第9話 魔の森の入り口と、小さなお茶会
「魔の森に、行こう」
僕がそう言ったとき、ミレイは持っていた木匙を、ぽろりと落とした。
「はあ!? あんた、頭おかしいんじゃないの!?」
「ギンが、助けてって言ってるんだ」
僕の膝の上で、銀色の子ぎつねが、ぎゅっと服をつかんでいる。
前の晩、ギンは念話で、少しずつ話してくれた。
『もりの、おくに、おおきな、ほしのくさが、あるの。みんなの、おかあさんみたいな、くさ』
『でも、ひとが、きて、ねっこを、すこし、もっていったの。それから、もりの、ぬしさまが、ずっと、おこってる』
『もりの、まりょくが、みだれて、ぼくたち、すめなくなったの……』
つまり、こういうことだった。
誰かが魔の森に入り込み、星影草の「母株」から根を盗み出した。それで森の主が怒り、森じゅうの魔力が乱れている。ギンは、その魔力に押し出されるように、森を逃げてきたのだ。
「ミレイが買った薬草の束に、星影草が混ざっていたのは、偶然じゃない」
ハンナさんが、静かに言った。
「誰かが、森から盗んだものを、町に流している。……放っておけば、森の怒りは、いつか村にも届くよ」
ミレイは、しばらく唇をかんでいたが、やがて、深いため息をついた。
「……わかったわよ。行けばいいんでしょ、行けば! でも、私も行くからね!」
「え、ミレイも?」
「あんた一人じゃ、危なっかしくて見てられないのよ! それに……ギンが、かわいそうじゃない」
そっぽを向きながら、ミレイの耳は、真っ赤だった。
* * *
領主さまにも、事情を話した。
伯爵はしばらく考え込んだあと、すぐに護衛をつけてくれた。
「森の主は、人の言葉をわかる、とも言われている。戦ってはならん。くれぐれも、気をつけなさい」
護衛に来てくれたのは、あの日、薬屋に駆け込んできた、若い騎士だった。名前は、ダリオ。
「ケン殿、自分が守ります! お任せください!」
胸を張って敬礼するダリオさんに、ミレイが小声でつぶやく。
「……あの人、ちょっと頼りなさそうね」
「ミレイ、聞こえてるよ」
* * *
魔の森の入り口は、村から馬車で半日ほどの場所にあった。
森は、霧に包まれていた。空に届くほど高い木々が、壁のようにそびえている。葉のすき間から差し込む光は、うす青く、ひんやりとしている。
「……きれい」
ミレイが、思わず声をもらした。
「でも、空気が、重いわ。魔力が、ざわざわしてる」
僕の腕の中で、ギンが小さく震えた。
『ここ。ここから、さきは、ぬしさまの、おうち』
「ダリオさん、剣は抜かないでくださいね」
「は、はい! 承知しました!」
霧の中へ、一歩、足を踏み入れる。
その瞬間、森が、しん、と静まり返った。
鳥の声も、風の音も、消えた。
そして、霧の奥から、大きな影が、ゆっくりと姿を現した。
雪のように白い毛並み。月明かりを集めたような、淡く光る、立派な角。
高さは、人の背の倍もある、巨大な白鹿だった。
『……人の子よ』
低く、深い声が、頭の中に直接ひびいた。
ダリオさんが、反射的に剣の柄に手をかける。
「待って!」
僕は、慌ててダリオさんを止めた。
「戦いに来たんじゃありません! お願いです、話を聞いてください!」
白鹿の、深い金色の瞳が、じっと僕を見つめた。
『……おまえは、星の草の香りがする』
「はい。ギンを、助けました。この子が、あなたの森から、逃げてきたので」
僕の腕の中で、ギンが、きゅう、と鳴いた。
白鹿の目が、わずかに細くなる。
『その子は、我が森の子。……人の子よ、礼を言おう』
『だが、おまえたちは、同じ人間だ。星の母の根を、盗んだのも、人間だ』
空気が、びりびりと震えた。森じゅうの木々が、いっせいにざわめく。
ミレイが、ひっ、と息をのんだ。
(……怒ってる)
でも、僕は、不思議と、怖くなかった。
前世で、何度も、理不尽に怒鳴られてきたからかもしれない。怒っている人の奥には、たいてい、傷ついた何かがある。
僕は、背負ってきた鞄から、小さな水筒を取り出した。
「……お茶を、持ってきました」
「ちょ、ちょっと、ケン!?」
「月光草のお茶です。魔力が乱れているときに、効くはずなんです」
僕は、木のコップに、淡く光るお茶をそそいだ。甘くて爽やかな香りが、霧の中に、ふわりと広がる。
そして、白鹿の前に、そっと置いた。
「怒っているときは、まず、ひと息ついたほうがいいと思って」
長い、長い沈黙が、流れた。
やがて、白鹿は、ゆっくりと首を下げた。
大きな鼻先が、コップに近づく。そして、ちいさな音をたてて、お茶を、一口、飲んだ。
……ふう。
白鹿が、深く、息を吐く。
光る角から、とげとげしい青白い光が、すうっと消えていった。霧が、少しずつ、やわらかな金色に変わっていく。
『……これは、懐かしい味だ』
声が、さっきより、ずっとおだやかになっていた。
『百年前、この草を育てていた人の子がいた。その者も、同じように、我に茶をふるまってくれた』
白鹿は、僕を見つめた。
『人の子よ。名は、何という』
「ケン、です」
『ケン。……おまえは、他の人間とは、違うようだ』
白鹿は、額の毛を、ぱさりと一本、抜いた。それが、ふわりと光る、小さな木の葉に変わる。
『これを持て。この森の者は、おまえを襲わぬ。……盗人を、見つけてくれ。星の母は、いまも、弱っている』
僕は、両手で、その葉を受け取った。
「……約束します。きっと、見つけます」
ミレイが、小さな声でつぶやいた。
「……あんた、本当に、とんでもないわね」
* * *
帰り道、ダリオさんが、馬車の外を見ながら、ふと声をあげた。
「……おや? ケン殿、あの轍は?」
森の外れの土の上に、新しい馬車の車輪の跡が、くっきりと残っていた。森から、町の方角へ、まっすぐ続いている。
そして、その車輪の跡には、いくつもの、小さな足跡が混ざっていた。
檻に入れられた何かが、運ばれた跡のように。
ミレイが、はっと顔を上げた。
「待って。あの薬草を売ってた行商人……確か、『ガルド』って名乗ってた」
僕とハンナさんは、顔を見合わせた。
ギンが、僕の腕の中で、ぎゅっと身を縮めた。
『……あのひと、きらい。こわい、においがする』
窓の外では、夕焼けが、森の上を赤く染めていた。
――第10話へ続く――




