第59話 四十年前に死んだ先生と、ラシード王のはじめてのお茶
「……アルドゥス・メリン先生」
最初に、その名前を口にしたのは、ミレイだった。
「うそ。そんなはず、ない」
「ミレイ、知ってるの?」
「知ってるどころじゃないわよ。王立薬師院の、伝説の院長よ。ヴォルフ大叔父さんも、ガルヴィンさんも、ゼノさんも、みんな先生の教え子で、エレナ大叔母さんの師匠でもあった人」
ミレイの声が、震えていた。
「でも、四十年前に、研究室の事故で亡くなったはずなの。学院の肖像画の前で、毎年、黙祷するんだから」
黒い外套の人物は、フードを完全に下ろして、穏やかに微笑んだ。
白髪に、深い皺。やさしそうな目。薬師院の、古いノートの、最初のページに描かれていた、あの顔と、まったく同じだった。
「おや。私の名前を、知っている子がいるとは。うれしいね」
声は、年老いていた。けれど、不思議なほど、あたたかかった。
「私は、アルドゥス。ただの、年寄りだよ。ラシードの、友人だ」
玉座の少年が、びくりと、肩を揺らした。
「アルドゥス……」
「大丈夫だ、ラシード。私が、そばにいる。この子たちは、おまえの民を、奪いに来たんだ」
「ちがいます!」
僕は、思わず、声をあげた。
「僕たちは、奪いに来たんじゃありません。ラシード王さまと、里のみんなを、助けに来たんです」
「助ける、ね」
アルドゥスさんは、静かに笑った。
「ケン殿。君は、優しい子だ。だが、優しさだけでは、救えないものが、この世には、ある」
その瞳の奥が、一瞬、暗く、光った。
* * *
僕は、ゆっくりと、息を吸って、心の中で唱えた。
(……雑草鑑定。状態鑑定)
視界が、淡く、光る。
【名称:アルドゥス・メリン】
【状態:――】
けれど、今度は、完全な空白ではなかった。
ぽつり、ぽつりと、文字が、浮かび上がってきた。
【備考:四十年前に死亡】
【備考:砂の力により、動かされている】
【備考:本体は、別の場所に、存在する】
「…………!」
僕は、息を、のんだ。
「ミレイ、この人、もう、生きてない」
「……え?」
「亡くなってる。砂の力で、体だけ、動いてる。……それに、『本体は、別にいる』って」
ミレイの顔が、さっと、青ざめた。
アルドゥスさんは、ほんの少しだけ、眉を、上げた。
「ほう。そこまで、見えるのか。さすがは、月光の、継承者だ」
笑みは、崩れなかった。
「だが、おかしいね。死人が、動いて、何が、悪い。私は、ラシードの、友人として、三千年の孤独に、寄り添うために、ここにいる。それだけだ」
「三千年、じゃありません」
僕は、言い返した。
「あなたが、亡くなったのは、四十年前。三千年も、ラシード王さまと、一緒に、いたわけじゃない」
「…………」
「あなたは、四十年前に、ここを、見つけたんでしょう。事故で、亡くなった、はずの、あなたが」
アルドゥスさんの、目が、すっと、細くなった。
「……賢い子だ」
その声は、少しだけ、冷たくなった。
「ならば、教えてあげよう。私が、何者か」
アルドゥスさんは、ゆっくりと、胸に、手を当てた。
「四十年前、私は、本当に、死んだ。妻と、娘を、星蝕病で、亡くしてね。絶望して、研究室で、毒を、あおった」
大広間に、乾いた、声が、響いた。
「だが、気づくと、この、砂の底に、いたんだ。ラシードが、私の魂を、拾ってくれた。『あなたの、苦しみも、取り上げてあげる』と、言ってね」
玉座の少年が、小さな声で、つぶやいた。
「……アルドゥスは、泣いていた。かわいそう、だった。だから」
「ああ、そうだ、ラシード。おまえは、優しい子だ」
アルドゥスさんは、少年の頭を、そっと、撫でた。
その手つきは、本当の、祖父のようだった。
けれど、僕は、見てしまった。
少年の、肩が、小さく、震えているのを。
* * *
「ラシード王さま」
僕は、静かに、前に、進み出た。
「お茶を、淹れても、いいですか」
「……茶?」
少年の、黒い瞳が、揺れた。
「はい。僕が、淹れる、お茶です。毒は、入っていません。僕が、先に、飲みます」
「やめなさい、ラシード」
アルドゥスさんの、声が、鋭く、飛んだ。
「あれは、罠だ。おまえの、民を、さらに、苦しめる、毒だ」
「毒じゃ、ありません!」
「ならば、なぜ、先に、飲む」
「それが、僕の、やり方だからです」
僕は、鞄から、小さな鍋を、取り出した。大広間の中央、星空の天井の下に、腰を下ろす。
「泡さん、お願い。冷たいお湯を」
『まかせて!』
泡さんが、ぷくぷくと、広間の、柱の、結晶から、水滴を、集めてくれた。
氷の結晶の、ペンダントで、ひんやりと、冷やす。
月光草。星影草の若葉。氷涙草の花びら。朝露草の、ひとしずく。潮泡草の、ひとあわ。
五つの草の、気配を、少しずつ、水の中に、溶かしていく。
大広間に、あまくて、すがすがしい、香りが、ふわりと、広がった。
「……いい、におい」
ぽつりと、声が、聞こえた。
見上げると、玉座の少年が、思わず、身を乗り出していた。
「それは、なに」
「お茶、です。三千年前にも、きっと、ありましたよね」
「……お茶」
少年は、小さく、つぶやいた。
「そういえば、母さまが、淹れて、くれたことが、あった。熱が、出たときに。ミルクと、はちみつを、入れて」
「どんな、味でしたか」
「甘くて、あったかかった。……ずっと、忘れていた」
少年の目が、じわりと、潤んだ。
「ラシード! 聞くな!」
アルドゥスさんが、一歩、前に出た。
けれど、僕は、杯に、お茶を、そそいで、ひとくち、こくりと、飲んだ。
「ほら、毒じゃ、ありません」
それから、もうひとつの、杯に、お茶を、そそいで、立ち上がった。
階段の、一段目まで、歩いていって、杯を、そっと、置く。
「ここに、置いておきます。飲みたくなったら、飲んでください。飲みたくなければ、飲まなくても、いいです」
「…………」
「僕は、ここで、待ってます」
少年は、じっと、杯を、見つめた。
その後ろで、アルドゥスさんが、低く、唸った。
「やめなさい。ラシード」
「……アルドゥス」
少年が、ぽつりと、言った。
「ぼくは、ずっと、ひとりで、みんなを、まもってきた。でも、みんなは、さむそうだ。ずっと、さむそうだった」
「それは、気のせいだ。みんなは、苦しみから、解放されたのだ」
「でも、トムくんは、『さむい』って、言った」
サフラちゃんが、僕の後ろから、顔を出して、叫んだ。
「ラシードさま! わたし、サフラです! 星の里の!」
「サフラ……」
少年の目が、わずかに、揺れた。
「おばあちゃんが、言ってたの! ラシードさまは、三千年、ひとりで、泣いてるって! お茶を、飲んでくれたら、きっと、泣きやむって!」
サフラちゃんの声が、大広間に、響く。
少年の、細い手が、ゆっくりと、玉座の、肘掛けから、離れた。
そして、一歩、また、一歩。
階段を、降りてくる。
アルドゥスさんの、顔から、笑みが、消えた。
「ラシード。戻りなさい」
けれど、少年は、止まらなかった。
最後の、一段で、しゃがみ込んで、杯に、小さな両手を、そっと、添えた。
「……あったかい」
「どうぞ」
少年は、杯を、持ち上げた。
こくり。
その瞬間。
広間じゅうの、砂の像たちが、いっせいに、ぴくり、と、震えた。
天井の、星の結晶が、ぱあっと、強く、光る。
少年の頬を、一筋の、涙が、伝った。
「……あまい」
小さな声が、震えていた。
「あまいよ。母さま」
その涙が、床に、ぽとりと落ちた瞬間。
近くの、砂の像の、ひとりが、かすかに、まぶたを、動かした。
「……ラシード、さま……?」
かすれた、声だった。
三千年ぶりに、民の、声が、聞こえた。
「……!」
少年の目が、まんまるに、見開かれた。
「いま、しゃべった。……ぼくの、名前を、呼んだ」
けれど、次の瞬間。
「やめろ!」
アルドゥスさんが、絶叫した。
その体が、ぐにゃり、と、歪んだ。顔が、崩れ、白い砂の、粒に、変わっていく。
「おまえたちの、茶で、民を、起こすな! それは、世界を、再び、苦しませる、だけだ!」
黒い外套が、ばさりと、砂に、崩れ落ちた。
けれど、砂は、床に、広がらなかった。
ごおお、と、渦を巻いて、大広間の、天井まで、立ち上がる。
そして、その、渦の、中心から、全く別の、声が、響いた。
低くて、冷たくて、感情の、ない、声。
『――やはり、おまえは、邪魔だ。月光の、継承者』
背筋が、凍りついた。
それは、アルドゥスさんの、声でも、オルセンさんの、声でも、なかった。
もっと、深く、もっと、古く、もっと、遠い、声。
砂の渦の、中心に、人の、形をした、巨大な、影が、浮かび上がった。
顔のない、影。
ただ、ふたつの、真っ黒な、穴だけが、こちらを、じっと、見下ろしていた。
『砂の主は、ただの、器だ。この世界を、砂に、還す、真の主は、私だ』
少年が、叫んだ。
「やめて! やめて、そんな、ことは、ぼくは、望んでない!」
『望む、望まないは、関係ない。おまえの、悲しみが、私の、燃料だ』
影の、手が、ゆっくりと、少年に、向かって、伸びる。
僕は、とっさに、少年の、前に、飛び出した。
胸元の、青い石と、氷の結晶と、巻き貝が、いっせいに、爆発的に、輝いた。
「させません!」
僕は、水筒を、握りしめて、叫んだ。
「ラシードくんは、僕の、お客さんです!」
アルドゥスさんは、本当に、味方だったのでしょうか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。
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――第60話へ続く――




