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第49話 黒い船の茶室と、四つ目の椅子

黒い糸の橋は、思ったよりも、しっかりしていた。

足を乗せるたびに、ぎし、ぎし、と鳴る。けれど、不思議と、落ちる気はしなかった。胸元の青い石が、ぽかぽかとあたたかい。

背後から、ルルちゃんの歌が、まだ、聞こえていた。

(大丈夫。僕は、ひとりじゃない)

黒い船の甲板に、ひょいと降り立つ。

そこには、誰もいなかった。

見張りも、黄色い目の男たちも、いない。ただ、がらんとした、冷たい板の床が、広がっているだけだ。

帆は、風もないのに、ぱたぱたと、揺れていた。

「……入れ、ということかな」

甲板の奥に、船室の扉が、ひとつ、ぽっかりと、開いていた。

僕は、水筒を握りしめて、その扉をくぐった。

* * *

扉の向こうは、意外な部屋だった。

大きな、丸い船室。壁には、古い本棚が、ぐるりと並んでいる。床には、擦り切れた、深い緑の絨毯。天井からは、小さなランプが、いくつも、ぶら下がっていた。

そして、部屋の真ん中に、丸いテーブルがあった。

テーブルの上には、四つの、白い陶器の杯と、古びた、青い絵付けの、ティーポット。

椅子も、四脚。

けれど、座っているのは、ひとりだけだった。

「来たか、月光の薬師」

ゼノさんが、ゆっくりと、顔を上げた。

さっきの、威圧感は、どこにもなかった。ただ、疲れた老人が、ひとり、背中を丸めて、座っている。

「……ここは」

「俺の、茶室だ」

ゼノさんは、ぼそりと、言った。

「と言っても、茶なんて、淹れたことは、ないがな。いつも、湯を沸かして、眺めているだけだ」

「眺めて……?」

「ああ。四人で、飲んだ、茶の、味を、思い出しながら」

僕は、はっと、テーブルを見た。

四つの、杯。

「まさか」

「そうだ」

ゼノさんは、杯のひとつを、指で、なぞった。

「エレナ。ヴォルフ。ガルヴィン。そして、俺。……薬師院の、庭で、毎週、集まっていた」

その声は、静かで、ひどく、遠かった。

「あの頃は、楽しかった。誰も、病を、知らなかった。世界は、俺たちの、ものだと、思っていた」

僕は、少し、迷ってから、空いている椅子のひとつに、そっと、腰かけた。

「座っても、いいですか」

「……もう、座っている」

「すみません」

ゼノさんは、くっくっと、低く、笑った。

「面白い、少年だな。敵の船に、乗り込んで、堂々と、茶席に、つくとは」

「敵、じゃ、ありません」

「…………」

「僕は、まだ、あなたの、お話を、聞いていません」

僕は、水筒の蓋を、開けた。

ふわり、と、甘い香りが、船室に、広がる。

「お茶を、淹れても、いいですか」

「……毒では、ないだろうな」

「僕が、先に、飲みます」

僕は、杯に、お茶を、注いで、こくりと、ひとくち、飲んだ。

それから、もうひとつの、杯に、同じお茶を、注いで、ゼノさんの前に、そっと、押し出した。

ゼノさんは、しばらく、杯を、見つめていた。

黒い指先が、ほんのわずかに、震えている。

「……何十年ぶりだろうな。誰かに、茶を、淹れてもらうのは」

ぼそりと、つぶやいて、ゼノさんは、杯を、手に取った。

ひとくち、飲む。

そして、動きが、止まった。

「…………これは」

「どうですか」

「……エレナの、茶の、味だ」

ゼノさんの目が、大きく、見開かれた。

「いや、違う。エレナは、もっと、花の香りが、強かった。だが、この、あたたかさは」

「僕の、お茶には、月光草が、入っています。エレナさんの、家系の、草です」

「……そうか」

ゼノさんの目から、すっと、一筋、涙が、伝った。

「懐かしい、味だ」

* * *

しばらく、ふたりとも、何も、話さなかった。

窓の外で、波の音が、ざあ、ざあ、と、響いている。

やがて、ゼノさんが、口を開いた。

「少年。ひとつ、聞いてもいいか」

「はい」

「ヴォルフは、まだ、生きているか」

「はい。ミドリ村で、薬屋を、手伝っています」

「ガルヴィンは」

「同じ村で、庭を、作っています。エレナさんの、月見草の」

ゼノさんの、肩が、ぴくりと、揺れた。

「……そうか。あいつらは、二人とも、生き延びたのか」

「はい。エレナさんの、手紙のおかげで」

「手紙?」

「エレナさんは、亡くなる前に、手紙を、残していました。ヴォルフさんと、ガルヴィンさんに、『もう一度、友達になってください』って」

ゼノさんの、手が、ぎゅっと、杯を、握りしめた。

「……あの子らしい」

声が、掠れていた。

「あの子は、いつも、そうだった。誰かが、道を、踏み外すたびに、一番に、手を差し伸べた」

「ゼノさんにも、ですか」

「俺には、特に、だ」

ゼノさんは、自嘲するように、笑った。

「俺が、薬師院を、追放されたとき、エレナは、庭の、門の前で、待っていた。『ゼノ、行かないで』と、言ってくれた」

「…………」

「だが、俺は、振り返らなかった。あの子の手を、振り払って、海へ、向かった」

「どうして」

「プライドだ」

ゼノさんは、杯を、そっと、テーブルに置いた。

「俺は、薬師院で、いちばんの、秀才だった。『海の民の歌が、病を癒やす』という、俺の説を、誰も、信じなかった。あいつらは、俺を、狂人扱いした。だから、証明してやろうと、思った」

「…………」

「歌を、集めた。網を、使った。体に、触れて、歌を、取り出す方法を、見つけた。その結果が、これだ」

ゼノさんは、懐から、黒い真珠を、いくつも、取り出して、テーブルに並べた。

十、二十、三十。

大小さまざまの、黒い真珠が、ランプの光を、鈍く、反射している。

「これが、海の民の、歌だ。三十年分の」

「…………」

僕は、真珠に、そっと、手をかざした。

(……雑草鑑定。記憶鑑定)

視界が、ふわりと、揺れた。

穏やかな、昼間の海。浜辺で、笑い合う、海の民の、家族。

大人が、子どもに、歌を、教えている。子どもたちが、声を、揃えて、歌う。

その歌が、波に、乗って、遠くまで、響いていく。

それが、突然、黒い網に、さえぎられた。

悲鳴。網の中で、もがく、海の民。

そして、彼らの、口から、小さな、光の粒が、ふわりと、抜け出して、黒い真珠に、吸い込まれていく。

「…………っ」

僕は、思わず、目を、閉じた。

「見たか」

ゼノさんの、声が、静かに、響いた。

「それが、俺が、したことだ」

「……はい」

「恐ろしいか」

「はい」

僕は、正直に、答えた。

「とても、悲しい、気持ちに、なりました」

ゼノさんは、黙って、うなずいた。

「だが、お前は、俺を、憎んで、いないな」

「憎んでは、いません。でも、許すとも、言えません」

僕は、まっすぐ、ゼノさんの目を、見た。

「でも、お茶は、飲んでもらいたい」

ゼノさんの目が、ふっと、柔らかくなった。

「……やはり、エレナの、一族だな」

「僕は、ルナリアの血は、引いてません」

「いや、引いているさ。心の、ほうで」

ゼノさんは、小さく、笑った。

* * *

そのとき、船が、ぐらりと、揺れた。

「……っ!」

僕は、慌てて、テーブルの端を、つかんだ。

窓の外から、不気味な、軋む音が、響く。

「始まったか」

ゼノさんが、苦しそうに、胸を、押さえた。

「ゼノさん!?」

「大丈夫だ。……これは、いつものことだ」

けれど、その顔は、真っ青だった。額には、びっしりと、冷や汗が、浮かんでいる。

「俺の、体の、魔力が、暴走し始めている。星蝕病の、最後の、段階だ」

「早く、お茶を……!」

「無駄だ。三草の茶では、俺の、病は、治らん」

ゼノさんは、首を、振った。

「七つの草が、揃わなければ、完治しない。そして、俺には、もう、時間が、ない」

黒い筋が、ゼノさんの、首筋まで、這い上がってきた。

ぞわぞわと、うごめく糸が、床に、垂れていく。

テーブルの上の、黒い真珠が、いっせいに、ぴきぴきと、震え始めた。

「真珠が……!」

「俺の、魔力が、弱まれば、真珠の、封印も、解ける」

ゼノさんは、荒い息の中で、言った。

「そして、歌が、一斉に、放たれる。……それが、どんな結果を、生むか、俺にも、わからん」

「そんな」

「少年」

ゼノさんの目が、まっすぐ、僕を、見た。

その目は、さっきまでの、冷たい光でも、疲れた老人の目でもなかった。

静かで、決意に、満ちた目だった。

「頼みがある」

「……はい」

「真珠を、すべて、持って、行け」

「えっ」

「第三の約束を、果たすのだ。歌を、海に、返せ。……俺の、手では、もう、できない」

「でも、取引は」

「取引など、とうに、捨てた」

ゼノさんは、苦く、笑った。

「お前の、お茶を、飲んで、思い出した。俺が、本当に、欲しかったのは、病の、治療でも、海の、支配でも、なかった」

「…………」

「あの庭に、もう一度、帰りたかった。それだけだった」

ゼノさんの目から、ぽろぽろと、涙が、こぼれた。

「馬鹿な、老人だ。五十年かけて、取り返しのつかないことを、して、ようやく、気づくとは」

「ゼノさん」

僕は、立ち上がって、ゼノさんの手を、握った。

氷のように、冷たい手だった。

「まだ、遅くありません」

「何を」

「あなたの、お茶、まだ、残ってます」

僕は、水筒を、傾けて、ゼノさんの杯に、お茶を、注ぎ足した。

「飲んでください。僕が、真珠を、運びます。みんなで」

「…………」

「だから、生きて、ください。ヴォルフさんと、ガルヴィンさんに、会いに、行きましょう」

ゼノさんは、しばらく、僕の顔を、見つめていた。

それから、ゆっくりと、杯を、持ち上げて、お茶を、飲み干した。

「……ありがとう」

小さな、かすれた、声だった。

その瞬間。

ゼノさんの体が、ぐらりと、傾いた。

「ゼノさん!」

僕が、慌てて、抱き止めた。

軽い。信じられないほど、軽い。

黒い筋は、少しだけ、薄れていたけれど、体の、芯は、冷え切っていた。

「ぐ……ぅ……」

「しっかり!」

「……行け、少年……早く……」

ゼノさんの声が、途切れた。

意識を、失ったのだ。

そのとき、船全体が、大きく、傾いた。

ごおおおお……!

足もとが、ぐらぐらと、揺れる。窓の外で、黒い渦が、さらに、激しく、渦巻いていた。

テーブルの上の、黒い真珠が、いっせいに、ぱきん、と、ひびが入った。

小さな、光の筋が、真珠の隙間から、漏れ出す。

「歌が……!」

ひとつ、またひとつ、真珠が、割れていく。

そのたびに、澄んだ歌声が、船室に、溢れ出した。

けれど、その歌は、美しくなかった。

苦しくて、悲しくて、怒っているような、歪んだ旋律。

三十年分の、囚われた、歌たち。

ぐらり、ぐらり、と、船が、傾く。

僕は、ゼノさんを、抱えたまま、必死に、踏みとどまった。

「みんな、落ち着いて!」

僕は、叫んだ。

「怖くないよ! 僕が、ここに、いるから!」

でも、歌は、止まらない。

ぐおおお、と、黒い、巨大な何かが、船の底から、ゆっくりと、浮かび上がってくる気配がした。

三十年分の、囚われた歌が、ひとつに、束ねられて、形を、成そうとしている。

僕は、鞄から、お茶の入った、水筒を、取り出した。

(どうすれば、いい……)

胸元の、青い石と、氷の結晶が、強く、輝いた。

『ケン!』

頭の中に、ミレイの声が、響いた。

『聞こえてる? ケン!』

「ミレイ!?」

『ギンが、念話を、つないでくれたの! そっちの、様子は、泡さんが、全部、伝えてくれてる!』

「ミレイ、船が、壊れそうなんだ。真珠の、歌が」

『わかってる! いい、ケン、よく、聞いて!』

ミレイの声は、必死で、そして、力強かった。

『ルルちゃんの、歌と、お茶を、合わせるの! 海の歌には、海の歌で!』

「ルルちゃんの、歌……」

『ルルちゃんが、いま、船のすぐ横まで、来てる! 泡さんの、泡に乗って!』

窓の外を、見ると、泡のしゃぼん玉が、黒い船の、舷側に、ふわふわと、近づいていた。

その中に、小さな、人魚の女の子の姿。

ルルちゃんが、窓越しに、僕を、見つめて、にっこりと、笑った。

そして、歌い始めた。

澄んだ、やさしい、母親の、子守唄のような、旋律。

その歌が、船全体に、響きわたる。

割れた真珠から、あふれ出した、歪んだ歌が、少しずつ、ルルちゃんの歌に、重なっていく。

苦しげだった旋律が、少しずつ、穏やかに、なっていく。

「……そうか」

僕は、はっとした。

「お茶と、歌を、合わせるんだ」

僕は、水筒の蓋を、開けた。

月光草と、星影草と、氷涙草の、花びらを、そっと、ひとつかみ、取り出す。

それを、割れた真珠の上に、ふわりと、降らせた。

そして、ルルちゃんの歌に、合わせて、お茶を、真珠たちに、そっと、注いだ。

じゅわ、と、柔らかな、金色の光が、あふれた。

歪んだ歌が、少しずつ、澄んで、いく。

苦しみが、ほどけ、悲しみが、とけて、ただの、海の、歌に、戻っていく。

三十年分の、歌たちが、ゆっくりと、ひとつの、大きな、やさしい合唱に、なっていった。

船室全体が、淡い青色に、輝いた。

黒い、巨大な何かの、気配が、すうっと、消えていく。

僕は、ほっと、息をついた。

けれど、そのとき、窓の外に、新しい、光景が、見えた。

湾の、入り口の、黒い渦の、中心から。

ゆっくりと、ゆっくりと、一本の、巨大な、青い、光の柱が、立ち上がっていた。

それは、岬の、灯台の、光とは、違う。

海の底から、湧きあがる、深くて、美しい、青い光。

そして、その光の、柱の先に、小さな、泡のような、花が、ひとつ、ふわりと、咲いていた。

潮泡草。

けれど、その花の周りを、ゆっくりと、ひとつの、巨大な、影が、取り囲んでいた。

長い、白い、体。

宝石のような、青い瞳。

「……海の、民の、長老」

カイラさんの、声が、どこかから、聞こえた気がした。

僕は、ゼノさんを、そっと、床に、寝かせて、立ち上がった。

第三の約束が、あと少しで、果たされる。

けれど、ゼノさんの命は、風前の灯。

僕は、振り返った。

ゼノさんの、青白い顔。かすかに、動く、胸。

(まだ、間に合う)

僕は、拳を、握りしめた。

ゼノさんが、生きて、帰れるかどうか。それを、決めるのは、きっと、あの長老の、答えだ。

ゼノさんの罪は、許されるべきでしょうか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。

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――第50話へ続く――

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