水揚げも無事終わったが少し寂しいな
――その数日後、桃香は、少しずつ変わり始めていた。
いや、正確に言えば、変わり始めたというより、今まで隠れていたものが少しずつ表へ出てきた、と言ったほうが近いのかもしれない。
朝、まだ店の中に夜の静けさが残っている頃から、桃香は鏡の前へ座るようになっていた。行灯の淡い明かりを背にして背筋を伸ばし、鏡に映る自分の顔を確かめながら、両手で髪をまとめて櫛を入れていく。櫛が髪を通るたび、さらり、さらりと小さな音が静かな部屋へ落ち、そのたびに桃香は少し顔を傾けながら、髪の乱れがないかを目で追っていた。
以前なら、
「誰か、やっておくんなまし」
などと言って、人に任せることも多かった。別に、それが悪いわけではない。店にいる以上、身の回りを人にやってもらうのは珍しいことでもないし、俺だっていちいち自分で着物をどうこうする気なんてない。
だが、今の桃香は違う。乱れた髪を自分で整え、鏡を覗き込みながら簪の位置を確かめ、少しでも曲がっていれば細い指先でそっと持ち上げて位置を直す。そのあと襟元へ視線を落とし、帯へ目を移してから、もう一度だけ鏡の中の自分をじっと見つめている。その表情には以前のような戸惑いがなく、自分自身で身なりを整えることを、どこか楽しんでいるようにも見えた。
「……そこ、少し曲がっておりんせんか?」
桃香は鏡から目を離さず、ほんの少し眉を上げながら、鏡越しに俺へ尋ねた。
「どこだ?」
俺が桃香の後ろから襟元を見ようとするものの、そもそも何をどう見ればいいのか分からず、首を傾げる。
「襟元でありんす」
桃香は自分の襟を指先で示しながら、少し困ったような顔で俺へ視線を向けた。
「俺に聞くなよ」
俺が肩をすくめて苦笑すると、桃香は呆れたように眉を寄せたものの、それ以上責めるつもりはないらしく、小さく息を吐いてから俺のほうへ顔を向ける。
「旦那様、よく見ておくんなんし」
「いや、見ても分からん」
俺が両手を軽く上げてお手上げだという仕草をすると、桃香はしばらく俺の顔を見つめ、それから「もう」とでも言いたげに口元をわずかに緩めた。そのまま自分で襟元へ手を伸ばし、布を少し引いて位置を整えると、指先で微妙なずれを直しながら、改めて鏡の中の自分を確認する。
「これでよろしいでありんすか?」
そう言って振り返った桃香は、少しだけ首を傾けながら俺の反応を待っている。
「……たぶん」
俺が自信なさそうに答えると、桃香は呆れたように目を細めながら、思わず小さく肩を落とした。
「たぶんでありんすか」
「俺に聞いたのが間違いだな」
俺が開き直るように言うと、桃香は堪えきれなかったのか、口元を押さえてくすりと笑った。
その笑い方も、以前とは少し違っていた。無理をして愛想笑いを作っているような感じがなく、肩に力も入っていない。口元だけでなく目元まで柔らかくなっていて、笑っていることそのものを素直に楽しんでいるように見える。
「旦那様は、分かりやすいんでありんす」
桃香は鏡の中の俺へ視線を戻し、少しだけ楽しそうに目を細めながら言った。
「そうか?」
「はい」
「何が?」
「わっちが少し変わると、すぐ気づくところでありんす」
そう言った桃香は、少し照れたように視線を鏡へ戻し、簪を指で軽く触れながら笑った。
「……そうか?」
「そうでありんす」
桃香は鏡の中の俺を見ながら、今度は先ほどよりも穏やかに笑った。
なんだよ。そういうことを言われると、こっちが妙に恥ずかしくなるじゃないか。
俺は返す言葉が見つからず、照れ隠しのように頭を掻いた。こういうときは何か別のことを考えたほうがいいと無理やり意識を逸らそうとし、たとえば今日の帳面のことでも考えてみようかと思ったのだが、そんなことを今考えたところで、それはそれで嫌になりそうだった。
そんなことを考えているうちにも、廊下では人が動き始めていた。板張りの床を踏む足音や、水を汲む音、どこかで襖が開く音などが重なり、朝の店というのは静かなようでいて案外うるさい。まだ客の姿が見えなくても、働く人間はもう動いているのだ。
「では、行ってまいりんす」
桃香は立ち上がると、俺へ軽く頭を下げた。その動きは以前よりも自然で、どこか堂々としている。衣擦れの音が小さく響き、桃香はそのまま廊下へ向かった。
「ああ」
俺が頷きながら返すと、桃香は一度だけ振り返って微笑み、それからそのまま歩いていった。その足取りに迷いはなく、誰かに背中を押してもらうような歩き方ではなく、自分で決めて、自分で歩いているのが分かる。
俺はその背中をしばらく目で追い、やがて桃香の姿が角の向こうへ消えると、誰もいなくなった廊下を見つめながら、思わず呟いた。
「……立派に大きくなったんだな、桃香」
口元には自然と笑みが浮かんでいたが、その直後、胸の奥にわずかな寂しさが込み上げてきた。
「……少しだけ、寂しいな」
俺が育ててきた娘が、自分で歩き始める。当たり前のことなんだが、当たり前だからこそ寂しいのだ。ただ、その寂しさよりも嬉しい気持ちのほうが、ずっと強かった。
桃香の未来を守る。そう決めたからこそ、俺もいつまでも同じところに立っているわけにはいかない。
……そのためには、まず片付けなければならないことがある。
水戸の殿様だ。
そう考えた俺は人を呼び、相手がやってくるのを待ってから、落ち着いた声で頼んだ。
「水戸屋敷へ使いを出してくれ。殿様に、お会いしたいと伝えてくれ」
呼ばれた男はすぐに背筋を伸ばし、深々と頭を下げる。
「はい。かしこまりました」
男はもう一度頭を下げると、そのまま足早に廊下の向こうへ消えていった。俺は、その背中が見えなくなるまで黙って見送った。
机の前へ戻ると、そこには帳面がいくつも積んである。やることならいくらでもあるし、店のことだけでも放っておけば仕事はいくらでも増えていく。
だが、今はそれどころではなかった。
想像だけで勝手に存在もしない敵を作るのはまずい。俺がこの時代にやってきてから色々とやってきたことを殿様がどう思っているのか、そして俺たちの付き合いをこれからどう考えているのか、そのあたりを一度、本人に確かめておきたい。
そう考えをまとめているうちに昼を過ぎ、さらに時間が流れて、西日が障子を赤く染める頃になっていた。俺はまだ帳面を開いたままだったが、ほとんど読んでいない。文字が目に入っても頭へ入ってこず、同じ行を何度も目で追っていた。
「旦那様」
廊下から声がしたので、俺が顔を上げると、そこには使いの者が立っていた。
「どうした?」
「水戸屋敷から返事がありました」
「もう返事が来たのか?」
俺が少し驚いたように眉を上げると、使いの者は小さく頷く。
「はい」
「何と?」
俺が帳面から完全に目を離して問い掛けると、使いの者は声を少し落とし、慎重な口調で答えた。
「殿様が、明日の昼にこちらへおいでになると」
「……こっちへ?」
思わず聞き返した俺に、使いの者はもう一度、はっきりと頷いた。
「はい」
俺は、その言葉を聞いたまましばらく黙ったが、やがて小さく息を吐いて頷いた。
「分かった。それならありがたい」
「では、そのように」
「ああ」
俺が手を軽く上げて返すと、使いの者は深く頭を下げ、そのまま廊下の向こうへ戻っていった。
俺は一人になり、机の上の帳面へ視線を落としたが、やっぱり文字が頭に入ってこない。
「……明日か」
そう呟きながら、俺は無意識に帳面の端を指で軽く叩いていた。
直接話せる。そう思うと、少しだけ気持ちは落ち着いた。俺一人であれこれ考え続けるよりは、そのほうがいい。
「まあ明日、聞けばわかるだろう。単なる杞憂な可能性だって高いんだ」
俺はそう呟き、自分を落ち着かせるように小さく息を吐いた。
その夜、店の喧噪が少し落ち着いた頃、襖の向こうから桃香の声がした。
「ただいまでありんす」
「ああ、おかえり」
俺が声を返すと襖が静かに開き、桃香が入ってくる。桃香は入ってくるなり俺の顔を見つめ、何かを察したように少しだけ眉を下げた。そのまま静かに襖を閉めると、外の音が少し遠くなる。
「旦那様、まだ起きておりんしたか」
桃香は俺の前まで来ると、少し心配そうな表情で尋ねた。
「ああ、考え事をしてた」
俺が苦笑しながら答えると、桃香は首を傾ける。
「また、お仕事でありんすか?」
「まあな」
俺が曖昧に返すと、桃香はそれ以上すぐには聞かなかった。ただ、俺の顔をじっと見つめている。
その視線に気づきながらも、俺が知らないふりをしていると、桃香の目が少し細くなった。
「……水戸の殿様のことでありんすね」
静かな声だった。
俺は手を止め、桃香へ顔を向ける。
「分かるのか?」
俺が半ば呆れたように尋ねると、桃香は少しだけ口元を上げて答えた。
「分かりやすいんでありんす」
「それ、朝も言ったな」
「本当のことでありんすから」
桃香はそう言いながら俺の前へ腰を下ろした。膝の上へ手を置き、その指先を落ち着かせるように何度か動かしている。何か言いたいことがあるらしい。けれど、すぐには口にしない。
俺も急かさず、桃香が話し始めるのを待った。
しばらくして、桃香は少しだけ顔を上げ、俺の目を真っ直ぐ見ながら口を開いた。
「明日、殿様がお会いに来られるんでありんしょう?」
「ああ」
「ここへ?」
「ああ」
俺が頷くと、桃香は一瞬だけ視線を落とし、それから小さく呟いた。
「……そうでありんすか」
その声がほんの少し沈んだため、俺はすぐにその変化へ気づき、眉を寄せた。
「まあ、心配するな」
安心させようと俺が少し笑いながら言うと、桃香は首を横に振った。
「いや、心配しんす」
桃香はそう言って俺を見た。その目には冗談では済ませられないという意思があり、俺が困ったように名前を呼ぶと、桃香は唇をきゅっと結んだ。
「桃香」
「だって……」
そこで言葉を止めた桃香は、少し俯いたまま俺の袖のあたりへ視線を落とした。
「旦那様、突拍子もないことをやっているって、自分では思っていないでありやしょう」
「え? そんなにか?」
俺が思わず目を丸くして聞き返すと、桃香は少しだけ困ったように笑った。
「あい」
桃香にそうはっきり言われても、俺は何も言えなかった。まあ、そういうことをしている自覚は多少はあるし、実際に否定できないからだ。
「わっちには、分からないことも多いんでありんしょう」
桃香はそう言ってから顔を上げ、今度は俺を心配そうに見つめた。
「けれど、一人で抱え込むことはありやせん」
静かな言葉だったが、その声には以前にはなかった強さがあった。
その言葉が胸の奥へ落ちてきた。
昔なら桃香はこんなことを言わなかった。ただ俺を信じて、黙って待っていた。俺が決めたことなら、それでいいと思っていた。
だが、今は違う。自分の気持ちを口にし、俺が何を考えているのか知ろうとし、そのうえで俺のことを心配している。
「……そうだな」
俺はゆっくり息を吐き、視線を落としていた顔を上げた。
「悪かった」
そう言うと、桃香はすぐに小さく首を振った。その表情には責めるような色はなく、むしろ穏やかに俺を気遣うような優しさが浮かんでいる。
「謝ってほしいわけではありんせん」
「分かってる」
「なら」
桃香が少しだけ身体を前へ寄せ、続きを促すように俺を見る。
「できるだけ話す」
俺がそう答えると、桃香の目が一瞬だけ見開かれたが、その直後には張っていたものがほどけるように、ふっと表情が緩んだ。
「約束でありんすよ」
「ああ」
「絶対でありんす」
「分かった」
俺が頷くと、桃香の肩からわずかに力が抜けた。それを見て、俺も少しだけ胸の奥が軽くなる。
「旦那様」
「何だ?」
桃香は少しだけ身を乗り出し、念を押すように俺を見る。
「明日、気をつけておくんなんし」
「ああ」
「絶対に」
「しつこいな」
俺が苦笑しながら言うと、桃香は真顔のまま首を傾げる。
「しつこく言わないと、旦那様はすぐ無茶をするでありんす」
「そんなことはない」
「ありんす」
桃香が間髪入れずに答える。
「ない」
「ありんす」
「ないって」
「ありんす」
桃香が真顔で言い張るものだから、俺も負けじと真顔で見返す。二人ともしばらく動かなかったが、先に耐えられなくなったのは桃香のほうだった。やがて口元がわずかに緩み、肩を揺らして笑い始める。
「ふふっ」
「何だよ」
俺が少し呆れた顔で尋ねると、桃香は笑いを堪えながら首を振り、それでも口元に残った笑みを隠しきれない様子で答えた。
「いえ、少し安心しんした」
「そうか」
「はい」
桃香は穏やかな笑みを浮かべながら頷いた。
そう言って立ち上がると、裾を整え、そのまま襖のほうへ向かう。しかし手を掛けたところで、ふと足を止めた。
「旦那様」
「うん?」
振り返った桃香は、先ほどまでの冗談めいた表情とは違い、どこか真剣な顔をしていた。
「わっちは、もう子供ではありんせんよ」
俺は一瞬、言葉を失った。
それは以前にも聞いた言葉だったが、今夜のそれは少し意味が違って聞こえた。以前はただ大人になりたいという願いのように聞こえたものが、今は自分も俺と一緒に背負いたいのだという意思に聞こえたからだ。
「……分かってる」
俺が静かに答えると、桃香は安心したように目を細めた。
「なら、たまには頼っておくんなんし」
柔らかく笑ってそう言うと、桃香は静かに襖を閉めた。
小さな音だけが残り、俺はしばらくその場から動かなかった。
外では誰かが笑っている。どこかで食器の触れ合う音がし、三味線の音も遠くから聞こえてくる。いつもの夜なのに、今だけは、その全部が妙に遠く感じられた。
「……本当に変わったな」
俺は行灯のほうへ視線を向けながら、小さく呟いた。
寂しいと思わないわけではない。ただ、それ以上に嬉しかった。守らなければならないと思っていた桃香が、今では俺のことまで心配している。
守ることも、守られることも、そんな関係そのものが少しずつ変わっていくのかもしれない。
そもそも、いつまでも俺一人が守る側というのも無理がある。俺だって母さんや藤乃に守られてきたのだから、桃香だって、もう何も知らない子供ではないのだ。
そう考えると、少しくらい頼ってもいいのかもしれない。
……まあ、そう思った直後に「旦那様が無茶をするからでありんす」なんて言われているんだが。
俺は苦笑しながら行灯の火を見つめた。小さな炎がかすかに揺れている。その揺れる炎を眺めながら、俺は改めて明日のことを考えていた。
――翌日。
昼前になると、店の中はいつもとは少し違う緊張に包まれていた。
水戸の殿様が来る。ただそれだけのことなのだが、女たちの声はいつもより小さく、奉公人たちの足音もどこか慎重に聞こえる。普段なら気にも留めないような音まで妙にはっきり耳へ入ってくるのは、たぶん俺自身が落ち着いていないからなのだろう。
「旦那様」
女の一人が少し緊張した面持ちで俺に近づき、両手を前で揃えながら声を掛けてきた。
「もうすぐお着きになるそうで」
「ああ」
俺は頷きながら、少しだけ背筋を伸ばした。
「来たら、すぐ知らせてくれ」
「かしこまりました」
女は深々と頭を下げると、緊張した様子を崩さないまま足早に戻っていく。俺は、なんとなくその背中を見送った。
落ち着け。ただの客じゃない。……いや、それを考えたら、余計に落ち着かなくなるな。
そんなことを考えていると、外から声が上がった。
「お見えになりました!」
俺はすぐに立ち上がり、そのまま表へ出た。
通りには人が行き交っている。その中で一台の駕籠が止まっており、周囲には供の者が控えていた。明らかに普通の客とは違うため、それだけで通りを行く町人たちの視線がこちらへ集まっている。
こういうときだけ、人間は妙に目ざとい。
駕籠の簾が上がり、やがて足が地面へ下りる。衣の裾が揺れ、その人物が姿を見せた。
「待たせたな」
水戸の殿様は、俺を見つけるとわずかに口元を緩め、軽く顎を引いた。
「いえ。わざわざお運びいただき、ありがとうございます」
俺が深く頭を下げると、殿様は少し面倒そうに手を上げ、こちらを軽く制した。
「堅苦しい挨拶はよい」
その表情には、いつもの気安さが少しだけ戻っている。だが、俺には、それがいつも以上に作っているように見えた。
「こちらへ」
俺が身体を横へずらして中へ案内すると、殿様は無言で頷いた。
「恐れ入ります」
俺は殿様を店の奥の一室へ通した。
襖を閉めると外の気配が遠ざかり、二人きりになる。
「……久しぶりだな」
殿様は腰を下ろしながら、少しだけ表情を緩めて俺を見る。
「はい。ご無沙汰しております」
俺も向かいへ座り、静かに頭を下げた。
やがて茶が置かれ、湯気が細く立ち上っていたが、二人ともすぐには手を伸ばさなかった。妙な沈黙だった。
庭から鳥の声が一つ聞こえ、風が庭木の葉を揺らしている。その音だけが妙に大きく聞こえ、さら、さら、と葉が擦れる音を聞きながら、俺は殿様の顔を見つめた。
いつもの気安さはある。だが、今日はわざわざ俺の店まで来てもらっている。
せっかくこうして二人きりになったんだ。聞いておきたいことはいくつもある。
俺がこの時代にやってきてから色々とやってきたことを殿様がどう思っているのか、そして俺たちの付き合いをこれからどう考えているのか。ここまで来た以上、変に遠回しにする必要もないだろう。
俺が口を開こうとした、そのときだった。
殿様のほうが先に口を開いた。
「今日は、何か聞きたいことがあるのだろう?」
殿様は茶へ手を伸ばすことなく、俺の表情をじっと観察するように見つめていた。その目には、からかうような色と、それ以上に長い付き合いだからこそ分かるというような親しみが混じっている。
俺は一瞬だけ目を瞬いた。
「……分かりますか?」
「お前の顔を見ればな」
殿様は口元をわずかに緩め、昔から変わらない気安さを覗かせた。
「で、何だ?」
その言い方に背中を押されたような気がして、俺は一度ゆっくり息を吐いた。
「俺は、殿様にどう思われてるのでしょう」
俺は少し言葉を選びながら、殿様の目を見た。
「俺が今まで色々とやってきたことも、殿様ならご存じでしょう」
「うむ」
殿様は短く頷いた。
「だから、その……やりすぎだと思われていないのかとか、余計なことまでしていると思われていないのかとか」
そこまで言って、俺は少しだけ苦笑した。自分でも何を気にしているのか、うまく説明できないような気がしたからだ。
「自分じゃ、どこまでが普通なのか分からなくなってましてね」
俺が苦笑交じりにそう告げると、殿様はすぐには答えず、顎へ軽く手を添えながら黙って俺の顔を見ていた。
「俺としては、別に悪いことをしているつもりはないんです」
俺は少しだけ背筋を伸ばした。
そこは本当だ。店を良くしたい。働く人間が少しでも楽になればいい。桃香たちにも、できるだけ先のある暮らしをさせてやりたい。そう思って色々やっているだけだ。
ただ、俺にとっては当たり前でも、この時代の人間からすれば、そうではないこともある。そこだけは、前々から少し気になっていた。
「だから、一度くらい聞いておきたかったんですよ」
俺が真っ直ぐ殿様の目を見ながらそう告げると、殿様はわずかに目を細めた。
「俺が今までやってきたことを、殿様がどう見ているのかを」
殿様は、そこでようやく小さく息を吐いた。それから背筋を少し崩し、どこか納得したような表情を浮かべる。
「なるほどな」
「はい」
俺が頷くと、殿様はしばらく考えるように視線を落としたあと、再び俺を見る。
「お前は、お前自身が思っている以上に、自分のことを気にしているようだな」
「……そうでしょうか」
俺が少し眉を寄せて聞き返すと、殿様はからかうような笑みを薄く浮かべながらも、声そのものは穏やかだった。
「そうだ」
「だとしたら、それは桃香が気が付かせてくれたんですよ」
俺がそう答えると、殿様は少し意外そうに眉を上げ、それから納得したように頷いた。
「そうか、やはり良い娘だな。人の心の機微を察するのがうまい」
その言葉には素直な感心が滲んでいた。
そう言われると、俺は否定しにくかった。
「まあ、俺も好き勝手やってますからね」
俺が照れ隠しのように笑うと、殿様も目を細めた。
「好き勝手、か」
殿様は小さく笑い、茶へ手を伸ばしかけて、しかしすぐには飲まずに俺を見る。
「お前の場合、その言葉だけでは済まんがな」
「やっぱりですか」
俺は思わず苦笑し、後頭部を軽く掻いた。
「やっぱり、そこはそうなのか」
俺が肩を落とすように言うと、殿様は楽しそうに目を細めた。
とはいえ、殿様がこうして直接言ってくれるなら、そのほうがよほど分かりやすい。
「だからこそ、聞いておきたかったんですよ」
俺は改めて姿勢を正し、殿様を真っ直ぐ見た。
「この先も、俺は今まで通りやっていていいのか」
俺がそう問い掛けると、殿様はすぐには答えなかった。しばらく俺の顔を見つめ、その表情から何かを確かめるように目を細める。
「……それを聞きたかったのか」
「ええ」
俺が頷く。
殿様はしばらく俺を見つめたあと、ゆっくりと口元を緩めた。




