第51話 寝坊の朝と、貝殻の呼び笛
目が覚めると、天井の梁の向こうから、かもめの鳴き声が聞こえた。
(……あれ、ここは)
白い漆喰の壁。窓から差し込む、強い日差し。潮の匂い。
ミナト村の、ナギの家の、屋根裏部屋だった。
「ケンにいちゃん、おきたー!」
ばたん、と扉が開いて、ナギが、勢いよく飛び込んできた。後ろから、お母さんが、くすくす笑いながら、顔を出す。
「ケンくん、お昼ですよ。昨日は、三回呼んでも、起きなかったのよ」
「えっ、もう、お昼!?」
慌てて、飛び起きた。体じゅうが、ぎしぎしと、きしむ。昨夜の戦いの疲れが、まだ、骨の奥まで、残っていた。
「無理しなくて、いいのよ。お父さんが、ずっと、そばについてたんだから」
ナギのお母さんは、にっこり笑って、湯気の立つ、麦のおかゆを、持ってきてくれた。
「おとうさん、はんぶん、ないてた」
「ナギ、それは、内緒でしょ」
「えへへ」
おかゆは、塩気が、ほどよくて、魚のだしが、じんわりと、体にしみた。
(母さんの、かぼちゃパンも、いいけど、これも、あったかいな)
ふと、窓の外から、聞き覚えのある、歌声が、風に乗って、流れてきた。
* * *
波止場の脇の、岩場に、小さな潮だまりがあった。
その中に、ルルちゃんが、ぷかぷかと、浮かんでいた。まわりには、ナギの友達の、村の子どもたちが、ぐるりと、集まっている。
「ルルちゃん、もういっかい、うたって!」
「うん。じゃあ、こんどは、おさかなの、おうた」
ルルちゃんが、歌い始めると、潮だまりの水面が、ぽう、と、青く光った。小さな魚たちが、ひらひらと、集まってきて、まるで、輪になって、踊っているように見える。
子どもたちが、わあっと、歓声をあげた。
「きれい……!」
「ねえ、ルルちゃん、またあした、きてくれる?」
「うん! まいにち、くるよ!」
ルルちゃんは、僕に気づいて、ぱっと、顔を輝かせた。
「ケンおにいちゃん!」
「おはよう、ルルちゃん。もう、お昼だけどね」
「ねぼすけー!」
「うっ」
子どもたちが、どっと笑った。
ルルちゃんは、潮だまりの縁まで、すいっと泳いできて、小さな手を、差し出した。
「これ、あげる」
手のひらに、乗っていたのは、親指の先ほどの、白い巻き貝だった。表面に、淡い虹色の筋が、走っている。
「なあに、これ」
「うたの、かいがら。ふいたら、わたしに、きこえるの」
「呼び笛ってこと?」
「そう! どこにいても、うみの、みずが、あれば、わたしに、とどくよ」
ルルちゃんは、えへんと、胸を張った。
「ケンおにいちゃんが、こまったときは、たすけにいく。やくそく」
僕は、貝殻を、そっと、受け取った。
軽くて、ひんやりしていて、ほんのり、海の香りがした。
「ありがとう。大事にするよ」
「うん!」
ルルちゃんは、にこっと笑って、ぱしゃんと、潮だまりに、潜っていった。
僕は、貝殻を、首の紐に、通した。
青い石と、氷の結晶と、巻き貝。
胸元が、少しだけ、にぎやかになった。
* * *
昼過ぎ、村の診療所に、顔を出した。
小さな、石造りの建物だ。日当たりのいい部屋に、簡素な寝台が、置かれている。
その上で、ゼノさんが、ぼんやりと、天井を、見つめていた。
「……起きていらしたんですね」
「少年か」
かすれた声だった。顔色は、まだ、青白いけれど、昨夜のような、死相は、消えていた。
扉の脇には、ダリオさんが、鎧姿で、仁王立ちしている。
「ケン殿、お疲れさまです! 囚人は、おとなしくしています!」
「ダリオさん、囚人って」
「いや、構わん」
ゼノさんは、低く、笑った。
「事実だ。俺は、罪人だからな」
僕は、寝台の脇の椅子に、腰を下ろして、水筒の蓋を、開けた。
「お茶、飲みますか」
「……ああ。もらおう」
ゼノさんは、杯を、受け取って、ゆっくりと、口に運んだ。
しばらく、静かな時間が、流れた。
窓の外から、子どもたちの笑い声と、波の音が、聞こえてくる。
「……気分は、どうですか」
「不思議だ」
ゼノさんは、杯を、見つめたまま、言った。
「三十年ぶりに、息が、苦しくない。体が、軽い」
「潮泡草の、泡の力です。完治では、ないですけど」
「わかっている。あの泡は、俺に、時間を、くれた。……それが、ありがたいのか、重いのか、まだ、わからん」
ゼノさんは、自嘲するように、笑った。
「生きて、償え、か。簡単に言ってくれる」
「簡単じゃないです」
「ほう」
「でも、できると思います。ゼノさんは、真珠を、全部、僕に、託してくれたから」
ゼノさんは、黙って、僕の顔を見つめた。
それから、ふっと、目をそらした。
「少年。ひとつ、教えておく」
「はい」
「黒い油の、出どころだ」
ゼノさんの声が、わずかに、低くなった。
「あれは、俺が、作ったものではない」
「えっ」
「俺が、使っていたのは、確かに、俺の、研究の成果だ。だが、船員を縛る、あの黒い油は、別の者から、供給されていた」
「……誰ですか」
「顔は、見たことがない。ただ、取引は、いつも、南の砂漠から、運ばれてきた、黒い壺を、介して、行われた」
ダリオさんが、ぴくりと、反応した。
「南の、砂漠……」
「ああ。砂星草の遺跡の、近くだ。そこから、黒い油と、大量の金が、届いた」
僕は、昨夜の、学院長の、手紙を、思い出した。
『南の砂漠の遺跡の地下から、何者かが、砂星草を、掘り起こそうとしている』
「つまり、その人物が、黒潮商会の、本当の、黒幕……?」
「確証は、ない。だが、俺は、そう睨んでいる」
ゼノさんは、杯を、膝の上に置いた。
「あいつの名前は、知らん。ただ、手紙の、署名は、いつも、同じだった」
「どんな署名ですか」
「砂の渦巻きの、絵だ」
僕は、息を、のんだ。
渦巻き。
黒潮商会の旗に、描かれていた、白い渦巻き。
そして、ゼノさんが、見たという、砂の渦巻き。
(同じ、印……?)
「少年」
ゼノさんは、まっすぐ、僕を見た。
「気をつけろ。あれは、俺より、ずっと、冷たい。人の心を、燃料にして、動くような男だ」
「……はい」
「それと」
ゼノさんの目が、ほんの少し、揺れた。
「ヴォルフと、ガルヴィンに、会わせてくれ。……殴られても、構わん」
「はい。約束します」
僕が、小指を、差し出すと、ゼノさんは、きょとんと、それを、見つめた。
「……何だ、それは」
「約束の、儀式です」
「……奇妙な、習慣だな」
そう言いながらも、ゼノさんは、骨ばった小指を、そっと、絡めてくれた。
その指は、ひどく、冷たくて、でも、かすかに、震えていた。
ダリオさんが、戸口で、ぐすっと、鼻をすすった。
「……自分、こういうの、弱いんです」
「ダリオさん、静かに」
「すみません!」
* * *
夕方、波止場に出ると、リヒトが、村長の前で、深々と、頭を下げているのが、見えた。
「……アルディス家の、先祖が、ご迷惑を、おかけしました」
リヒトの声は、少し、震えていた。
「俺の、家は、黒潮商会と、取引を、していました。そのせいで、この村の、船乗りたちが、苦しんだ。……俺には、責任が、あります」
村長は、しばらく、黙ってリヒトを、見つめていた。
それから、ゆっくりと、口を開いた。
「坊や。顔を、上げなさい」
「……はい」
「おまえは、悪いことを、したのか」
「いえ。俺は、何も、していません。でも」
「なら、頭を、下げることは、ない」
村長は、静かに言った。
「過去の、過ちは、おまえの、せいじゃない。だが、おまえが、これから、どう動くかは、おまえの、責任だ」
「…………」
「昨夜、おまえは、銛を、握って、戦ったと、聞いた」
「えっ、それは、その」
「立派だった」
村長は、がっしりとした手で、リヒトの肩を、ぽんと叩いた。
「おまえが、何者かは、関係ない。村の海を、守ろうとした、仲間だ。それで、十分だ」
リヒトの目が、みるみる、潤んだ。
「……ありがとう、ございます」
「泣くな、男だろう」
「な、泣いてません!」
リヒトは、慌てて、袖で、顔を、ごしごしと、拭った。
その様子を、少し離れたところから、ミレイが、にやにやしながら、眺めていた。
「素直じゃない、金髪くんが、泣いてるわよ」
「ミレイ、静かに」
「だって、面白いんだもの」
僕は、苦笑いして、夕焼けの空を、見上げた。
茜色に染まった、穏やかな海。
静かな、波の音。
昨夜の、嵐が、嘘みたいだった。
(のんびり、いいな)
そう、思った、そのときだった。
村の、入り口の方から、馬の蹄の音と、車輪の軋む音が、聞こえてきた。
「……ん?」
振り向くと、一台の、黒塗りの馬車が、ゆっくりと、波止場へ、近づいてきていた。
馬車の扉には、金色の紋章。
国王の、紋章だった。
「陛下の、馬車……?」
ダリオさんが、慌てて、背筋を、正した。
馬車が、止まる。
扉が、開いて、一人の、細身の男が、降りてきた。
銀縁の眼鏡。灰色の礼服。
セドリックさんだった。
けれど、その顔は、ひどく、青ざめていた。
「ケン殿」
「セドリックさん! どうして、ここに」
「……申し訳ありません」
セドリックさんは、深く、頭を下げた。
「陛下の、命令で、参りました。『月光の薬師、ケンを、王都へ、連れてまいれ』と」
「えっ」
「ただし」
セドリックさんは、懐から、一枚の、羊皮紙を、取り出した。
金の封蝋。王宮の、正式な、書状。
「これが、同行している、近衛兵への、命令書です。……『ケン殿を、重要参考人として、拘束せよ』と」
波止場の空気が、凍りついた。
ミレイが、ぎゅっと、僕の袖を、つかんだ。
リヒトが、一歩、前に、出る。
ダリオさんが、剣の柄に、手をかけた。
「やめて、ください」
僕は、小さく、首を振った。
「セドリックさん。この命令は、陛下の、本心ですか」
「……いえ」
セドリックさんは、唇を、噛んだ。
「陛下は、反対しておられます。ですが、王宮会議で、『黒潮商会』の、役員たちが、多数派を、握り、陛下の、反対が、押し切られました」
「…………」
「陛下は、私に、密かに、こう、仰いました」
セドリックさんは、声を、潜めた。
「『ケンに、伝えよ。形式上、拘束される。だが、必ず、助け出す。それまで、耐えてほしい』と」
僕は、ゆっくりと、目を閉じた。
潮の香り。波の音。胸元の、青い石と、氷の結晶と、貝殻。
そして、目を開けた。
「……わかりました」
「ケン!」
ミレイが、叫んだ。
「行っちゃだめよ! 罠に、決まってる!」
「うん。罠かもしれない」
僕は、ミレイの手を、そっと握った。
「でも、陛下が、信じてくれてる。それなら、僕も、陛下を、信じたい」
「でも!」
「大丈夫。僕は、ひとりじゃないから」
僕は、仲間たちの、顔を、順番に、見回した。
ミレイ。リヒト。ダリオさん。カイラさん。ナギ。泡さん。ギン。
「みんなが、いてくれるから、僕は、大丈夫」
ミレイの目から、ぽろり、と、涙が、こぼれた。
「……ばか」
「うん」
「絶対、助けに行くから。待ってなさいよ」
「うん。待ってる」
僕は、馬車に、向かって、歩き出した。
近衛兵たちが、少し、気まずそうに、扉を、開ける。
乗り込む直前、僕は、振り返った。
夕焼けの、波止場。
手を振る、村の人たち。
遠くの、岬の、灯台が、白く、やさしく、光っていた。
(行ってきます)
僕は、心の中で、そっと、つぶやいた。
扉が、閉まる。
馬車が、ゆっくりと、動き出す。
窓の外を、流れていく、夕焼けの海を、見つめながら、僕は、鞄の奥の、ミレイのノートを、ぎゅっと、握りしめた。
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――第52話へ続く――




