まあ、皆で金を出し合って助ける仕組みなら、これくらい決めておかないと駄目でしょう」
「確かに、金を集めるだけでは講とは言えぬ。誰が払うのか、誰が助けられるのか、その額はいくらか、そして不正があった場合をどうするかまで決めてこそ、人が安心して金を出せる」
「ええ」
俺は頷いた。
「家主や地主についても、損失の形に合わせて支援を分ける。家主には建物を建て直すための金、借家人には商売を再開するための金、地主には再建までの地代が途絶える分を補う。そうすれば、三者とも立て直しやすくなる」
「なるほど。誰か一人だけを助けるのではなく、三者がそれぞれ元に戻れるようにするわけか」
「そうです」
殿様はしばらく考えてから、ゆっくりと頷いた。
「ならば、まずは小さく始めてみるのがよいだろう。実際に動かしてみれば、足りぬところも見えてくる」
「はい」
俺も頷いた。
「それでも、やってみる価値はあると思います」
俺は膝に置いていた手を握り直し、言葉に力を込めた。
「火事を防ぐだけじゃなくて、火事に遭った人間が、もう一度立ち上がるための仕組みを作る」
殿様はそんな俺の顔をしばらく見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「一度焼けたからといって、その者の暮らしまで焼け落ちる必要はない、ということだな」
「……はい」
その言葉を聞いた俺は、思わず小さく笑った。
「それができれば、江戸の町は少しずつ変わっていくかもしれません」
そしてそうなってほしいと切実に俺は思った。




