第55話 味のしないお茶と、母さんへの手紙
翌朝、目を覚ますと、扉の向こうが、やけに静かだった。
金色の格子のはまった窓から、朝日が差している。ベッドの脇には、泡さんが、ふわふわと浮かんで、気持ちよさそうに眠っていた。
「……鐘の音が、しないな」
昨日までは、毎朝、近衛兵の足音で目が覚めていた。
そっと扉を開けると、廊下に、トマスさんが立っていた。
「おはようございます、ケン殿!」
「おはようございます。……あの、見張りは」
「もう、見張りでは、ありません」
トマスさんは、そばかすの顔を、くしゃっと崩して笑った。
「陛下の、勅令が、出ました。『月光の薬師ケンは、無実。王宮の、客人として、遇する』と。自分は、案内役です」
「案内役……」
「それと、これを」
差し出されたのは、小さな、麻の袋だった。
「母から、手紙が来たんです。ケン殿の薬草茶を、飲んだら、夜、咳が出なくなったって」
袋の中には、手作りの、干し葡萄が、ぎっしり詰まっていた。
「母が、『お礼に』と。田舎の、ものですが」
「ありがとうございます。大事に、いただきます」
胸が、ほんわりと、温かくなった。
* * *
朝食のあと、セドリックさんに案内されて、王宮の、医務室に向かった。
白い壁の、静かな部屋。寝台の上で、ひとりの青年が、天井を、ぼんやり見つめている。
銀とも金ともつかない、不思議な色の髪。けれど、昨日の、あの冷たい笑顔は、どこにもなかった。
「オルセン卿……いえ、オルセンさん」
青年が、ゆっくりと、こちらを見た。
「……君は、昨日の」
「ケンです。お茶を、お持ちしました」
「……お茶」
オルセンさんは、少し、困ったように、笑った。
「私は、味が、わからないのです。昨日も、そう言ったでしょう。ずっと、そうでした」
「はい。でも、飲んでみませんか。もし、わからなかったら、それでも、いいので」
僕は、水筒から、月光草のお茶を、杯に注いだ。
オルセンさんは、しばらく、杯を見つめていた。
やがて、おそるおそる、口をつけた。
こくり。
そのまま、動きが、止まった。
「…………あ」
杯が、小刻みに、震えた。
「甘い」
声が、掠れていた。
「甘い。……甘いんだ。これが、甘い、という、ことなのか」
オルセンさんの目から、ぽろぽろと、涙が、こぼれ落ちた。
「九歳のとき、以来です。何かの味を、感じたのは」
「九歳……」
「砂漠の村で、私は、ひとりでした。両親が、疫病で、亡くなって。毎日、お腹が空いて、悲しくて、泣いていた」
オルセンさんは、杯を、両手で包んだ。
「ある晩、砂の中から、声が、聞こえたんです。『もう、泣かなくて、いい。空腹も、悲しみも、取り除いてあげよう』と」
「…………」
「私は、うなずきました。……それから、何も、感じなくなった。空腹も、悲しみも、味も、温かさも」
僕は、黙って、うなずいた。
ミレイのノートに、書いてあった言葉が、頭に浮かぶ。
「苦しみを、取り上げられた人は、同時に、喜びも、失う」
「ごめんなさい」
オルセンさんは、涙を、拭いながら、言った。
「私は、砂の主の、器として、多くの、人を、傷つけました。記憶は、遠くから、眺めているようで、でも、確かに、あります」
「あなたの、せいじゃ、ありません」
「それでも、償いたい」
その目は、まっすぐで、少しだけ、強い光を、宿していた。
「ケン殿。砂漠へ、行かれるのですね」
「はい」
「ひとつだけ、お伝えしたいことが、あります」
オルセンさんは、声を、落とした。
「あの方は、……砂の主は、いつも、夢の中で、泣いていました」
「泣いて、いた?」
「はい。私に、語りかけるとき、いつも、声が、濡れていた。『奪ったんじゃない。守ろうとしたんだ』と、繰り返して」
僕は、息を、のんだ。
「何を、守ろうと」
「わかりません。ただ、とても、深い、悲しみでした。……三千年分の」
窓の外で、鳥が、ちちち、と鳴いた。
* * *
出発は、二日後に、決まった。
砂漠まで、馬車で、五日。七日の期限には、ぎりぎり、間に合う。
その二日間で、準備を、整える必要があった。
「まず、水ね」
王都の、大市場の、真ん中で、ミレイが、腕を組んで、仁王立ちした。
「砂漠では、水が、命よ。革の水袋を、ひとり、三つ。予備を、五つ」
「俺が、値切る」
リヒトが、ぐいっと、前に出た。
「アルディス家の、名にかけて、一番、いい物を、一番、安く、手に入れてやる」
「頼もしいわね。……でも、威張らないでよ」
「威張ってない」
リヒトは、露店の、水袋売りの、おじさんに、にこやかに、近づいた。
「その、革は、どこの、産だ? 縫い目が、少し、甘いな」
「へえ、坊ちゃん、お目が高い」
「この、三つ組、ふたつで、いくらだ」
「え、ええと、銀貨、五枚で」
「三枚だ」
「そ、そりゃあ」
「三枚と、半分」
「……毎度あり」
リヒトは、満足そうに、うなずいた。
ミレイが、ぼそっと、僕に、言った。
「……ちょっと、感心した」
「うん。すごいね」
「でも、言ったら、調子に、乗るから、言わない」
「聞こえてるぞ!」
リヒトの耳が、真っ赤だった。
その日の午後、ダリオさんが、騎士団の、厩舎から、六頭の、馬を、連れてきた。
「陛下から、お借りした、砂漠仕様の、馬です! 足が、強くて、水を、あまり、飲まない!」
「声が、大きいですよ、ダリオさん」
「す、すみません!」
馬たちは、おとなしく、僕の肩に、鼻を、すり寄せてきた。ひんやりしていて、少し、くすぐったい。
「かわいいな」
「ケン殿は、動物に、好かれますね」
「そうですか?」
「森の、白鹿さまとも、狐の、弟君とも」
ダリオさんは、感心したように、頷いた。
ふと、遠くの、中庭の方から、ゼノさんたちの、声が、聞こえてきた。
「ゼノ、砂漠には、おまえは、来るな」
「何を言う。俺が、いちばん、砂の主の、手口を、知っている」
「病人が、何を」
「おまえも、病人だろう、ガルヴィン」
「…………」
「…………」
三人の、老人が、むすっと、黙り込んだあと、ヴォルフさんが、ぼそりと、言った。
「……三人とも、留守番、だな」
「それが、一番、妥当だ」
「くそ」
ゼノさんが、小さく、悪態をついて、でも、少し、笑った。
* * *
その夜、僕は、部屋の机で、母さんに、手紙を、書いた。
『母さんへ
元気ですか。僕は、元気です。
王宮で、ちょっと、大きな事件に、巻き込まれたけれど、無事に、解決しました。陛下は、とても、優しい人でした。
でも、まだ、旅は、続きます。今度は、南の、砂漠へ、行きます。
「砂の主」っていう、悲しい、存在に、会いに行きます。怖い人かも、しれません。でも、僕は、その人にも、お茶を、淹れてあげたいと、思っています。
母さんが、いつも、言ってたよね。「ごはんは、ちゃんと、食べなさい」って。ちゃんと、食べてます。夜も、ちゃんと、寝ています。
リナの、マフラー、まだ、届いてないけど、楽しみにしています。
ミレイも、リヒトくんも、ダリオさんも、泡さんも、みんな、元気です。
必ず、帰ります。「ただいま」を、言いに。
ケンより
追伸:かぼちゃパンが、食べたいです』
書き終えて、読み返して、僕は、ふっと、笑った。
最後の一行を、書くつもりは、なかった。でも、気づいたら、書いていた。
封をして、枕元に、置く。
そのとき、窓の格子の、向こうで、こつこつ、と、音がした。
『ケン!』
「ギン!」
銀色の、ふわふわの顔が、のぞいていた。
『おてがみ、とりにきた! それと、おくりもの、はこんできた!』
ギンは、背中に、小さな、布の包みを、背負っていた。
窓の格子を、すり抜けて、僕の膝の上に、ぽんと、降りる。
包みを、ほどくと、中から、ふんわりと、柔らかい、水色の、毛糸が、出てきた。
「……マフラー」
片側だけ、毛糸の房が、残っていたはずの、あのマフラーだ。
いまは、両端とも、きれいに、仕上がって、先に、小さな、花の刺繍まで、ついている。
そして、その間に、折りたたんだ、紙切れが、挟まっていた。
不揃いな、大きな字。
『おにいちゃんへ
マフラー、できたよ。
あったかくして、かえってきてね。
リナより』
その下に、母さんの、字で、もう一行。
『かぼちゃパン、焼いて、待ってます。母より』
僕は、マフラーに、顔を、うずめた。
毛糸の、ふわふわの、中に、リナの、匂いと、母さんの、台所の、匂いが、混ざっていた。
「…………」
目の奥が、じんと、熱くなった。
『ケン、なかないで』
「泣いてないよ」
『かおが、ぐしゃぐしゃ』
「……ちょっとだけ」
ギンが、僕の頬を、ぺろり、と、舐めた。
『だいじょうぶ。ぼくが、いるよ』
「うん。ありがとう、ギン」
僕は、マフラーを、首に、巻いた。
あたたかかった。
窓の外には、二つの、月が、浮かんでいた。
その月の、向こう、遠い、南の、空の、果てに。
見えない、砂漠の夜が、静かに、広がっている。
砂の主は、三千年、何を、守ろうとしていたのだろう。
その答えを、見つけられるのは、きっと、お茶と、仲間と、そして、これまで、結んできた、たくさんの、約束だけだ。
僕は、マフラーの端を、ぎゅっと、握りしめた。
砂の主は、本当に、悪者だと思いますか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。
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――第56話へ続く――




