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桃香の水揚げ当日

 ――翌朝、まだ空が白み始めたばかりだというのに、俺は目を覚ました。いつもより早い。別に年寄りになったから朝が早くなったわけじゃない……いや、そういう可能性もないとは言えないが、今はまだ認めたくない。


「まあ誰だって歳は取るんだよな」


 誰に聞かせるでもなく、天井を見上げたまま苦笑し、片手を頭の後ろへ回しながら呟く。


 それはさておき、本当の理由はちゃんと分かっている。今日が、桃香にとって特別な日だからだ。


 布団の中でしばらく天井を見ていたが、もう一度寝ようという気にはならなかった。目を閉じても、どうせ今日のことを考える。なら、起きたほうが早いと結論を出し、俺は布団の縁へ手を置いてゆっくりと身を起こした。


 障子の向こうには、薄青い朝の光が滲んでいる。まだ朝というより、夜が終わりかけているだけみたいな時間で、外も静かだった。


 だが、店の中は完全には寝ていない。襖がそっと開く音がし、誰かが廊下を歩いていく。遠くでは小さな声が交わされていたが、それもすぐに途切れた。


 いつもの朝と比べれば、大した違いじゃない。なのに、今日は妙に耳につく。皆、もう動き始めているのだろう。今日一日のことを考えて。


 ……俺だけじゃなかったらしい。


 顔を洗い、身支度を整えて廊下へ出ると、すでに何人かの女たちが動いていた。


「おはようございます」


 廊下を歩いていた女の一人が俺に気づくと、足を止めることなく、それでも顔だけこちらへ向け、穏やかな笑みを浮かべながら軽く頭を下げた。


「ああ。おはよう」


 俺も片手を軽く上げ、朝の挨拶を返す。女はもう一度小さく会釈すると、口元の笑みを保ったまま、そのまま次の用事へ向かうように足を進めていった。


 皆、いつもより少しだけ足が速い。走っているわけでも慌てているわけでもないが、ただ、頭の中に次にやることが入っている人間の歩き方だった。


 俺はそんな様子を眺めながら店の奥へ向かい、桃香の部屋の前まで来たところで、思わず足を止めた。


 すでに人が集まっている。


「旦那様」


 こちらに気づいた女が振り返ると、背筋を少し伸ばし、俺へ向かって小さく頭を下げながら声を掛けてきた。


「もう始まってるのか?」


 俺が襖のほうへ目を向けたまま尋ねると、女は口元にかすかな笑みを浮かべ、安心させるように頷いた。


「ええ。今日は早うござんすから」


 そりゃそうだろうな。今日だけは、いつものようにのんびりしているわけにもいかない。


 襖の向こうから、女たちの声が聞こえてくる。


「少し顎を引いて」


 桃香の顔を鏡越しに確かめながら、女が桃香の顎の位置を示すように指先を軽く動かして伝える。


「はい」


 桃香は鏡から目を逸らさず、背筋を伸ばしたまま小さく返事をする。


「そうそう。そのままで」


 女が満足そうに頷くと、桃香もほんの少しだけ肩の力を抜き、鏡の中の自分をじっと見つめる。


 俺は襖の前で手を止めた。中に入って邪魔になるなら、やめたほうがいいかとも思ったが、せっかくここまで来たのに、そのまま引き返すのもなんだ。俺は襖を軽く二度叩いた。


「入っていいか?」


 声を掛けながら、返事を待つ。


 一瞬、向こうの声が止まる。


「旦那様?」


 桃香が鏡から顔を少し動かし、驚いたように目を丸くしながら襖のほうへ声を向ける。


「どうぞ」


 やがて返ってきた声は、いつもより少し小さく、どこか照れたような響きを含んでいた。


 俺はその返事を聞いて襖を開けた。


 朝の冷たい空気とは違う、ほんのりとした香の匂いが鼻をくすぐる。


 部屋の中央では、桃香が鏡の前に座っていた。髪はすでに整えられ、普段とは違う簪が挿されている。


 鏡越しに、桃香と目が合った。俺の姿を見つけると、桃香は一瞬だけ目を丸くしたあと、ほんの少し口元を緩めた。


「……どうでありんす?」


 桃香は鏡に映る自分ではなく、俺の表情を確かめるように目だけをこちらへ向け、少し不安そうに眉を上げながら尋ねる。


 その言い方が、妙に可笑しい。不安なのか、それとも褒めてもらいたいだけなのか。たぶん両方だろう。


 俺は腕を組み、少しだけ黙った。


 昨日までだって、何度も顔を見ている。何なら五年前から見ている。なのに、今日は少し違って見えた。


「似合ってる」


 俺は照れを隠すように腕を組んだまま、桃香の顔をまっすぐ見て短く答える。


 桃香が鏡越しに俺を見る。眉をほんの少し上げたまま、俺の顔をじっと見つめている。


「それだけでありんすか?」


 桃香は頬をわずかに膨らませ、少し不満そうに唇を尖らせながら俺へ尋ねた。


「他に何を言えっていうんだ」


 俺が困ったように眉を寄せ、肩をすくめるように答えると、桃香は鏡越しにいたずらっぽく目を細めた。


「もう少しありんしょう」


 桃香が甘えるように小さく首を傾けて言うと、すぐ横にいた女たちが、それを聞いて肩を揺らしながら、くすくすと笑った。


 俺は少しだけ困った。こういう時、何を言えば正解なんだ。昔から女の化粧を褒めるのは苦手なんだよな。下手なことを言うと怒られるし、適当に褒めても見抜かれる。


 面倒な生き物だ。


 ……いや、今それを考えるのはやめよう。


 俺は一度桃香の顔を見直してから、少し照れくさそうに視線を逸らし、それでも聞こえるようにはっきりと言った。


「……綺麗だぞ」


 俺が少しだけ頬を緩めながら、照れを隠すように視線を外して告げる。


 その言葉を聞いた瞬間、桃香の目元がふっと緩んだ。


「そうでありんすか」


 桃香は少しだけ俯き、嬉しさを隠すように口元へ柔らかな笑みを浮かべながら答える。


「ああ」


 俺が頷くと、桃香は嬉しそうに笑った。


 だが、その笑顔のまま鏡を見ると、膝の上に置いた指先がわずかに動いた。嬉しいだけじゃない。やはり緊張もしているのだろう。


「いよいよでありんすね」


 桃香は鏡を見つめたまま、指先を膝の上でそっと重ね、少し緊張した面持ちで呟いた。


「ああ」


 俺が静かに頷くと、桃香は唇をわずかに噛み、それから困ったように笑った。


「昨日までは、まだ先のような気がしておりんした」


 桃香はそう言ってから、鏡越しに俺を見る。目には期待と不安が入り混じっていた。


「今は?」


 俺が少し身を乗り出すようにして、桃香の顔を覗き込むように尋ねると、桃香は鏡から目を逸らし、指先を膝の上で組んだ。


「近うござんす」


 その答えを聞いて、俺は口元を緩めた。


「近すぎるくらいか?」


 少し冗談めかして眉を上げながら聞くと、桃香は困ったように眉を下げ、それでも小さく笑った。


「近すぎるくらいでありんす」


 桃香が小さく肩を揺らして笑うので、俺も苦笑する。そりゃそうだ。当日になってしまえば、もう先延ばしにはできない。


「まあ、今日は長いぞ」


 俺が少し真面目な顔に戻り、桃香へ言い聞かせるように穏やかな声で告げると、桃香は小さく頷いた。


「はい」


 桃香は姿勢を正しながら返事をする。


 昨日まで何度も確認してきた。やることも、挨拶も、振る舞いも、何度も練習した。なのに、いざ今日になると、全部違って見える。


 当たり前だ。練習と本番は別物だからな。


 俺なんかも、昔そういうのは何度も経験した。まあ、俺の場合はもっと俗っぽい仕事だったが……それは今、思い出さなくていい。


「こちら、お願いしやす」


 桃香の髪へ手を添えながら、女が後ろから鏡越しの桃香へ声を掛ける。


「はい」


 桃香は鏡の中の女へ目を向け、小さく頷いた。


「襟元、少しだけ直しましょう」


 別の女が桃香の肩口へ手を伸ばし、襟を整えながら声を掛ける。


「お願いしんす」


 桃香は顎を少し上げ、女が作業しやすいように身体を動かさず、そのまま素直に返事をした。


 桃香の周りでは女たちが忙しなく動いている。その声に答えながら、桃香はじっと鏡の前に座っていた。時々、唇をきゅっと結ぶ。それでも、もう俺のほうを見ようとはしなかった。


 自分の顔を鏡で確かめながら、じっとその時を待っている。


 やがて、女の一人が桃香から少し離れ、仕上がりを確かめるように目を細めた。


「仕上がりました」


 女は満足そうに頷きながら桃香へ告げる。


 その声を聞いて、桃香がゆっくり立ち上がる。鏡へ近づいて自分の姿を確かめるように見てから、こちらを振り返った。


「……どうでありんす?」


 桃香は少しだけ不安そうに眉を上げ、俺の反応を窺うように首を傾けながら尋ねる。


「うん」


 俺が素直に頷きながら答えると、桃香はすぐに眉を下げた。


「また『うん』でありんす」


 桃香が呆れたように頬を少し膨らませるので、その顔がおかしくて、俺は思わず苦笑する。


「じゃあ、綺麗だ」


 俺が今度は言葉を選ぶように、桃香の目を見てはっきり告げる。


「それならよいでありんす」


 桃香は満足そうに頷き、口元へ笑みを浮かべた。


 今度の笑顔は、少し自然だった。


「……少し、胸がどきどきしておりんす」


 桃香は胸元へそっと手を当て、緊張を自分でも確かめるように苦笑しながら俺へ告げる。


「そうだろうな」


 俺が頷くと、桃香は少しだけ首を傾けた。


「旦那様は?」


 桃香が俺の顔を覗き込むようにして尋ねる。


 急に聞かれて、俺は少し考えた。別に俺が主役じゃない。なのに、朝からずっと落ち着かない。


「俺もだよ」


 俺は照れ隠しのように鼻の頭を軽く掻きながら答えると、桃香が目を丸くした。


 それから、ふふっと笑う。


「旦那様まで緊張するのなら、仕方ありんせんね」


 桃香は口元に指を添え、少しだけ肩を揺らして笑った。


「俺のせいにするな」


 俺が呆れたように眉を上げて言うと、桃香はさらに嬉しそうに目を細めた。


「では、お互い様でありんす」


 桃香が柔らかく微笑みながら言う。


「ああ」


 俺も笑いながら頷く。


 そんなやり取りをしているうちに、少しだけ空気が軽くなった。緊張がなくなったわけじゃない。ただ、二人とも少しだけ息がしやすくなった。


 やがて、外へ出る時間が来た。


 戸を開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。桃香が隣で小さく息を吸う。その姿を横目で見ると、さっきまでよりも表情が固い。


 まあ、そりゃそうだ。部屋の中では、まだ身内ばかりだった。外へ出れば、人の目がある。


 通りには、いつものように人がいる。荷を運ぶ者、店を開ける者、行き交う町人。いつもの朝の町だ。


 だが、こちらへ向けられる視線は、明らかに多かった。桃香の姿に気づいたのだろう。足を止める者もいれば、小さな声で話す者もいる。


「……桃香でありんすね」


 通りの端にいた男が、隣の者へ顔を寄せるようにして、目を桃香から離さず小声で言う。


「そうらしいな」


 隣の男も桃香を見ながら頷く。


「綺麗になったなあ」


 男が感心したように目を細め、もう一度桃香の姿を眺めながら呟いた。


 その声に、桃香の肩がほんの少し強張る。


 俺はそれを見た。


 大丈夫か、と声を掛けようと思った。だが、その前に桃香自身が背筋を伸ばした。顎を引き、表情を整えると、周囲の視線を受け止めるようにまた一歩を踏み出す。


 その姿を見て、俺は口を閉じた。今、俺が余計なことを言う必要はない。桃香は、ちゃんと分かっている。


 緊張していても、止まらない。その歩き方を、何度も練習してきた。挨拶をするときには相手へきちんと顔を向け、声を掛けられれば足を止め、わずかに笑みを浮かべながら頭を下げる。その一つ一つを、桃香は何人かと話すうちに少しずつ自分のものにしていった。


 途中、人の流れが少し途切れた。


 俺は桃香の横へ寄り、周囲に聞こえないよう少し身を屈めて尋ねる。


「大丈夫か?」


 俺が心配そうに桃香の横顔を見ながら小声で聞くと、桃香はすぐには答えなかった。少しだけ笑おうとして、それから小さく首を傾ける。


「……少しだけ、足が疲れやした」


 桃香は困ったように眉を下げ、足元へ一瞬だけ視線を落としてから答える。


「休むか?」


 俺が桃香の顔を覗き込むようにして尋ねると、桃香は小さく首を振った。


「いえ。まだ大丈夫でありんす」


 そう答えながら、桃香は自分の着物の裾を指先で整える。疲れを隠すような仕草だった。


 その言葉を聞いて、俺は少し迷った。無理しているのか、本当に大丈夫なのか。こういう時、どこまで止めるべきなのか、いまだによく分からない。


「無理するなよ」


 俺が念を押すように、桃香の目を見て静かに言うと、桃香は俺の顔を見て小さく頷いた。


「はい」


 桃香は素直に返事をすると、一度だけ深く息を吸い、気持ちを切り替えるように胸を張ってまた歩き出した。


 昼を過ぎる頃には、一通りの挨拶も終わった。


 店へ戻り、戸が閉じた。その瞬間、桃香が肩を落とすようにして長く息を吐いた。さっきまでずっと張っていたものが、一気に抜けたようだった。


「……ふう」


 桃香が胸元へ手を当てながら大きく息を吐く。


「疲れたか?」


 俺が少し笑いながら尋ねると、桃香は俺を見上げ、いかにも疲れましたと言いたげな情けない顔をする。


「……はい」


 桃香が素直に頷くので、俺は思わず笑った。


「顔に出てるぞ」


 俺が顎で桃香の顔を指し示しながら笑うと、桃香は頬を少し膨らませる。


「旦那様もでありんす」


 桃香が俺の顔を指先で示すようにしながら、少し得意そうに返す。


「俺もか?」


 思わず自分の顔を指差して尋ねると、桃香がくすっと笑った。


「ええ」


 桃香は目を細め、朝よりもずっと余裕のある笑い方をした。


「わっち、ちゃんとできておりんした?」


 桃香が少し不安そうに俺を見つめ、確認するように尋ねる。


 その言葉に、俺はすぐ答えた。


「ああ」


 迷う必要なんかなかった。


「立派だったよ」


 俺がまっすぐ桃香の目を見て、労うように穏やかな笑みを浮かべて告げると、桃香の笑顔が一瞬だけ止まった。それから、その言葉を自分の中で確かめるように、ゆっくり頷いた。


「……そうでありんすか」


 桃香は少し俯きながら、小さな声で聞き返す。


「ああ」


 俺がもう一度頷くと、桃香も小さく頷き返した。


 午後は少しだけ静かな時間になった。


 だが、それも長くは続かない。夕方になれば、店にはまた夜の気配が戻ってくる。昼が終わったから全部終わり、というわけじゃない。むしろ、ここからだ。


 桃香はもう一度、鏡の前に座っていた。


 俺は少し離れたところから、その背中を見ていた。


 朝とは違う。朝は不安と緊張がそのまま表に出ていたが、今は違う。何かを決めようとしている顔だった。


 桃香が簪へ指を添える。ゆっくりとその飾りを撫でるようにしていた指が、そこで止まった。


「……旦那様」


 桃香が小さな声で俺を呼び、鏡越しに俺の姿を見つめる。


「何だ?」


 俺が顔を向けると、桃香がこちらを振り返る。少しだけ迷ったような顔をしていて、視線も一度だけ下へ落ちた。


「少しだけ」


 桃香が言葉を探すように唇を結ぶ。


「うん?」


 俺が続きを促すように首を傾けると、桃香は一度唇を結んだあと、意を決したように俺を見る。


「ここにいてもらえやすか?」


 桃香の声には、朝とは違う静かな頼りなさが混じっていた。


 俺はすぐに頷いた。


「分かった」


 安心させるように笑って答えると、桃香もほっとしたように小さく笑った。


 桃香の隣に座る。


 二人の姿が、鏡に映っている。


 しばらく、どちらも何も言わなかった。遠くから三味線が聞こえ、誰かが廊下を歩いていく。店の中はいつもの夜になり始めている。なのに、今日はその音が妙にはっきり聞こえた。


 桃香がゆっくり息を吸い、それから長く吐いた。


「旦那様」


 桃香は鏡を見たまま、少しだけ顔を横へ向けて俺を呼ぶ。


「うん?」


 俺が桃香の横顔を見ながら返事をする。


「わっち、子供の頃と変わりんしたか?」


 桃香はどこか確かめるような表情で、鏡の中の自分を見ながら尋ねる。


 俺は少し笑った。


「変わったよ」


 俺が桃香の目を見ながら穏やかに答えると、桃香は小さく首を傾けた。


「どのくらい?」


 桃香が冗談半分、本気半分といった顔で、少しだけ口元を緩めながら聞いてくる。


「ものすごく」


 俺が即答すると、桃香が、ふっと笑う。


「そうでありんすか」


 桃香はそう呟きながら、再び鏡の中の自分を見る。


「ああ、綺麗になった」


 俺も鏡へ視線を向けながら、静かにそう告げる。


 その顔を、桃香はしばらく黙って眺めていた。


「では、もう子供ではありんせんね」


 桃香は鏡の中の自分を見つめたまま、少し寂しさを滲ませて静かに呟く。


「ああ」


 俺が答えると、桃香は少しだけ目を伏せた。


「……なんだか、不思議でありんす」


 桃香が自分の頬へ指先を触れながら、小さく笑う。


「そうだな」


 俺も鏡を見る。そこに映っている桃香と、昔の桃香が頭の中で重なった。


 小さかった頃。何も分からないまま、俺の袖を掴んでいた。あの頃は、こんな日が来るなんて考えもしなかった。いや、考えたくなかっただけかもしれない。


 子供はいつか大きくなる。当たり前の話だ。当たり前なんだが、実際にその時が来ると、なかなか素直に当たり前だとは思えない。


「今日は、長い一日だったな」


 俺が鏡越しの桃香を見ながら静かな声でそう言うと、桃香はゆっくり頷いた。


「はい」


 桃香が小さく笑いながら返事をする。


「よく頑張った」


 俺が労うように少し笑うと、桃香がこちらへ顔を向けた。


「ありがとうござんす」


 桃香は俺の目をまっすぐ見て、嬉しそうに小さく笑った。


「行ってまいりんす」


 桃香は立ち上がりながら、俺の目をまっすぐ見た。


「ああ」


 俺も頷く。


 桃香が一度だけ深呼吸する。それから俺のほうを振り返った。


 朝よりも、その目は落ち着いていた。


 俺は黙って頷く。


 桃香も頷き返す。


 そして、襖が静かに閉じた。


 足音が遠ざかっていく。やがて、それも聞こえなくなった。


 俺は一人、部屋に残った。


「……長い一日だったな」


 今度は誰に言うでもなく、少し疲れの滲んだ声で呟き、俺は首の後ろを軽く揉んだ。


 桃香のことを考えれば、今日は大きな一日だった。きっと、これから先も忘れない。


 俺はしばらく考え込むように顎へ手を当て、それからゆっくり頷いた。


「……もう一度、殿様と話をしないとな」


 俺は独り言を呟きながら、眉を寄せる。


 今度は、ただ酒を飲みながら世間話をするだけじゃない。俺が知らないところで、何か動いていることがあるのか。できるだけ聞く。


 もちろん、殿様だって何でも話してくれるとは限らない。だが、聞かなければ何も分からない。


 俺と桃香を守るためにも。


 自分一人なら、多少危ない橋を渡ってもいい。いや、本当はよくないんだけどな。


 俺は苦笑しながら首を横に振る。


 危ない橋は渡らないに越したことはない。渡らなくても済むなら、そのほうが絶対にいい。


 だが、俺だけの問題なら、最悪の場合は俺が責任を取ればいい。


 桃香まで巻き込むわけにはいかない。


 今日、あいつは自分の未来へ向かって一歩を踏み出した。その直後に、俺の知らないところで何かに巻き込まれる。そんなことはさせたくない。


「まず、知る」


 俺はそう呟き、決意を固めるように小さく頷いた。


 俺は盃へ手を伸ばした。だが、途中で手を止めた。


 盃を見つめたまま、わずかに眉を寄せる。


 今日は、酒を飲む気になれない。いや、飲んだら飲んだで余計なことを考えそうだ。


 俺は小さく息を吐き、伸ばしていた手を引っ込めた。


 外を見る。


 夜の町は、いつもと同じように灯りに包まれている。人の声がし、三味線が聞こえ、どこかで笑い声が上がる。いつもの夜だ。


 何も変わっていない。


 少なくとも、町だけを見ればそう見える。


 けれど。


 俺には、もう昨日までと同じ景色には見えなかった。


 桃香は、自分の未来へ進み始めた。ならば、俺は俺で、その未来を守れるだけのものを掴んでおかなければならない。


 何が起きているのか、誰が動いているのか。知らなければ、守りようがない。


 俺は暗くなった町を眺めながら、静かに息を吐いた。


 ――次に水戸の殿様と会った時。


 今度こそ。


 俺は窓の外から視線を戻し、決意を固めるように小さく頷いた。


 少し、腹を割って話を聞こう。

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