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第60話 顔のない影と、三千年ぶりの「ただいま」

影の手が、少年に向かって、ゆっくりと伸びてくる。

その指先が、触れるよりも先に、僕は、水筒を、まっすぐ、影に向かって、突き出した。

「お茶を、どうぞ」

『…………何?』

影が、ほんの少し、動きを止めた。

「あなたも、ずっと、ひとりだったんでしょう。顔も、名前も、なくして」

『黙れ。私は、おまえたちの、悲しみで、できている。そこには、情けも、慈悲も、ない』

「悲しみで、できているなら、お茶で、ほどけるはずです」

僕は、大広間の床に、すとんと、腰を下ろした。

「ミレイ、リヒトくん、カイラさん、ダリオさん。サフラちゃんを、守ってください。像の人たちも」

「わかった!」

ミレイが、すぐに、答えた。

「ダリオさん、像を、倒さないように、囲んで! リヒト、水袋を、集めて!」

「承知した!」

「お任せください!」

みんなが、いっせいに、動き出した。

影が、低く、唸った。

『愚かな。月光の、継承者』

大広間の砂が、ごおおっと、渦を巻いた。柱の影から、無数の、砂の手が、伸びてくる。

けれど、その手が、ミレイたちに、届く前に。

「させない」

小さな、細い声が、響いた。

玉座の少年だった。

ラシードくんが、僕の隣に、膝をついて、両手を、前に、広げていた。

「ここは、ぼくの、城だ。ぼくの、民に、手を、出すな」

その、かすれた声に、広間の、天井の、星の結晶が、ぱあっと、輝いた。

砂の手が、ばさばさと、崩れた。

『ラシード。おまえは、私に、逆らえない。おまえの、悲しみが、私の、力』

「でも、ぼくは、もう、悲しくない」

ラシードくんは、僕を、見上げた。

目が、赤い。けれど、その瞳は、さっきよりも、ずっと、澄んでいた。

「ケン。もう一杯、ください」

「うん」

僕は、杯に、お茶を、注いで、手渡した。

ラシードくんは、両手で、杯を、包んで、ゆっくりと、飲み干した。

「……あったかい」

大広間じゅうの、砂の像が、ぴくり、ぴくり、と、震えはじめた。

* * *

最初に、目を覚ましたのは、広間の、いちばん手前の、女の人の像だった。

砂色の、肌が、じわじわと、人の、肌の色に、戻っていく。

「……あ、れ」

髪の毛が、さらりと、揺れた。目が、ゆっくりと、開く。

「わたし、いま、何を」

「奥さん!」

ダリオさんが、慌てて、駆け寄って、水袋を、差し出した。

「どうぞ、水を!」

「え、あの、あなたは」

「通りすがりの、騎士です!」

「声が、大きい」

「すみません!」

女の人は、きょとんと、ダリオさんを、見つめて、それから、ふっと、笑った。

「……あったかい。生きてるって、こんなに、あったかかった?」

その、ひとことが、引き金になった。

広間じゅうの、像が、一斉に、色を、取り戻していく。

男の人も、おばあさんも、小さな、子どもも。

ひとり、またひとり、目を、開けて、きょろきょろと、あたりを、見回した。

「ここは……」

「ずいぶん、長く、眠った気がする」

「お母さん? お母さんは?」

ざわざわと、ざわめきが、広がっていく。

泣いている人もいる。笑っている人もいる。けれど、みんな、胸を、押さえて、息を、深く、吸い込んでいた。

三千年ぶりの、呼吸だった。

ラシードくんの、肩が、震えた。

「みんな……」

「ラシード王さま!」

誰かが、叫んだ。

白い髭の、背の高い、老人が、人々の、間を、かき分けて、駆け寄ってくる。

「陛下! ご無事で!」

「……じい」

ラシードくんの、目から、ぼろぼろと、涙が、こぼれた。

「じい! じい! ごめんなさい、ぼく、ぼく、みんなを……」

「何を、おっしゃいます」

老人は、膝をついて、ラシードくんを、ぎゅっと、抱きしめた。

「陛下は、民のために、お祈りくださった。苦しむ姿を、見ていられなかったのでしょう。……その、お優しさを、誰が、責められましょう」

「でも、ぼくは、みんなを、三千年も」

「十分です」

老人の、声が、震えた。

「十分です、陛下。もう、お一人で、背負わなくて、よいのです」

ラシードくんは、わあっと、声をあげて、泣き出した。

広間じゅうの人々が、ゆっくりと、二人の、まわりに、集まってくる。

誰も、責めなかった。

ただ、ひとり、またひとりと、少年の肩や、背中に、そっと、手を、置いていった。

僕は、少し離れた場所から、その光景を、静かに、見守っていた。

(よかった)

けれど、その瞬間。

『……やめろ』

背後で、低い、声が、響いた。

『やめろ。やめろ、やめろ、やめろ』

黒い影が、大広間の、天井近くで、ぶるぶると、震えていた。

『なぜ、笑える。なぜ、泣ける。悲しみは、私の、糧のはず』

「それは、あなたが、悲しみを、独りじめしてきたからです」

僕は、立ち上がって、影を、見上げた。

「悲しみは、ひとりで、抱えると、重たくて、冷たい。でも、誰かと、分け合えば、少しだけ、軽くて、あたたかくなる」

『戯言だ』

「僕は、前の世界で、ひとりで、倒れました。誰にも、気づかれずに」

言葉が、自然と、口から、こぼれた。

「その、悲しみを、あなたは、知っているでしょう。ずっと、ひとりで、眠らずに、世界の悲しみを、集めてきた、あなたなら」

影の、ふたつの、黒い穴が、じっと、僕を、見つめた。

『…………おまえは』

「僕は、お茶を、淹れる人です。……あなたにも、淹れさせてください」

僕は、新しい杯に、お茶を、そそいだ。

そして、ゆっくりと、影に向かって、差し出した。

影は、しばらく、動かなかった。

大広間が、静まり返る。

やがて、影の、顔のない、顔が、ふっと、緩んだ。

『…………やはり、おまえは、邪魔だ』

「…………」

『だが、いまは、飲めぬ』

影の声が、ほんの少し、掠れた。

『私には、まだ、成すべき、ことが、ある。……七つ目の、草を、手に入れるまでは』

「七つ目……天空草ですか」

『そうだ。あれは、心に、咲く。ならば、おまえたちの、誰かの、心を、奪えば、よい』

ぞくり、と、背筋が、凍った。

『月光の、継承者。次に、会うときは、おまえの、仲間の、誰かが、私の、手の中だ』

「させません!」

『さらば』

影は、ふっと、砂の粒に、散った。

天井の、結晶が、きらきらと、瞬く。

何も、いなくなった、広間に、人々の、ざわめきと、笑い声だけが、残っていた。

* * *

しばらくして、ラシードくんが、僕の前に、歩いてきた。

目は、まだ、赤い。けれど、その顔は、さっきよりも、ずっと、晴れやかだった。

「ケン」

「ラシードくん」

「……ありがとう」

ラシードくんは、深々と、頭を、下げた。

「ぼくは、民を、守るつもりで、傷つけた。でも、ケンのおかげで、やっと、気づけた」

「ううん。僕は、お茶を、淹れただけだよ」

「それが、いちばん、大切なことだって、わかった」

少年は、にこっと、笑った。

その笑顔は、十二歳の、普通の、男の子の、笑顔だった。

「これを、受け取って」

ラシードくんは、胸の前に、両手を、そっと、合わせた。

その手のひらの上に、淡い、金色の、小さな、光が、ふわりと、集まる。

光の中に、ひとつの、花が、咲いていた。

砂色の、花びら。中心に、小さな、星のような、輝き。

「砂星草。ぼくの、涙から、生まれた、草」

「……いいの?」

「うん。でも、条件が、ある」

ラシードくんは、悪戯っぽく、笑った。

「ときどき、お茶を、淹れに、来て。ぼくも、民のみんなも、また、いっしょに、飲みたいんだ」

「もちろん」

僕は、花を、両手で、受け取った。

軽くて、ほんのり、あたたかい。

その瞬間、胸元の、青い石と、氷の結晶と、巻き貝が、いっせいに、柔らかく、光った。

そして、頭の中に、澄んだ、鈴の音が、響いた。

【草が、六つ、そろいました】

【雑草鑑定 Lv.3 → Lv.4】

【新しい能力:「心鑑定」を習得しました】

【追記:霧に預けた記憶が、また、少しだけ、返されました】

「…………!」

胸の奥に、あの夜の、記憶の、もうひとつの、端っこが、そっと、戻ってきた。

冷たい床。遠のく光。

そして、最後の瞬間、誰かの、足音が、聞こえた気がした。

(あれ、あの夜、僕の、そばに、誰か……)

そこまで、思い出しかけて、記憶は、また、霧の中へ、溶けていった。

「ケン?」

ミレイが、心配そうに、覗き込んできた。

「ううん。大丈夫」

僕は、にっこり笑って、六つの草が、揃った、鞄を、ぎゅっと、抱きしめた。

あと、ひとつ。

天空草。心に咲く、最後の草。

そして、あの影は、言った。

『おまえの、仲間の、誰かの、心を、奪う』

僕は、顔を上げた。

笑い合う、サフラちゃん。ほっと胸を撫で下ろす、リヒトとカイラさん。民と抱き合う、ダリオさん。

そして、僕の隣で、ほっとしたように、息をつく、ミレイ。

(絶対に、守る)

僕は、胸の奥で、そっと、誓った。

次の旅は、きっと、もっと、近い場所で、もっと、深い場所で、始まる。

ケンの仲間の中で、影に狙われるのは誰だと思いますか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。

続きが気になる方は、ブックマークと評価をお願いします。

――第61話へ続く――

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