第64話 砂蜜のお茶と、七番目の棚
翌朝、寮の食堂で、ミレイに、昨夜のことを、小声で、話した。
「……ノアさんが、夜中に、井戸の前に?」
ミレイは、パンを持った手を、ぴたりと止めた。
「うん。『心鑑定』で、見せてもらった。心の中に、黒い種みたいなものが、埋まってた」
「種……」
「『影の種』って、出た。次の満月に、発芽するって。あと、三日」
ミレイの顔から、さっと、血の気が引いた。
「それ、砂の主の、影の、仕業ね」
「たぶん。それと、ノアさんに、黒い外套の、おじいさんが、小瓶を、渡したらしいんだ」
「黒い外套の、おじいさん……アルドゥス先生」
「うん。確かめに行きたい」
ミレイは、パンを、ぐっと、飲み込んで、立ち上がった。
「リヒトと、トビも、呼ぶわよ。人手は、多いほうがいい」
* * *
朝の、薬草園の、ベンチに、五人が、集まった。
僕。ミレイ。リヒト。トビ。そして、ノアさん。
ノアさんは、緊張した顔で、小さな、青いガラスの小瓶を、両手で、包んでいた。
「これが、おじいさんに、もらった瓶です」
「ありがとう。僕が、先に、見せてもらうね」
僕は、瓶を、そっと、受け取って、心の中で、唱えた。
(……雑草鑑定)
【名称:砂蜜の茶】
【効能:飲んだ者の、悲しみを、少しずつ、砂に、変える。心が、鈍くなり、やがて、砂の声に、呼ばれる】
【原料:干した月見草。砂漠の蜜。星砂】
「……やっぱり」
「何て、出た?」
「毒じゃない、けど、毒より、たちが悪い。悲しみを、砂に、変えていく、お茶」
ミレイの顔が、険しくなった。
「月見草を、使ってるの? エレナ大叔母さんの、花を」
「うん。それも、気になる」
「ちょっと、貸して」
トビが、小瓶を、僕の手から、すっと、取った。
蓋を、ほんの少しだけ、開けて、くんくん、と、鼻を、鳴らす。
「……うん。確かに、月見草の、乾燥葉。それと、砂漠の、蜜。花の蜜、じゃなくて、岩の割れ目から、にじむ、古い蜜だ」
「トビ、そんなことまで、わかるの?」
「僕、鼻だけは、自信があるんだ」
トビは、にっと、笑った。
「でも、気になる。この蜜、最近の、ものじゃない。何十年も、寝かせた、匂いがする。ほとんど、化石みたいな」
「何十年……」
リヒトが、腕を、組んだ。
「アルドゥス先生は、四十年前に、亡くなった。つまり、四十年前に、作られた、お茶かもしれない」
「そのお茶を、わざと、ノアさんに、渡したの?」
ミレイが、ノアさんを、ちらりと、見た。
ノアさんは、うつむいたまま、小さな声で、言った。
「……ごめんなさい。わたしが、飲んだから」
「ノアさんのせいじゃないよ」
僕は、すぐに、首を、振った。
「悪いのは、渡した、人だから」
「でも」
「でも、は、いらない」
僕は、小瓶を、そっと、鞄にしまって、ノアさんに、言った。
「今日の、調査に、ノアさんも、来てほしい」
「え?」
「書庫の、奥に、アルドゥス先生の、『灯の書』が、あるはずなんだ。もしかしたら、ノアさんの、種を、取り除く、手がかりが、あるかもしれない」
「でも、わたし、足手まといに」
「足手まといじゃ、ないよ。むしろ、一番、大事な、人」
ノアさんは、目を、丸くした。
「ノアさんの、心の中の、種を、守りたいんだ。ひとりに、しない」
ミレイが、ふん、と、息を、ついた。
「そういう、ことよ。仲間は、多いほうが、いいの」
「……ミレイさん」
「ミレイでいいわ。ね、ノア」
「……うん。ミレイ」
その様子を、見ていたリヒトが、ぼそりと、言った。
「おい、ノア。俺のことは、『リヒトさん』と、呼べ」
「ええと、リヒトさん」
「……やっぱり、『リヒトくん』でいい」
「どっちよ!」
ミレイが、頭を、抱えた。
トビが、ぷっと、吹き出して、ノアさんも、ほんの少しだけ、口もとを、ゆるめた。
* * *
昼過ぎ、マルグリット先生と、一緒に、地下へ、降りた。
石造りの、薄暗い通路。壁に、松明が、ぽつぽつと、灯っている。
通路の突き当たりに、あの、黒い、巨大な扉が、そびえていた。
けれど、前に見たときより、扉の、青い波の文様が、ずっと、くっきりと、光っている。
ざざあ……ざざあ……
波の音が、通路じゅうに、響いていた。
「これは……」
「日に日に、大きくなっています」
先生が、扉に、手を、当てた。
「どうやら、ケン殿が、六つ目の草を、手にしたことが、書庫の、封印に、影響して、いるようです」
「僕が、近づくと、開く、みたいですね」
「ええ。さあ、どうぞ」
僕が、扉に、手を、触れると、ぎい、と、重い音を、立てて、扉が、大きく、開いた。
前よりも、ずっと、広く。みんなが、並んで、入れるほどに。
扉の向こうに、あの、円形の、大広間が、広がっていた。
天井の、逆さまの、青い海。銀色の、小さな、魚の群れ。珊瑚のような、本棚。
「わあ……」
トビが、目を、輝かせた。
「すごい。まるで、海の中の、図書館だ」
『ようこそー!』
泡さんが、僕の、帽子から、ぽんと、飛び出して、くるくる、回った。
『ひさしぶりの、おきゃくさん! いっぱい!』
「うわっ、しゃべった!」
トビが、仰天して、後ずさった。
「ええと、泡さんは、この書庫の、番人で、僕の、友達なんだ」
「番人!? クラゲの!?」
『クラゲ、ちがう。ばんにん』
「ご、ごめん」
トビが、慌てて、頭を、下げた。
そのやり取りに、ノアさんが、また、ほんの少し、笑った。
「かわいい」
『えへへ。ありがとう、ノア』
泡さんは、嬉しそうに、ぷくぷくと、泡を、吹いた。
「ノア。あの、七番目の、棚は、どこ?」
僕が、聞くと、泡さんは、広間の、奥を、指した。
『あっち。でも、まえに、なかった、たな。ぼくが、ねてるあいだに、できてた』
広間の、いちばん奥。
珊瑚の本棚の、列の、さらに、向こうに、ひとつだけ、古びた、木製の棚が、ぽつんと、置かれていた。
黒ずんだ、重い、木。表面に、小さな、星の彫刻。
けれど、その棚の、前に、白い砂が、積もっていた。
「……砂」
ミレイが、眉を、ひそめた。
「ここまで、砂が」
「影が、先に、来た、のかもしれない」
リヒトが、低く、言った。
僕は、慎重に、棚に、近づいた。
棚には、一冊の、本だけが、置かれている。
白い、革の、表紙。金色の、文字で、題が、刻まれていた。
『灯の書』
「あった」
手を、伸ばした、瞬間。
ばりっ、と、鋭い音がして、棚の、まわりの砂が、噴き上がった。
「わっ!」
「ケン、下がれ!」
リヒトが、僕の、腕を、引いた。
砂は、棚の前で、渦を巻いて、ひとつの、薄い、人の形に、なった。
黒い外套。白髪。穏やかな、微笑み。
「……よく、来たね、ケン殿」
アルドゥスさんだった。
けれど、前回と違って、その体は、ほとんど、透けていた。砂の粒が、ぱらぱらと、こぼれ落ちている。
「アルドゥス先生!」
ミレイが、叫んだ。
「どうして、ノアに、あんなお茶を!」
「ノア……」
アルドゥスさんは、ノアさんを、じっと、見つめた。
その目が、ふっと、細くなる。
「……そうか。その子が、ノアか」
「何を、言って」
「いや。ただ、懐かしい、名前でね」
アルドゥスさんは、静かに、言った。
「私にも、ノアという名の、娘が、いたのだよ」
「えっ」
書庫の、空気が、凍りついた。
「四十年前、妻と、一緒に、星蝕病で、亡くなった。娘は、七歳だった」
アルドゥスさんの声は、低くて、乾いていた。
「灰色の髪の、小さな、女の子でね。……君に、そっくりだ」
「…………!」
ノアさんが、息を、のんで、一歩、下がった。
「私は、娘を、救えなかった。だから、せめて、似た子を、苦しみから、解放して、あげたかったのだよ」
「それは、救いじゃ、ありません!」
僕は、叫んだ。
「悲しみを、砂に、変えるのは、その人の、心を、奪うことです!」
「奪う、か」
アルドゥスさんは、寂しそうに、笑った。
「私も、最初は、そう、思っていた。だが、苦しみの、ない世界は、本当に、優しいのだよ、ケン殿」
「違う」
僕は、首を、振った。
「優しさは、苦しんだ後に、生まれる。誰かの、悲しみを、知っているから、手を、差し伸べられる」
アルドゥスさんの、笑みが、ふっと、消えた。
「……君は、本当に、エレナに、似ている」
その、声が、かすかに、揺れた。
そのとき、ノアさんが、一歩、前に、出た。
「あの」
小さな、でも、はっきりした声だった。
「アルドゥス、さん。……おじいさん」
「…………」
「わたし、ノア・ミスティです。孤児で、両親の顔も、知りません。だから、あなたの、娘さんじゃ、ありません」
ノアさんの、灰色の瞳が、まっすぐ、アルドゥスさんを、見つめた。
「でも、ひとつだけ、言えます。もし、あなたの、娘さんが、いま、ここに、いたら」
「…………」
「『お父さん、もう、ひとりで、悲しまないで』って、言うと、思います」
アルドゥスさんの、目が、大きく、見開かれた。
その、透けた体が、ぱらぱらと、崩れ始める。
「……ノア」
声が、震えていた。
「ああ。……そう、言うだろうな。あの子は、優しい子だったから」
砂の粒が、床に、さらさらと、積もっていく。
「ありがとう、ノア。……君の、言葉で、少しだけ、思い出した」
アルドゥスさんの顔が、静かに、微笑んだ。
それは、さっきまでの、冷たい、笑みでは、なかった。
四十年ぶりに、取り戻した、父親の、微笑みだった。
「ケン殿。『灯の書』を、読みなさい。そこに、影の、正体が、書いてある」
「先生」
「だが、気をつけなさい。影は、私より、ずっと、古く、深い」
アルドゥスさんは、最後に、僕の目を、見た。
「影の、核には、七つ目の、草が、あるはずだ。……ただし、それを、摘むには」
そこで、体が、完全に、砂に、崩れ落ちた。
最後の言葉は、風に、さらわれて、聞こえなかった。
静かな、書庫に、波の音だけが、響く。
「…………」
誰も、何も、言えなかった。
やがて、ミレイが、ぽつりと、つぶやいた。
「……アルドゥス先生、最後は、普通の、お父さん、みたいだった」
「うん」
僕は、うなずいた。
それから、そっと、『灯の書』を、手に、取った。
表紙を、開く。
最初のページには、古い、手書きの、絵が、描かれていた。
優しそうな、女性と、その、隣で、笑う、灰色の髪の、小さな、女の子。
その、絵の、下に、震える、字で、名前が、書かれている。
『妻、リーナ。娘、ノア・ミスティ』
「…………え」
ノアさんの、声が、かすれた。
「ミスティ……?」
その名前は、ノアさん自身の、姓と、まったく、同じだった。
書庫の、天井の、海を、泳ぐ、銀色の魚たちが、さざ波のように、ゆらりと、揺れた。
ノアの姓が、アルドゥスの娘と同じなのは、偶然だと思いますか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。
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――第65話へ続く――




