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第65話 灯の書と、名前のない悲しみ

『灯の書』は、思ったよりも、軽かった。

白い革の表紙に、金色の文字。開いた最初のページには、優しそうな女の人と、灰色の髪の小さな女の子の絵。その下に、震える字で書かれた名前。

『妻、リーナ。娘、ノア・ミスティ』

書庫の天井の海を、銀色の魚たちが、ゆらりと泳いでいる。波の音だけが、静かに響いていた。

「わたしと、同じ、名前……」

ノアさんが、かすれた声で言った。

「偶然、ですよね。『ミスティ』は、孤児院が、つけてくれた名前で」

「孤児院が、つけた?」

「はい。霧の深い朝に、門の前に、置かれていたから、って」

ミレイが、僕の腕を、そっとつかんだ。

「ケン。次のページ、めくって」

「うん」

ページをめくると、古い、細かい字が、ぎっしりと並んでいた。

『これは、私、アルドゥス・メリンが、死の直前に、書き残す記録である。

私は、妻リーナと、娘ノアを、星蝕病で失ったと、思っていた。

だが、違った』

「……違った?」

『妻は、死ぬ前に、ノアを、こっそり、北の孤児院へ、預けていた。星蝕病の、遺伝を、断つため、そして、私の、絶望から、娘を、守るために。

私が、それを知ったのは、毒をあおる、数日前。手遅れだった』

僕は、息をのんだ。

『ノアは、孤児院で、育ち、大人になり、ひとり、娘を、産んだ。

その子の名も、ノア。

私は、死んだあとも、霊の姿で、その子を、見守り続けてきた』

「…………!」

ノアさんの、灰色の瞳が、大きく、揺れた。

「それって」

「ノアさんは、アルドゥス先生の、孫、ってこと……?」

ミレイの声も、震えていた。

『孫のノアが、七つの年に、母親は、孤児院の、火事で、亡くなった。

娘のノアは、私の、孫を、ひとり、残して、逝った。

私は、何もできなかった』

ページの文字が、そこで、にじんでいた。涙の跡だった。

ノアさんは、その場に、へなへなと、座り込んだ。

「わたし……お母さんが、いたの……?」

「…………」

「何も、覚えて、ない。顔も、声も」

ミレイが、すぐに、ノアさんの肩を、抱きしめた。

「ノア。泣いて、いいのよ」

「泣け、ない」

ノアさんは、首を、振った。

「泣き方が、わからない。胸が、ぽっかり、空いてるだけで」

「それは、あなたが、心の扉に、砂を、かけたからだよ」

僕は、静かに、膝をついて、ノアさんの前に、座った。

「でも、もう、扉の鍵は、見つかった」

「……鍵?」

「アルドゥス先生が、最後に、くれた、言葉。『お父さん、もう、ひとりで、悲しまないで』。あれは、ノアさん自身の、言葉でもあるんだ」

ノアさんは、唇を、震わせた。

「お母さんの、ために、泣いても、いい?」

「いいよ」

「ひとりじゃ、なくても、いい?」

「ひとりじゃ、ないよ」

僕は、水筒から、あたたかいお茶を、杯に、注いで、渡した。

「ここに、ミレイも、リヒトくんも、トビも、僕もいる」

ノアさんは、杯を、両手で包んで、ひとくち、飲んだ。

そして。

ぽろり。

灰色の瞳から、透明な涙が、一粒、こぼれた。

ぽろ、ぽろ、ぽろ。

止まらなかった。

「……う、ううっ」

小さな、嗚咽が、書庫に、響いた。

ミレイが、ぎゅっと、ノアさんを、抱きしめた。リヒトは、そっぽを向いて、肩を、震わせている。トビは、ぼろぼろと、涙を、流しながら、ハンカチを、差し出していた。

「ありがとう、トビ」

「ご、ごめん、僕、泣き虫で」

その、とき。

ノアさんの、足もとの、白い砂が、ぱあっと、淡く光った。

砂が、さらさらと、水に変わって、静かに、流れていく。

心の、奥の、部屋の、扉が、ひとつ、ひらく音が、した気がした。

『ケン』

泡さんが、僕の肩で、小さく、ふるえた。

『ノアの、むねの、たね、ちょっと、ちいさく、なった』

「本当?」

『うん。まだ、のこってる。でも、ふるえてる』

僕は、ほっと、息を、ついた。

* * *

しばらくして、ノアさんが、少し落ち着いたところで、僕は、また、『灯の書』を、めくった。

次のページから、題が、変わっていた。

『影の、正体について』

『影は、悪では、ない。

悲しみを、喰らう、ものでも、ない。

あれは、「弔われなかった悲しみ」の、塊だ』

「弔われなかった、悲しみ……」

ミレイが、小さく、つぶやいた。

『この世には、誰にも、知られず、誰にも、悼まれず、消えていった、悲しみが、数え切れないほど、ある。

名もなき、民。見捨てられた、子ども。語られなかった、死者。

その悲しみは、どこにも、行けず、砂漠の砂の底に、沈んでいく。

それが、三千年かけて、ひとつに、集まったものが、「影」だ』

「顔が、なかったのは、そのため……」

『影には、名前が、ない。

誰も、その悲しみの、名前を、呼ばなかったからだ。

名前のない者は、自分が、何者かも、わからない。

だから、世界じゅうの悲しみを、集めて、「静かな、世界」を、作ろうとする。

誰も、泣かなければ、自分も、泣かなくて、済むと、信じて』

僕は、はっと、した。

あの影が、最後に、飲まなかった、お茶。

『私には、まだ、成すべき、ことが、ある』

あれは、拒絶じゃ、なかった。

きっと、怖かったのだ。

自分の悲しみが、ほどけてしまうことが。

『影を、倒す、方法は、ない。

ただ、ひとつだけ、ある。

その悲しみに、名前を、与え、弔うこと。

そして、それが、できるのは、「悲しみを、分かち合うことを、知る者」だけ』

ページの、いちばん下に、小さな、文字が、ひとつ、書き加えられていた。

『七つ目の、草は、影の、核に、ある。

天空草は、「悼まれた心」が、咲かせる。

影が、弔われたとき、草は、ひらく』

「…………」

僕は、本を、そっと、閉じた。

「ケン、どういう、こと」

「影は、敵じゃなかったんだ」

ミレイが、眉を、寄せた。

「でも、ノアの、心に、種を、植えたのよ。ラシードくんにも」

「うん。それは、許せない。でも」

僕は、胸元の、巻き貝を、握った。

「影は、ひとりぼっちで、泣いてる。名前もなく、顔もなく。それは、僕が、前の世界で、倒れた、あの夜と、同じかもしれない」

「ケン……」

「だから、名前を、探したい。影に、名前を、返してあげたい」

リヒトが、腕を、組んで、鼻を、鳴らした。

「無茶な、ことを、言う」

「うん」

「だが、おまえらしい」

リヒトは、少しだけ、口の端を、上げた。

「手伝って、やる」

「ありがとう、リヒトくん」

「別に、おまえの、ためじゃない。アルディス家の」

「わかってるよ」

僕が、笑うと、リヒトの耳が、赤くなった。

* * *

そのとき、書庫の奥から、泡さんの、悲鳴が、聞こえた。

『ケン! たいへん!』

振り返ると、天井の、逆さまの海が、ぐらぐらと、揺れていた。

銀色の魚たちが、一斉に、同じ方向へ、逃げていく。

「何が、起きて」

『なみが、とまってる!』

波の音が、ぴたりと、止まった。

書庫が、静まり返る。

そして、床の、白い砂が、さらさらと、一箇所に、集まり始めた。

『灯の書』の置かれていた棚の、前に、小さな、渦が、できる。

その、渦の、中から。

ひとつの、声が、聞こえた。

幼い、少年の声でも、老人の声でも、なかった。

もっと、淡くて、ぼやけた、まるで、誰の声でもないような、声。

『……見つけた』

背筋が、凍りついた。

『名前を、探す、者が、いる』

渦の、中心に、顔のない、影が、浮かび上がった。

ふたつの、黒い穴が、じっと、僕を、見つめている。

『おまえが、私の、名前を、呼ぶのか。月光の、継承者』

「……うん」

僕は、一歩、前に出た。

ミレイが、僕の腕を、つかんだ。

「ケン、待って」

「大丈夫。話を、してみる」

僕は、影の、真正面に、立った。

足は、震えていた。でも、胸元の、石と、結晶と、貝殻が、あたたかかった。

「あなたの、名前を、探すよ。必ず。……だから、少しだけ、待ってほしい」

影は、しばらく、何も、言わなかった。

やがて、ゆっくりと、頭を、傾けた。

『……待つ、のか』

「うん」

『三千年、待った。あと、少し、待つのは、容易い』

声が、ほんの少しだけ、揺れた。

『ただし、次の、満月まで、だ』

「満月……」

『それまでに、私の、名前が、わからなければ、ノア・ミスティの、種は、発芽する』

影の、黒い穴が、ノアさんを、見た。

ノアさんは、ぎゅっと、僕の背中に、隠れた。

『そして、次は、おまえの、大切な者が、同じ運命を、辿る』

ぞくり、と、背筋が、冷えた。

「……わかった」

僕は、はっきり、言った。

「満月までに、必ず」

『楽しみに、している』

影は、ふっと、砂粒に、崩れて、消えた。

波の音が、戻ってくる。銀色の魚たちが、ゆらゆらと、泳ぎ始めた。

静かな、書庫に、僕たちの、荒い息だけが、残った。

「……あと、三日」

ミレイが、つぶやいた。

「三日で、影の、名前を、見つけなきゃ」

「手がかりは、あるの?」

トビが、不安そうに、聞いた。

「あるよ」

僕は、『灯の書』の、最後のページを、開いた。

そこに、小さな、走り書きが、あった。

『影の、名前は、四人目の、友が、知っている。

彼は、まだ、生きている。庭の、門の、前で、待っている』

「四人目の、友……?」

ミレイが、首を、かしげた。

「でも、エレナさんと、ヴォルフさんと、ガルヴィンさんと、ゼノさんで、四人じゃ……」

「アルドゥス先生を、入れて、五人」

「……あ」

「それに、『彼』って、書いてある。エレナさんじゃない」

僕は、本を、閉じた。

「誰か、もうひとり、いたんだ。薬師院の、庭に」

窓のない、書庫に、冬の風は、吹かない。

けれど、僕の、首筋を、ひんやりと、撫でていく、何かがあった。

「ガルヴィンさんと、ヴォルフさんに、聞こう」

「手紙を、出す?」

「ううん。ギンに、頼む」

『まかせて!』

どこからともなく、銀色の、ふわふわが、僕の肩に、ぽん、と、飛び乗った。

「ギン!? いつの間に」

『ぼく、ずっと、ついてきてたよ! ひみつ!』

「ずるい」

ミレイが、くすっと、笑った。

ギンは、胸を、張って、尻尾を、ぱたぱたと、振った。

僕は、ギンの、首の袋に、短い、手紙を、入れた。

『ヴォルフさん、ガルヴィンさんへ。

薬師院の庭に、「五人目の友」は、いませんでしたか。

名前を、教えてください。急ぎです。

ケン』

「お願いね、ギン」

『ひゅーん!』

ギンは、風のように、書庫の、扉から、飛び出していった。

僕は、ノアさんの、手を、そっと、握った。

「大丈夫。必ず、間に合わせる」

「……うん」

ノアさんは、小さく、うなずいた。

けれど、その、小さな手が、まだ、震えていた。

僕は、握る手に、少しだけ、力を、込めた。

天井の海を、泳ぐ、銀色の魚たちの、影が、ゆらゆらと、床に、揺れていた。

影に、名前を、つけるなら、どんな名前が、いいと思いますか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。

続きが気になる方は、ブックマークと評価をお願いします。

――第66話へ続く――

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