第62話 赤い屋根の冬学期と、塩加減の賭け
ラベルの町は、冬の朝の光の中で、白い息を吐いていた。
石畳の大通りには、霜が降りている。露店の湯気と、焼き栗の香りが混じって、どこか、あたたかい匂いがした。
「寒い!」
馬車を降りるなり、ミレイが、肩をすくめた。
「村より、ずっと、冷えるわ。ケン、マフラー、ちゃんと巻いてる?」
「巻いてるよ。リナの、だからね」
「ならいいけど」
ミレイは、ぷいっとそっぽを向いて、自分のマフラーを、ぐるぐると、二重に巻いた。
その後ろで、リヒトが、いつもの、金の紋章つきの、立派な外套を、さらりと、羽織った。
「ふん。この程度の寒さで、騒ぐな」
「あんた、さっき、手が、真っ赤だったわよ」
「うるさい!」
僕の帽子の上で、泡さんが、ふるふると、揺れた。
『ケン、ここ、ちょっと、ひんやり。でも、いいにおい』
「パンの匂いかな。学院の、食堂かも」
『おなか、すいた』
「泡さんは、お腹、空くの?」
『うん。きもちが』
坂道を、上がっていくと、赤い屋根の、大きな建物が、見えてきた。
ラベル薬師学院。
門の前では、白い外套の生徒たちが、荷物を抱えて、行き交っている。冬学期の、初日だ。
「ケン殿」
門柱の脇で、背の高い、おばあさんが、静かに、待っていた。
学院長の、マルグリット先生だった。
「ご無事の、お帰りを、お待ちしておりました。砂漠の、ことは、陛下から、伺っております」
「ありがとうございます、先生」
「まずは、入学式を。その後、少し、お時間を」
先生は、僕の目を、じっと、見た。
「例の、地下書庫のことで」
僕は、ガルヴィンさんから、預かった、遺言の写しの、ことを、思い出して、そっと、うなずいた。
* * *
入学式は、学院の、大講堂で、行われた。
高い天井。ステンドグラスから、淡い、色とりどりの光が、床に、降り注いでいる。
新入生は、二十人ほど。みんな、緊張した顔で、硬い椅子に、座っていた。
僕の左隣には、ミレイが、座っていた。彼女は、二年生だけれど、「ケンの、案内役」という名目で、新入生席に、ちゃっかり、紛れ込んでいる。
「ミレイ、それ、いいの?」
「いいのよ。先生も、見逃してるわ」
「見逃してる、というか」
「しっ。始まるわよ」
壇上に、マルグリット先生が、立った。
「新入生の、皆さん。ようこそ、ラベル薬師学院へ」
凛とした、澄んだ声が、講堂に、響く。
「ここは、薬草と、人の心を、学ぶ場所です。知識は、道具です。使う人の心が、薬にも、毒にも、変えます」
先生は、ゆっくりと、新入生たちを、見回した。
「どうか、忘れないでください。薬は、誰かの、ためにあります。自分の、ためだけでは、ありません」
その言葉に、胸が、じんと、熱くなった。
入学式が、終わると、教室が、割り振られた。
僕は、一年生の「月の組」。
扉を、くぐると、広い、木造の教室に、半円状に、机が、並んでいた。窓際の席には、冬の光が、さしている。
「おや、噂の、薬師様だ」
最初に、声をかけてきたのは、茶色の、くせっ毛の、少年だった。
年は、僕と同じくらい。日に焼けた、人懐っこい顔。胸に、小さな、銅の、バッジをつけている。
「僕、トビ! 隣の、席、いい?」
「うん、もちろん。ケンです」
「知ってる! 『月光の薬師』! うちの、村の、新聞にも、載ってたよ!」
「えっ、新聞に?」
「『陛下を救った、少年薬師』って、でっかい見出しで! うちの、母ちゃん、切り抜いて、壁に、貼ってる!」
トビは、興奮したように、ぶんぶんと、手を、振った。
「あ、でも、気にしないで。普通に、友達に、なってほしいだけだから」
「ありがとう、トビくん」
「トビでいいよ!」
人懐っこい笑顔に、僕の肩の力が、ふっと、抜けた。
その、ときだった。
教室の、一番後ろの席で、ひとりの、少女が、窓の外を、じっと、見つめていた。
淡い、灰色の、髪。細い、うつむいた背中。膝の上で、ぎゅっと、握りしめた、小さな手。
年は、僕と、同じくらい。けれど、周りの子たちが、ざわざわと、話しているのに、その少女の周りだけ、音が、吸い込まれているように、静かだった。
「あの子は?」
僕が、トビに聞くと、トビは、声を、潜めた。
「ああ、ノアだよ。ノア・ミスティ。先月から、いるんだけど、ほとんど、しゃべらないんだ」
「先月から?」
「うん。僕たちより、ひと足先に、入ったんだって。秋の途中から」
「……そうなんだ」
「人見知り、なのかな。でも、成績は、いい。薬草の見分けは、先生も、驚くくらい」
ノアさんは、僕たちの会話に、気づく様子もなく、窓の外の、雪雲を、見つめていた。
その横顔は、とても、きれいで、そして、とても、遠かった。
(……何か、あるのかな)
そう思った、瞬間、僕の頭の中に、ひとつの、考えが、浮かんだ。
(「心鑑定」を、使えば、何か、わかるかもしれない)
でも、すぐに、その考えを、振り払った。
(だめだ。そんなこと、勝手に、しちゃ)
人の心を、勝手に、覗くのは、お茶を、淹れる、ことと、違う。
僕は、そっと、目をそらした。
* * *
お昼の、食堂は、噂どおり、広くて、騒がしかった。
長い、木のテーブル。何百人もの、生徒たち。カウンターの奥では、大きな鍋が、ぐつぐつと、湯気を、立てている。
「今日の、スープの、当たりはずれ、賭けるわよ!」
ミレイが、トレイを、握りしめて、気合いを入れた。
「ミレイ、この前も、負けてなかった?」
「今度こそ、勝つのよ! 私は、『はずれ』に、銅貨、三枚!」
「俺は、『当たり』に、銅貨、五枚」
リヒトが、澄ました顔で、トレイを、受け取った。
「なぜ、そんなに、自信満々なの」
「観察の、成果だ。今朝、厨房の裏で、おばさんが、鼻歌を、歌ってた」
「……あんた、そんなところまで」
「貴族の、嗜みだ」
「ただの、食いしん坊でしょ」
「違う!」
二人の掛け合いを、聞きながら、僕は、トレイに、スープの皿を、のせた。
ひとくち、飲んでみる。
「……あ」
「どう?」
「おいしい。でも、ほんの少しだけ、味が、ぼやけてるかも」
「えっ」
「何か、元気が、ない味、というか」
僕は、カウンターの奥を、のぞき込んだ。
大きな鍋の前に、白い前掛けの、ふっくらした、おばさんが、立っていた。けれど、その顔は、どこか、疲れていて、手つきも、ぼんやりしている。
「ミレイ、あのおばさんが、ベルタさん?」
「そうよ。毎日、スープ、作ってる、食堂の、主」
「……ちょっと、話してくる」
僕は、トレイを、置いて、カウンターに、近づいた。
「あの、すみません」
「あ、はい、おかわり?」
「いえ。ベルタさん、ですよね。今日、お疲れですか?」
ベルタさんは、きょとんと、目を、瞬いた。
「……どうして、わかるんだい」
「スープの味が、ちょっと、元気が、なかったので。決して、まずいんじゃなくて、優しい、味なんですけど」
「あらまあ」
ベルタさんは、苦笑して、前掛けで、手を、拭いた。
「実は、昨日の夜、孫が、熱を、出してね。ほとんど、眠れなかったんだよ」
「それは、心配ですね」
「いやいや、もう、熱は、下がったよ。ただ、ちょっと、気が、抜けちまってね」
僕は、鞄から、小さな、包みを、取り出した。
「これ、よかったら、休憩のときに、飲んでください」
「なんだい、これは」
「月光草と、黄花草の、お茶です。疲れたときに、効きます」
ベルタさんは、包みを、受け取って、くんくん、と、匂いを、嗅いだ。
「……いい匂い。ありがとうよ、新入りの、坊や」
「ケン、です」
「ケン坊か。覚えておくよ」
ベルタさんは、にっこりと、笑って、前掛けのポケットに、包みを、しまった。
席に戻ると、ミレイが、にやにやしていた。
「あんた、入学初日から、食堂の、おばさんを、手なずけたわね」
「手なずけてないよ」
「じゃあ、『ケン坊』って、呼ばれてるのは、何」
「……仲良くなっただけ」
「ほら、やっぱり」
リヒトが、スープを、一口、飲んで、眉を、ひそめた。
「……今日は、はずれだな」
「えっ、あんた、さっき、『当たり』って」
「鼻歌が、いつもより、小さかった。見誤った」
「ぷっ」
ミレイが、肩を、震わせて、笑った。
「やった! 私の、勝ち!」
「ほとんど、偶然だろう!」
「観察の、勝利よ!」
「ずるい!」
笑い声が、食堂に、広がった。
その様子を、遠くの、テーブルから、ひとりの少女が、じっと、見つめていた。
灰色の髪の、ノアさんだった。
彼女の前の、スープは、手つかずで、すっかり、冷めている。
その、ふたつの、灰色の瞳に、ほんの一瞬だけ、何かが、揺れた気がした。
寂しさ、のようでもあり、羨ましさ、のようでもあった。
けれど、僕が、立ち上がろうとした、そのとき、ノアさんは、すっと、席を立って、食堂を、出ていってしまった。
『ケン』
泡さんが、僕の帽子の、上で、ふるえた。
『あの、こ、うみの、においが、しない。かわりに、ひんやり、したもの。……すなの、においも、すこし』
「砂……?」
『うん。でも、きのせい、かも』
胸の奥が、ちくり、と、した。
* * *
夕方、学院長室で、マルグリット先生と、向かい合った。
「ガルヴィン殿の、遺言の、写しを、拝見しました」
先生は、遺言の紙を、そっと、机に置いた。
「七番目の、棚。『灯の書』。確かに、あの書庫の、奥に、そのような、棚が、あった覚えがあります」
「見られますか」
「ええ。ですが」
先生は、静かに、続けた。
「ケン殿ひとりで、入るのは、危険です。あの書庫は、あなたが、扉を、開いたあと、少しずつ、変化しています」
「変化?」
「泡さんから、聞きました。『海の音が、日に日に、大きく、なっている』と」
泡さんが、ふるふると、頷いた。
『うん。ふえてる。なみ』
「あなたたちの、旅が、書庫の、封印を、緩めているのかも、しれません」
先生は、立ち上がって、窓の外を、見た。
夕焼けの、空。その、遠くに、薄く、雪雲が、広がっている。
「入学の、初日は、ゆっくり、休んでください。書庫の、調査は、明後日。ミレイ嬢と、リヒト君、それに、トビ君も、同行を」
「トビくんも?」
「あの子は、薬草の、嗅ぎ分けが、学院で、一番です。きっと、役に、立つ」
先生は、ふっと、微笑んだ。
「それに、仲間は、多いほうが、いい」
「……はい」
僕は、深く、頭を下げた。
* * *
夜。
寮の、僕の部屋は、屋根裏の、小さな、角部屋だった。窓から、学院の、中庭が、見える。
隣の、ベッドでは、トビが、すでに、いびきを、かいていた。
僕は、窓際で、そっと、お茶を、淹れて、ひとくち、飲んだ。
静かな、夜だった。
雪は、まだ、降っていない。けれど、空気は、ひんやりと、冴えている。
『ケン』
泡さんが、ふるえた。
『こえが、きこえる』
「……声?」
『うん。したのほう。しょこの、ほう』
僕は、耳を、澄ました。
ざあ……ざあ……
かすかに、波の音が、聞こえる。
そして、その、波の音に、混じって、もうひとつ、別の音が。
さらさら……さらさら……
乾いた、細い、砂の、流れるような、音。
僕は、そっと、窓を、開けて、中庭を、見下ろした。
月明かりの下、白い、石畳の上に、ひとつの、小さな、影が、立っていた。
灰色の髪。細い、背中。
ノアさんだった。
彼女は、中庭の、真ん中の、古い、井戸の、前に、ぼんやりと、立っていた。
目は、開いている。けれど、焦点が、合っていない。
まるで、眠ったまま、歩いている人のように。
「ノアさん……?」
呼びかけようとして、僕は、声を、飲み込んだ。
ノアさんは、ゆっくりと、井戸の、縁に、手をかけた。
そして、井戸の、底に、向かって、小さな、声で、何かを、つぶやいた。
「…………かえりたい」
その声は、少女のものとは、思えないほど、乾いていて、遠かった。
「みんなと、いっしょに」
背筋が、ぞくり、とした。
オルセンさんの、言葉。サフラちゃんの、言葉。ラシードくんの、言葉。
どれも、同じ、言葉。
(まさか)
僕は、握りしめた、拳に、力を込めた。
胸元の、青い石と、氷の結晶と、巻き貝が、ほのかに、光る。
ノアさんの足もとの、石畳に、うっすらと、白い、砂が、積もり始めていた。
ケンは、ノアに、お茶を、淹れてあげるべきだと思いますか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。
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――第63話へ続く――




