次の世代へ託すもの
さて、肉好きな水戸の若様にも、穢多や非人に対する差別をなくしていくための手助けをしてもらえそうだ。これで、遊女や歌舞伎役者などの芸人だけではなく、穢多や非人に対しても、少しずつでいいから差別意識が薄れていってくれればいいと思う。
もちろん、すぐに世の中が変わるなんて思っていない。長い間、人々の中に染みついてきた考え方なのだから、親からそう教えられ、周りの人間も皆そうしていることを当たり前だと思って生きてきた者に、「今日から考え方を変えろ」と言ったところで、簡単に変わるはずもない。
「楼主や遊女、歌舞伎役者の子に生まれたからといって、それだけで蔑まれるようなことがなくなっていったように、穢多や非人に対する差別も、少しずつなくなっていけばいいな」
俺はそう呟きながら、少し離れたところで海老蔵と遊んでいる清花を眺めた。清花が手を伸ばすと、海老蔵は嬉しそうに尻尾を振りながら駆け寄り、砂埃を小さく跳ね上げながら、その周りをぐるぐると回っている。
「ほら、海老蔵。こっちですよ」
「わんっ!」
「ふふっ。落ち着いてください」
清花が笑いながら海老蔵を宥めると、海老蔵も「わふっ」と短く鳴き、また尻尾を振った。そんな二人を眺めていると、それまで張っていた肩の力が少しずつ抜けていくのを感じた。
ふと、通りの向こうに目をやる。
そこでは、吉原で働く男が近所の商人と何やら話をしていた。以前なら、身分や生まれを理由に距離を置かれていたような相手でも、今では仕事の話をするために普通に顔を合わせ、商売の相談をしている。
「この前頼んだ荷は、明日の朝には届くそうです」
「それなら助かる。こっちも代金は用意しておくよ」
そんな、ごく当たり前のやり取りだった。
少し離れたところでは、遊女屋の下働きの娘が、近所の子供たちに混じって笑っている。子供たちはその娘の境遇なんて気にする様子もなく、一緒になって何かを言い合い、娘のほうも笑いながらそれに応じていた。
ほんの少し前なら、こうした光景だって当たり前ではなかったのだろう。
それを思うと、俺は小さく息を吐いた。
劇的に何かが変わったわけじゃない。
誰もが偏見を捨てたわけでもない。
それでも、以前なら交わらなかった人間同士が、少しずつ同じ場所で話をし、仕事をし、笑い合うようになっている。
こういう小さな変化こそが、大事なのかもしれない。
「ええ、そうですね。私もそう思います」
妙が静かに答える。
「妙はもともとは普通の町民だったわけだしな」
「ええ。ですけど、私もここ吉原で働くことになっていたかもしれませんから」
「……そういや、そうだったな」
その言葉に、俺は少し黙った。
生まれた家や親の事情、そしてほんのちょっとした不運、それだけで、人の人生なんて簡単に変わってしまう。妙だって、決して例外じゃなかった。
今でも吉原に売られてくる幼い娘はいるし、遊女そのものに対する世間の偏見だって、まだ残っている。けれど、それでも以前とは少しずつ違ってきているのも確かだった。
病気になれば治療を受けられるようになり、食事もまともになったし、無茶な扱いを受けることも減っている。それに、こうして吉原で働く人間が、少しずつ町の外の人間とも普通に関わるようになってきた。
もちろん、まだ十分じゃない。
だが、それでも変化が始まったことには意味がある。
品川の飯盛女もそうだし、大阪の新町遊廓もそうだ。その他の四宿や、日本各地の飯盛旅籠だって、すぐには無理でも、少しずつ変わっていくだろう。
問題は、それを一時的なものにしないことだ。
俺が生きている間だけ、俺の目の届く場所だけで変化が起きているようでは意味がない。俺がいなくなったあとも、簡単には昔へ戻れないようにする必要がある。
そのためには、決まりを作るだけじゃ足りない。実際に人と人が顔を合わせ、一緒に働き、一緒に飯を食い、一緒に商売をする。そういう当たり前のことを、一つずつ増やしていくしかない。
相手のことを知らなければ、人は怖いと思う。知らないからこそ、先祖代々の噂や偏見を信じてしまう。だったら、まず知ってもらえばいい。
遊女だから。芸人だから。穢多だから。非人だから。
そんな理由だけで、人を一段低く見ることがおかしいのだと、少しずつでも思う人間を増やしていく。
「……まあ、全部を変えるなんてのは無理だろうけどな」
俺がそう呟くと、妙がこちらを見ながら静かに尋ねた。
「それでも、変えていくのですか?」
「ああ」
俺は頷いた。
「十人のうち一人でもいい。その一人が、また別の誰かに影響を与える。そうやって少しずつ広がっていけばいいさ」
「ずいぶん気の長い話ですね」
「世の中を変えるってのは、たぶんそういうもんだよ」
人の意識なんて、命令したから変わるものじゃない。だから、俺が生きている間に全部終わらせる必要もない。
俺が始める。
そして、それを次の世代へ渡す。その世代が、また少し先へ進めていく。それでいい。
何十年、何百年と、そうやって積み重なった先で、昔なら当たり前だった差別を見て、「そんなことをしていた時代があったのか」と言われるようになれば、それで十分だ。
「……そうなればいいですね」
「ああ」
妙の声に、俺は静かに頷いた。
遠くでは清花が楽しそうに笑っていて、海老蔵も、それに応えるように吠えている。吉原の町にはいつものように人の声が満ちていて、何でもない、穏やかな一日が流れていた。
俺は、この光景がこれからも続いていけばいいと思っていた。
「……まあ、俺が始めちまったことだからな」
そう呟いてから、俺はゆっくりと立ち上がった。
「吉原だけじゃない。品川も、新町も、それ以外の場所も、これからも見て回らないとな」
「また忙しくなりそうですね」
「仕方ないさ」
苦笑しながら、俺は清花たちのほうへ歩いていく。足元では砂が小さく鳴り、その音に気づいた海老蔵が、尻尾を振りながらこちらへ駆けてきた。
「お前は元気だなぁ」
「わんっ!」
頭を撫でてやると、海老蔵は嬉しそうに身を寄せてきた。その向こうでは、清花が楽しそうに笑っている。
だが、この先、社会が変わっていくにつれて、今までとは違う問題も生まれてくることもあるだろう。
人は、一度覚えた偏見だけを捨てるわけじゃない。古い偏見が薄れれば、今度は新しい線引きを作ろうとする者もいる。だからこそ、変化は一度始めれば終わりというものではない。
誰かが踏み出せば、誰かが追いつく。その一方で、元へ戻そうとする者も必ず現れる。そうした繰り返しの中で、本当に世の中が変わっていくのだ。




