第50話 海の長老の答えと、五つ目の草
青い光の柱の中で、白い長い影が、ゆっくりと、こちらへ向きを変えた。
巨大な、白い鱗の体。宝石のような青い瞳。頭には、珊瑚のような、淡い角。
海の民の長老だ。
けれど、その姿は、僕が想像していた「人魚」とは、少し違っていた。まるで、海そのものが、人の形を、借りているようだった。
『……人の子よ』
声は、頭の中ではなく、海全体から、響いてきた。
『歌が、帰ってきた。三十年ぶりに』
黒い船の船室に、割れた真珠から、淡い光の粒が、ふわふわと、浮かび上がっていた。粒は、窓の隙間から、すうっと、外へ流れ出して、海へ、溶けていく。
ひとつ、またひとつ。
そのたびに、海面が、ぽう、と、青く光った。
「……みんなの、歌だ」
僕は、ゼノさんを、そっと抱きかかえたまま、甲板に出た。
潮風が、頬を撫でる。夜の湾は、無数の青い光で、満ちていた。
ルルちゃんの泡が、ふわふわと、僕の隣に、寄ってきた。
「ケンおにいちゃん」
「ルルちゃん。お母さんの歌は?」
ルルちゃんは、胸の前で、両手を、ぎゅっと握った。
その手のひらの上に、小さな、黒い真珠が、ひとつ、乗っていた。
「これ。おかあさんの」
「……聞いても、いい?」
ルルちゃんは、こくんと、うなずいて、真珠を、そっと、耳に当てた。
僕にも、聞こえた。
優しい、澄んだ、女の人の、子守唄。
それは、ほんの少しの間だけ、続いて、そして、真珠が、ぱきん、と、静かに割れた。
光の粒が、ルルちゃんの頬を、ひとなでして、海へ、帰っていった。
「……ありがとう、おかあさん」
ルルちゃんは、泣いていなかった。
ただ、ふんわりと、笑っていた。
「もう、さみしくない」
その笑顔を見て、僕は、胸の奥が、じんと、あたたかくなった。
* * *
『人の子よ』
長老の声が、もう一度、響いた。
『第三の約束は、果たされた。歌は、海に、帰った。……ただし』
長老の青い瞳が、僕の腕の中の、ゼノさんに、向けられた。
『その男は、我らの同胞を、数え切れぬほど、傷つけた』
「…………」
『許すことは、できぬ。だが、その男の手で、歌が、海に、戻されたのも、事実だ』
甲板の上が、しんと、静まり返った。
岸辺から、小舟で、近づいてきた、村人たちも、息をひそめている。
ミレイが、小舟の舳先で、ぎゅっと、拳を握りしめていた。リヒトも、ダリオさんも、カイラさんも、じっと、長老の言葉を、待っている。
『人の子よ。おまえは、この男を、どうしたい』
僕は、少し、考えた。
「……生きて、償わせたいです」
『償い、とは』
「歌を、奪われた、海の民の、ひとりひとりに、謝ること。壊された網を、すべて、解くこと。そして、二度と、同じことを、しないこと」
『それは、長い、旅になる』
「はい。でも、この人には、まだ、時間が、必要です」
長老は、しばらく、黙っていた。
波が、ざあ、ざあ、と、船腹を打つ。
やがて、長老の青い瞳が、ふっと、細まった。
『……その男の、病を、見よ』
「えっ」
『我らは、海の民。人の病は、わからぬ。だが、その男の、体の中で、歌が、泣いている』
僕は、ゼノさんの顔を、見下ろした。
青白くて、頬はこけているのに、その寝顔は、不思議と、穏やかだった。
(……歌が、泣いている)
僕は、もう一度、心の中で唱えた。
(……雑草鑑定。状態鑑定)
【名称:ゼノ・ヴァルガ】
【状態:星蝕病・末期。ただし、体内に、海の歌の欠片が残り、病の進行を、辛うじて、抑えている】
【備考:欠片は、あと数日で消える。それまでに、潮泡草の「泡」を、受け取れば、命は、つなぎ止められる】
「……!」
僕は、顔を上げた。
「長老さま。潮泡草を、いただけませんか」
『それは、おまえの、約束の、報酬だ。拒む理由は、ない』
長老は、静かに、ゆっくりと、体を傾けた。
青い光の柱の先端で、小さな泡のような花が、ふわりと、揺れる。
『受け取れ、人の子よ。ただし、ひとつだけ、条件がある』
「はい」
『その花は、ひとりのためには、使えぬ。ルナリアの、誓いと、同じだ』
「…………」
『だが、「泡」だけなら、分けられる。花の、ひとしずくの、泡を、その男の、胸に、置け。それで、七つの草が、そろう日まで、命は、保たれよう』
僕は、深く、頭を下げた。
「ありがとうございます」
光の柱の中から、小さな、透きとおった、泡が、ひとつ、ふわりと、降りてきた。
僕の手のひらに、そっと、乗る。
触れた瞬間、冷たいのに、あたたかい、不思議な感触が、全身に、広がった。
そして、泡の中に、一輪の、淡い青色の花が、映っていた。
潮泡草。
五つ目の草だ。
僕は、泡を、ゼノさんの胸の上に、そっと置いた。
泡は、ぷるん、と、ゼノさんの体に、溶けるように、染み込んでいった。
ゼノさんの顔に、わずかに、血の気が、戻る。
乱れていた呼吸が、すうっと、穏やかに、整っていった。
「……生きてる」
リヒトが、小さな声で、つぶやいた。
「よかった……」
カイラさんが、その場に、へたり込んだ。
* * *
夜が、明けた。
東の空が、少しずつ、薄紅色に、染まっていく。
黒い渦は、とうに消えて、湾の水は、澄んだ青色に、戻っていた。黒潮商会の、三隻の船は、帆を下ろして、静かに、波に揺れている。
船員たちは、みんな、甲板に出て、朝日を、眺めていた。
トムじいさんが、杯を、両手に、包んだまま、ぽつりと、つぶやく。
「海ってのは、こんなに、きれいだったんだなあ」
バルドさんは、岸のほうを、じっと、見つめていた。
その岸辺に、ナギが、お母さんと一緒に、立っていた。
ナギが、大きく、手を振っている。
「おとうさーーん!」
バルドさんの肩が、びくりと、震えた。
「……ナギ」
「おとうさん! おとうさーん!」
ナギの声が、朝の海に、響きわたる。
バルドさんは、手すりに、両手をついて、顔を、くしゃくしゃに、歪めた。
「ごめんな……ごめんな、ナギ……」
その声は、涙で、ほとんど、言葉にならなかった。
カイラさんが、そっと、バルドさんの肩に、手を置いた。
「行きなさい、バルド。船は、私が、岸まで、つけるわ」
「……ありがとうございます、船長」
「もう、船長じゃ、ないかもしれないけどね」
カイラさんは、苦く笑って、僕を見た。
「ケン殿。この船と、乗組員の、処遇は、どうなりますか」
「僕には、決められません。でも、ダリオさんに、お願いして、陛下に、報告してもらえます」
「自分に、お任せください!」
ダリオさんが、舟から、勢いよく、手を挙げた。
「黒潮商会の、不正は、正式に、王国騎士団の、捜査対象に、いたします! 乗組員の方々は、被害者として、保護されるよう、陛下に、お願いします!」
「……頼もしいわね」
カイラさんは、くすりと、笑った。
その目に、もう、冷たい光は、なかった。
「それと、ケン殿」
「はい」
「会長が、目を覚ましたら、伝えてください」
カイラさんは、眠るゼノさんを、そっと、見下ろした。
「『黒潮商会の、本店には、まだ、役員が、残っている』と。会長が、ひとりで、すべてを、仕切っていたわけでは、ありません」
「えっ」
「王都の、本店に、『七人の、取締役』がいます。彼らは、会長が、倒れたら、すぐに、次の手を、打つでしょう」
僕は、思わず、息を、のんだ。
「……まだ、終わりじゃ、ないんですね」
「ええ。でも、少なくとも、海は、取り戻せた」
カイラさんは、朝日の中で、静かに、微笑んだ。
* * *
昼になって、村では、小さな宴が、開かれた。
波止場に、長い机が、並べられて、村の人たちが、持ち寄った、焼き魚や、貝のスープが、ずらりと、並んだ。
村長が、杯を高く掲げた。
「海の、恩人に、乾杯だ!」
「かんぱーい!」
村じゅうの人たちが、声を、揃える。
ナギは、バルドさんの膝の上に、座って、離れようとしなかった。
「おとうさん、おひげ、ちくちくする」
「剃るのを、忘れてたからな」
「でも、すき」
「……そうか」
バルドさんは、ナギの頭を、不器用に、撫でた。
その横で、トムじいさんが、いかつい顔で、鍋の、スープを、ぐびぐびと、飲んでいる。
「うめえ! 三十年ぶりに、うめえと、感じた!」
「おじいさん、昨日も、同じこと、言ってましたよ」
「うるせえ!」
笑い声が、波止場に、弾けた。
ミレイが、僕の隣に、どすんと、座った。
「ケン」
「ミレイ」
「あんた、ほんとに、無茶苦茶ね」
「ごめん」
「謝らないで」
ミレイは、むっとした顔で、僕の腕を、ぺしんと叩いた。
「あんたが、ひとりで、黒い船に、渡っていったとき、私、心臓が、止まるかと、思ったんだから」
「うん。ごめん」
「……でも」
ミレイは、少し、うつむいて、声を、小さくした。
「ちゃんと、帰ってきて、よかった」
「うん。ただいま」
「……おかえり」
ミレイの耳が、真っ赤だった。
その後ろから、リヒトが、ぼそりと、割り込んだ。
「おい、ケン。おかわりは、まだか」
「あ、リヒトくん」
「約束しただろう。死んだら、許さないって。帰ってきたんだから、お茶を、よこせ」
「はいはい」
僕は、水筒から、お茶を注いで、リヒトに渡した。
リヒトは、ひとくち飲んで、ふん、と、鼻を鳴らした。
「……悪くない」
「ありがとう」
「別に、褒めてない」
「うん」
僕が、にこっと笑うと、リヒトは、そっぽを向いて、杯を、あおった。
ミレイが、くすくす笑っている。
そのとき、頭の中に、ふわりと、声が、響いた。
『ケン、ケン!』
「……ギン?」
『おてがみ、もってきたよ!』
空の向こうから、銀色の、小さな影が、ぴょんぴょんと、空気を蹴って、走ってきた。
ギンは、僕の肩に、すとんと、着地して、首の袋を、ぐいっと、突き出した。
袋の中から、折り畳んだ、手紙が、二通。
一通は、母さんの字。もう一通は、見慣れない、でも、どこか見覚えのある、細くて綺麗な字。
まず、母さんの手紙を、開いた。
『ケンへ
手紙、ありがとう。リナが、「お兄ちゃんのマフラー、残りが、できたよ!」って、大騒ぎしています。もうすぐ、届けるわね。
ごはんは、ちゃんと、食べてますか? 海は、寒くないかしら。
ところで、ミドリ村では、ちょっと、変わったことが、起きています。ガルヴィンさんの庭の、月見草が、もう、芽を出しました。ヴォルフさんも、セレナさんも、毎日、水をやりに行っています。
ルカくんは、すっかり元気で、ミドリ村の子どもたちと、走り回っています。
ケン。無茶は、しないでね。でも、あなたが、誰かのために、頑張っているなら、お母さんは、応援します。
母より』
「……母さん」
目頭が、熱くなった。
もう一通を、開く。
細くて、綺麗な、でも、どこか震える字。
『ケン殿へ
学院長の、マルグリットです。
泡さんから、昨夜、念話で、知らせが、届きました。潮泡草を、お受け取りになった、とのこと。おめでとうございます。
ですが、お伝えしなければならないことが、あります。
王宮の、薬師院に、不穏な動きが、あります。「黒潮商会」の、本店を、動かしている者たちが、国王陛下に、「ケン殿を、危険人物として、拘束すべき」と、進言しているようです。
セドリック殿が、必死に、抗弁していますが、予断を、許しません。
どうか、戻られる際は、十分に、お気をつけを。
そして、もうひとつ。
南の、砂漠の、遺跡の、地下から、何者かが、「砂星草」を、掘り起こそうとしている、という、情報も、入っています。
あなたの、旅は、まだ、続きます。
どうか、ご無事で。
――マルグリット・ソーン』
僕は、手紙を、ゆっくりと、畳んだ。
胸の奥が、ずん、と、重くなる。
けれど、隣に座る、ミレイの顔を、見て、リヒトの顔を、見て、そして、遠くで笑っている、ナギや、ルルちゃんの顔を、見て。
僕は、深く、息を、吸った。
(大丈夫。僕は、ひとりじゃない)
胸元の、青い石と、氷の結晶が、ほのかに、あたたかかった。
泡さんが、僕の肩で、ふるふると、揺れる。
『ケン。つぎは、すなの、たびだね』
「うん。そうみたい」
僕は、空を、見上げた。
高く、澄んだ、青い空。
遠い南の方角に、一筋の、白い雲が、細長く、のびていた。
のんびり、暮らしたい。その気持ちは、少しも、変わらない。
でも、今は、それ以上に、この仲間たちと、一緒に、進みたかった。
ひとつ、またひとつ。草を、集めながら。
誰かの、悲しみを、お茶で、そっと、ほどきながら。
僕の旅は、まだ、続く。
ゼノさんは、これから、どうなってほしいですか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。
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――第51話へ続く――




