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第63話 井戸の前の少女と、許しをもらう鑑定

僕は、窓を閉めて、上着をつかんだ。

隣のベッドで、トビが、むにゃむにゃと、寝返りを打つ。起こさないように、そっと、靴を履いて、屋根裏の階段を、降りた。

「泡さん、一緒に来て」

『うん』

「でも、ノアさんを、驚かせちゃいけない。おしゃべりは、僕だけにするよ」

『わかった。ぼく、しずかに、するね』

泡さんは、僕の外套の襟の中に、ちょこんと、潜り込んだ。

中庭に出ると、冷たい夜気が、頬を刺した。

月は、二つとも、高い。白い石畳の上に、青い影が、くっきりと、落ちている。

井戸の前に、ノアさんは、まだ、立っていた。

足もとの砂は、さっきより、ほんの少し、増えている。

僕は、五歩ほど、離れた場所で、立ち止まった。

ラシードくんに、したときと、同じように。

(まず、近づきすぎない。それから、名前を、呼びすぎない)

夜に、眠ったまま歩く人を、急に起こすと、驚いて、取り乱してしまうことがある。村にいた頃、ハンナさんが、そう教えてくれた。

僕は、石畳の端に、腰を下ろして、小さな鍋と、水筒を、取り出した。

冬の夜に、ぴったりの、あたたかいお茶だ。月光草と、黄花草と、ヴォルフさんの、生姜に似た根。

湯を、注ぐと、甘くて、ほんのり、ぴりっとした香りが、ふわりと、立ちのぼった。

ノアさんの肩が、ぴくり、と、動いた。

「…………」

「いい匂い、ですよね」

僕は、井戸に向かって、独り言のように、言った。

「冬の夜は、寒いから、あったかいものが、欲しくなります。……よかったら、一杯、どうですか」

返事は、なかった。

けれど、ノアさんの、灰色の、瞳が、ゆっくりと、焦点を、結び始めた。

「…………ここ、は」

声は、細くて、かすれていた。

「学院の、中庭です。夜中に、少し、外の空気を、吸いに来たら、ノアさんが、いたので」

「…………!」

ノアさんは、はっと、息をのんで、両手で、自分の体を、抱きしめた。

「わ、わたし、また……」

「また?」

「……ううん。なんでも、ない」

ノアさんは、うつむいた。灰色の髪が、顔を、隠す。

「見られた、んですね」

「はい。でも、誰にも、言いません」

「…………」

「ここに、あったかいお茶が、あります。飲んでも、飲まなくても、いいです。ただ、ここに、置いておきますね」

僕は、杯に、お茶を、そそいで、石畳の上に、そっと、置いた。僕とノアさんの、ちょうど、真ん中あたりに。

湯気が、白く、ゆらゆらと、立ちのぼる。

ノアさんは、しばらく、その、杯を、見つめていた。

やがて、おそるおそる、一歩、近づいて、しゃがみ込んだ。

細い、冷たい指が、杯に、触れる。

こくり。

ひとくち、飲んだ瞬間。

ノアさんの、目が、まんまるに、見開かれた。

「…………あったかい」

「よかった」

「あったかい、って、わかる。……味は、しないけど」

ノアさんは、杯を、両手で、包んだ。

「秋の、はじめに、ここに来る前から、何も、味が、しなくて。食べ物も、飲み物も、砂を、噛んでるみたいで」

「砂……」

「でも、これは、わかる。体の、真ん中が、ぽかぽか、する」

ノアさんの、声が、少しだけ、震えた。

「……ありがとう」

「どういたしまして」

しばらく、二人で、黙って、お茶を、飲んだ。

井戸の底から、風が、ひゅう、と、吹き上げてくる。

その風の中に、かすかに、さらさらと、乾いた音が、混じっていた。

* * *

「あの」

ノアさんが、ぽつりと、口を開いた。

「ケン、さん、ですよね。『月光の、薬師』」

「うん。でも、ただの、ケンでいいよ」

「……ケンくん」

ノアさんは、杯を、見つめたまま、言った。

「わたし、夜になると、聞こえるんです。この井戸の、底から」

「どんな、声?」

「小さな、男の子の、声。……『かえりたい』って。『みんなと、いっしょに』って」

胸が、ずしん、と、重くなった。

「その声を、聞くと、体が、勝手に、動いて、気づくと、ここに、立ってる」

「いつから?」

「ひと月、前。……ううん、もっと、前、かも」

ノアさんは、小さく、首を振った。

「わたし、孤児なんです。ずっと、北の、孤児院で、育ちました。両親の、顔も、知らない」

「…………」

「秋の、はじめに、孤児院が、火事に、なって。ひとりだけ、助かって。身寄りが、なかったから、先生の、紹介で、この学院に、来ました」

ノアさんの目から、ぽろりと、涙が、こぼれた。

「火事のとき、何も、感じなかったんです。熱いとも、怖いとも。みんなが、泣いてるのに、わたしだけ、ぼんやり、立ってて」

「…………」

「それから、ずっと。笑うことも、泣くことも、できなくて」

僕は、息を、のんだ。

オルセンさんの、言葉が、頭に、よみがえる。

『それから、何も、感じなくなった。空腹も、悲しみも、味も、温かさも』

(同じだ)

僕は、少し、迷ってから、静かに、言った。

「ノアさん。ひとつ、お願いしても、いい?」

「……何、ですか」

「僕のスキルで、ノアさんの、心の中を、見せて、もらえない?」

ノアさんの、肩が、びくりと、跳ねた。

「心の、中……」

「うん。『心鑑定』っていう、新しい力。でも、勝手には、見ない。ノアさんが、いい、って言ったら、だけ」

「……見て、どうするんですか」

「どうして、味が、しなくなったのか。声が、なぜ、聞こえるのか。それを、探すため。……そして、できれば、お茶を、淹れたい」

ノアさんは、しばらく、黙っていた。

風が、ひゅう、と、鳴る。

やがて、小さな、声が、聞こえた。

「…………こわい」

「うん」

「見られたら、嫌われる、かも」

「嫌いに、ならないよ」

僕は、まっすぐ、ノアさんを、見た。

「僕も、前に、いろんなものを、失くしたことが、あるから。どんなものが、見えても、ノアさんを、嫌いに、ならない」

ノアさんは、じっと、僕の目を、見つめた。

やがて、ゆっくりと、うなずいた。

「……お願い、します」

「ありがとう。目を、閉じて、楽にして」

僕は、胸元の、青い石を、そっと、握って、心の中で、唱えた。

(……心鑑定)

視界が、ふわり、と、淡く、光った。

ノアさんの体の、輪郭が、薄れて、そのかわりに、ひとつの、風景が、浮かび上がってきた。

白い、広い、部屋。

床も、壁も、天井も、すべて、白い、砂。

その、中央に、小さな、灰色の、子どもが、うずくまっている。

膝を、抱えて、顔を、伏せて、じっと、動かない。

その周りを、ぐるりと、取り囲むように、たくさんの、小さな、扉が、並んでいた。

けれど、どの扉も、砂で、ふさがれている。

「…………」

僕は、そっと、その子どもに、近づいた。

足もとの砂が、さらさらと、鳴る。

「ノアさん」

子どもが、ゆっくりと、顔を、上げた。

灰色の、瞳。

そこには、涙も、笑顔も、なかった。ただ、ぽっかりと、空いた、空洞が、あるだけだった。

「ここは、心の、中、だね」

「…………うん」

「どうして、扉が、全部、塞がってるの?」

「わたしが、塞いだの」

子どもは、ぽつりと、言った。

「火事のとき、泣いたら、みんなが、もっと、悲しくなるから。だから、わたし、自分で、扉に、砂を、かけた」

「……そう、だったんだね」

胸が、ぎゅっと、痛んだ。

「優しい、からだね」

「…………」

「ひとりで、頑張って、きたんだね」

子どもの、目が、わずかに、揺れた。

そのとき、僕は、気づいた。

部屋の、いちばん、奥の、壁。

そこだけ、砂ではなく、黒い、小さな、種のようなものが、ぽつんと、埋め込まれている。

親指の先ほどの、真っ黒な、砂の粒。

そこから、細い、黒い糸が、何本も、伸びて、周りの、扉に、絡みついていた。

僕は、近づいて、その粒を、鑑定した。

【名称:影の種】

【状態:休眠中。ノアの、悲しみを、養分に、育っている】

【備考:発芽すると、持ち主の、心を、完全に、砂に、変える。発芽の、きっかけは、「次の、満月」】

「……次の、満月」

背筋が、凍った。

あと、数日。

そして、その、種の、すぐ下に、小さな、文字が、浮かび上がっていた。

【見つけた、月光の、継承者】

「…………!」

僕は、慌てて、その場から、飛び退いた。

視界が、ぐにゃりと、歪んで、ノアさんの、心の世界が、消えた。

「ケンくん!?」

気づくと、僕は、中庭の石畳に、尻もちを、ついていた。

ノアさんが、心配そうに、僕を、のぞき込んでいる。

「どうしたの!? 顔が、真っ青」

「……だ、大丈夫。ちょっと、びっくりしただけ」

僕は、息を、整えた。

胸元の、巻き貝が、ぼんやりと、あたたかい。

「ノアさん。ひとつ、聞くね。この、数日、変わったことは、なかった?」

「変わった、こと……」

ノアさんは、少し、考えて、ぽつりと、言った。

「そういえば、三日前、薬草園で、黒い、外套の、おじいさんに、声を、かけられました」

「おじいさん?」

「『疲れた顔を、しているね』って。『おいしい、お茶を、あげよう』って、小さな、瓶を、くれて」

ぞくり、と、背筋が、冷えた。

「その、瓶は、どうした?」

「飲んだら、何だか、頭が、ぼんやりして。それから、夜に、声が、聞こえるように、なったんです」

アルドゥスさんだ。

あの、四十年前に、死んだ、はずの、先生。

砂の粒に、崩れ落ちたはず、だったのに。

(まだ、動いてる)

僕は、拳を、握りしめた。

「ノアさん。その、瓶、まだ、持ってる?」

「寮の、部屋に、あります」

「明日、見せてもらえるかな。それまで、絶対に、飲んじゃ、だめだよ」

「うん」

「それから」

僕は、立ち上がって、ノアさんに、手を、差し出した。

「ひとりで、夜に、ここに、来ないでほしい。声が、聞こえたら、僕を、呼んで」

「……呼んで、いいの?」

「いいよ。何度でも」

ノアさんは、しばらく、僕の手を、見つめていた。

それから、おずおずと、自分の手を、重ねた。

冷たい、小さな手が、ぎゅっと、僕の手を、握った。

「……ありがとう、ケンくん」

それは、ほんの、かすかな声だった。

けれど、僕には、ちゃんと、聞こえた。

ノアさんの、頬に、ほんの、わずかに、赤みが、さしていた。

井戸の底から、風が、吹き上げてくる。

遠くの、校舎の時計塔が、真夜中の鐘を、鳴らした。

ごーん……ごーん……

その音に、紛れて、井戸の底から、かすかな、笑い声が、聞こえた気がした。

乾いた、老人のような、笑い声が。

ノアは、このまま、影の種に、負けずにすむと思いますか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。

続きが気になる方は、ブックマークと評価をお願いします。

――第64話へ続く――

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