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第56話 砂の海の入り口と、星の下の小さなお客さん

王都を出て、五日目の朝。

窓の外の景色は、いつのまにか、緑から黄色に変わっていた。

麦畑が消えて、背の低い草が、ぽつぽつと生えているだけの荒れ地になる。やがて、その草も、ほとんど見えなくなって、地平線まで、ただ、白っぽい砂が、うねるように続いていた。

「……これが、砂漠」

馬の背で、僕は、思わず、息をのんだ。

風が、乾いている。唇が、ぴりぴりと、ひび割れそうだ。太陽は、まだ、低いのに、肌に、じりじりと、熱が刺さってくる。

「ケン、帽子をかぶりなさい!」

後ろから、ミレイの声が、飛んできた。

「首の後ろも、日焼けするわよ。布を、巻いて」

「うん、ありがとう」

ミレイは、ハンナさんの、古い麻布を、僕の首に、ぐるぐると、巻きつけてくれた。それから、自分の頭にも、同じ色の布を、しっかり巻く。

「あんたは、ほんとに、放っておくと、すぐ、無茶をするんだから」

「ごめん」

「謝らなくていいから、水を飲みなさい。喉が、渇く前に」

「はい」

僕は、革の水袋に、口をつけた。ぬるい水が、喉を、通っていく。

その横で、リヒトが、馬の手綱を握ったまま、顔をしかめていた。

「……暑い」

「まだ、朝よ」

「わかっている。だが、暑い」

「金髪くん、あんた、帽子の中で、髪が、蒸れてるでしょ」

「うるさい! これは、アルディス家の、伝統だ!」

「どんな伝統よ」

ミレイが、くすくすと、笑った。

後ろで、ダリオさんが、大声で言った。

「皆さま、砂漠では、体力を、温存してください! あまり、しゃべらないほうが!」

「あなたが、いちばん、しゃべってるわよ」

カイラさんの、冷静な声が、ぴしゃりと、飛んだ。

「す、すみません!」

笑い声が、乾いた空気の中に、ふわりと、広がった。

* * *

カイラさんは、今回の旅に、道案内として、同行してくれていた。

黒潮商会の、船長だった頃、何度か、南の砂漠の、交易路を、通った経験があるらしい。

「この先に、『赤岩の、宿場』という、小さな、オアシスがあります。今夜は、そこで、休みましょう」

「宿場、ですか?」

「ええ。旅人が、水を、補給する、最後の拠点です。そこから先は、本当の、砂の海です」

カイラさんは、鞍の上で、地図を広げた。

ゼノさんが、描いてくれた、手書きの地図だ。

ところどころ、ゼノさんの、震える字で、注意書きが、添えられている。

『この岩の、陰に、井戸あり』

『夜は、星を、見て、進め。砂の主は、夜に、強くなる』

『もし、迷ったら、「渦」を、探せ。渦の中心に、遺跡の、入り口が、ある』

「ゼノさん、かなり、細かく、書いてくれてますね」

「ええ。あの人も、本当は、ケン殿たちの、役に、立ちたいのです」

カイラさんは、小さく、微笑んだ。

「それが、あの人なりの、償いなのでしょう」

僕は、地図の、ゼノさんの字を、そっと、指でなぞった。

骨ばった、不器用な字。けれど、一文字、一文字が、丁寧だった。

(ゼノさん、ちゃんと、生きてくださいね)

そう、心の中で、つぶやいたとき、胸元の、巻き貝が、かすかに、揺れた。

『ケン、うみのにおいが、とおくなってく』

泡さんが、ふるふると、不安そうに、揺れた。

『すな、いっぱい。かわいてる。ぼく、ちょっと、くるしい』

「泡さん、大丈夫?」

『うん。でも、おみず、もらえる?』

「もちろん」

僕は、水袋から、水を、手のひらに、少しだけ、取って、泡さんに、そっと、ふりかけた。

泡さんは、ぷくぷくと、嬉しそうに、膨らんだ。

『ありがとう! ケンの、おみず、すき』

「よかった」

『これで、ひるまは、だいじょうぶ!』

そう言って、泡さんは、僕の帽子の上に、ちょこんと、乗っかった。

ミレイが、それを見て、ぷっと、吹き出した。

「ケン、あんた、帽子に、クラゲを、のせて、砂漠を、歩く人、見たことないわよ」

「泡さんは、クラゲじゃ、ないよ」

『そう、ばんにん』

「帽子の上の、番人ね」

「いいでしょ」

ミレイは、頬を、ふくらませて、そっぽを向いたけれど、肩が、小さく、揺れていた。

* * *

夕方、赤い岩山の、すそに、小さな、緑が、見えてきた。

数本の、ヤシの木。その根もとに、澄んだ、水たまり。

「あれが、赤岩の、宿場です」

カイラさんが、手綱を、緩めた。

宿場、といっても、小さな、泥の壁の、小屋が、三つ、あるだけだった。

けれど、旅人たちの、荷馬や、ラクダが、数頭、つながれていて、焚き火の、煙が、ほそく、立ちのぼっている。

「ようこそ、旅の方々」

出迎えてくれたのは、日焼けした、年配の女性だった。

「ここは、水と、一晩の、屋根を、貸す場所だよ。水は、ひとり、銅貨二枚。屋根は、馬一頭、銅貨一枚」

「安いですね」

リヒトが、眉を、上げた。

「王都の、水袋より、ずっと」

「ここの水は、地下から、湧くからね」

女性は、にやりと、笑った。

「ただし、最近は、湧き方が、おかしいんだ。年々、少なくなってる。……砂が、水を、飲んでるのさ」

「砂が……?」

「そうさ。この、一年で、周りの村が、三つ、消えた」

女性の声が、低くなった。

「砂に、なっちまったんだよ。家も、井戸も、人間も、ね」

僕は、息を、のんだ。

ミレイが、ぎゅっと、僕の袖を、つかんだ。

「……砂の主の、せい、ですか」

「さあね。わしは、そんな、おとぎ話は、信じないよ」

女性は、肩をすくめた。

「ただ、毎晩、砂漠の方から、聞こえるんだ。泣き声が」

「泣き、声……?」

「風の音かも、しれないがね。でも、夜中に、聞くと、背筋が、ぞくっとする。子どもが、ひとりで、泣いているような」

女性は、焚き火の方へ、歩いていった。

僕たちは、顔を、見合わせた。

オルセンさんが、言っていた言葉が、頭に、よみがえった。

『あの方は、いつも、夢の中で、泣いていました』

* * *

夜になった。

屋根の下では、狭くて、暑かったので、僕たちは、宿場の脇の、砂地に、毛布を、広げて、焚き火を、囲んだ。

空を、見上げると、息が、止まった。

満天の、星。

数え切れないほどの、星が、空の端から端まで、びっしりと、まばたいている。王都でも、村でも、見たことのない、深い、深い、星空だった。

「……すごい」

「言葉が、出ないわね」

ミレイが、僕の隣で、膝を、抱えた。

リヒトも、無言で、空を、見上げている。ダリオさんは、珍しく、静かだった。

カイラさんが、焚き火に、枝を、くべながら、つぶやいた。

「海の上の、星も、きれいでしたが、砂漠は、また、違いますね」

「どう、違いますか?」

「海は、星が、水面に、映って、揺れます。砂漠は、動かない。ただ、静かに、そこに、ある」

「……静か、ですね」

「ええ。静かすぎて、少し、怖いくらい」

僕は、鞄から、小さな鍋と、水筒を、取り出した。

「みんなに、お茶、淹れるね」

「あんた、旅の間、毎晩、淹れてるじゃない」

「うん。それが、僕の、仕事だから」

月光草と、夏空の花を、水に浸す。それから、胸元の、氷の結晶を、そっと、握って、魔力を、流した。

水が、ぴきぴきと、ひんやり、冷えていく。

「砂漠の夜に、冷たい、お茶か」

リヒトが、少し、感心したように、言った。

「いい考えだ」

「ユキの、おかげだよ」

淡い青色の、きらきらした、お茶を、杯に、注いで、みんなに、配る。

ひとくち、飲んだ、ミレイが、ほう、と、息をついた。

「……生き返る」

「でしょ」

「昼間の、暑さが、全部、溶けていくみたい」

ダリオさんも、感動したように、杯を、見つめた。

「ケン殿のお茶は、毎回、自分の、想像を、超えます」

「ダリオ、声が、大きい」

「すみません!」

また、笑い声が、星空に、溶けた。

そのとき。

『ケン』

僕の頭の上で、泡さんが、ぴくりと、震えた。

『だれか、くる』

「えっ?」

『ちいさい、あしおと。はしって、きてる』

僕は、はっと、顔を上げた。

焚き火の、光の、向こう側。暗闇の、砂丘の上に、小さな、人影が、ぽつんと、立っていた。

月明かりに、浮かび上がる、細い、シルエット。

そして、その影が、ふらり、と、揺れて。

どさり、と、砂の上に、倒れた。

「誰か、倒れた!」

僕は、立ち上がって、駆け出した。

砂丘を、駆け上がると、そこに、小さな、女の子が、うつぶせに、倒れていた。

年は、八つか、九つくらい。砂色の、ぼろぼろの、外套。乾いた、黒い髪。唇は、ひび割れて、真っ白だった。

「しっかり!」

抱き起こすと、驚くほど、軽かった。

僕は、心の中で、唱えた。

(……雑草鑑定。状態鑑定)

【名称:サフラ】

【状態:重度の脱水。疲労。三日間、水なしで、歩き続けた】

【備考:砂の民の少女。砂星草を、代々守ってきた、一族の末裔】

【所持品:「星砂のペンダント」。五つの草の気配に、共鳴する】

「砂星草の、守り人……!」

思わず、声が、出た。

ミレイが、水袋を、抱えて、駆けつけてきた。

「ケン、水!」

「ありがとう」

少しずつ、サフラちゃんの、唇に、水を、含ませる。

こく、こく、と、喉が、動いた。

やがて、長いまつげが、ふるふると、揺れて、ゆっくりと、まぶたが、開く。

黒曜石のような、深い、黒い瞳が、僕を、見つめた。

「…………あなたたち、は」

「僕は、ケン。薬師の、見習いだよ」

「…………くすし」

サフラちゃんの、目が、大きく、見開かれた。

それから、がしっと、僕の腕を、つかんだ。

細い指なのに、驚くほど、強い力だった。

「あなた、だ」

「え?」

「砂の、主の、ところに、行くんでしょう。『月光の、薬師』」

僕は、息を、のんだ。

「どうして、それを」

「おばあちゃんが、言ってたの。『いつか、月の光を、持つ者が、来る』って」

サフラちゃんの、黒い瞳から、ぽろぽろと、涙が、こぼれた。

「おねがい。村を、助けて」

「サフラちゃんの、村?」

「もう、半分、砂に、なっちゃったの。おじいちゃんも、おばさんも、お隣の、トムくんも……みんな、立ったまま、砂の、像に、なっちゃった」

「…………!」

「でも、おばあちゃんが、最後に、言ったの。『まだ、間に合う。月光の薬師が、お茶を、持ってきてくれる』って」

サフラちゃんの、小さな手が、僕の袖を、ぎゅっと、握りしめた。

「だから、わたし、三日、歩いたの。王都の、方に、向かって。……お願い」

僕は、その、小さな、震える手を、そっと、両手で、包んだ。

「大丈夫」

「…………」

「僕たちは、その、ために、来たんだ。一緒に、行こう」

サフラちゃんの、目が、ぱあっと、輝いた。

それから、ほっとしたように、くしゃくしゃと、顔を、歪めて、僕の胸に、顔を、うずめた。

「うぇぇぇん……」

「よしよし。もう、大丈夫」

僕は、小さな、背中を、ゆっくり、撫でた。

後ろから、足音が、近づいてくる。

「ケン」

ミレイが、静かに、言った。

「その子、あんたが、最初に、助けたい、って、顔に、書いてあるわよ」

「うん」

「当たり前、よね」

ミレイは、小さく、微笑んだ。

その腕の中で、サフラちゃんが、ぽつりと、つぶやいた。

「…………あのね」

「うん?」

「砂の主さまは、悪い、人じゃ、ないの」

「…………え?」

「毎晩、夢に、出てくるの。小さな、男の子の、姿で」

サフラちゃんは、鼻を、すすりながら、続けた。

「泣いてる。『かえりたい』って。『みんなと、いっしょに、いたい』って」

僕は、ごくりと、唾を、のんだ。

オルセンさんの、言葉。宿場の女性の、言葉。そして、いま、サフラちゃんの、言葉。

三つの声が、ひとつに、重なる。

(砂の主は、三千年、ひとりで、泣いているんだ)

星空の下、砂丘の、向こう。

遠い、遠い、地平線の、あたりで、小さな、砂の渦が、ぐるぐると、静かに、回っていた。

砂の主の、本当の姿は、何だと思いますか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。

続きが気になる方は、ブックマークと評価をお願いします。

――第57話へ続く――

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