第48話 三つ目の約束と、黒真珠の歌
黒い糸が、夜空を覆って、押し寄せてきた。
「みんな、伏せて!」
僕が叫ぶのと同時に、船倉の入り口から、リヒトが、甲板に飛び出してきた。
「ケン、下がれ!」
リヒトの手には、船員の置いていった、古い銛が握られていた。それを、迫ってくる黒い糸に向かって、ぶんと振る。
糸は、銛の先に、絡みついた。
「くっ、重い……!」
「リヒトくん!」
「いいから、おまえは、ルルを守れ!」
そう叫びながらも、リヒトの腕は、ぶるぶると震えている。糸は、銛を伝って、リヒトの腕まで、這い上がってきた。
「させません!」
横から、鋭い声が、飛んできた。
カイラさんが、腰の短剣を抜いて、リヒトの腕に絡みついた糸を、ばさりと断ち切った。
「ありがとう、ございます……」
「礼は、あとで。この糸は、会長の魔力の、塊です。切っても、すぐに、再生します」
「じゃあ、どうすれば」
「灯台の光が、頼りです」
カイラさんは、岬の方を、指さした。
白い光の柱が、夜の闇を、まっすぐに、貫いている。その光に触れた糸は、じゅっと音を立てて、消えていた。
けれど、湾じゅうに広がる糸の、ほんの一部しか、消せていない。
「光が、届く範囲は、限られています。船と船の間は、守れても、舟の上までは」
「村の、人たちが……!」
湾の、はるか向こうで、提灯をつけた漁師たちの舟が、黒い糸に、囲まれていた。
「うわあっ!」
「網が、絡まる!」
悲鳴が、風に乗って、聞こえてくる。
僕は、拳を握った。
「どうすれば、みんなを、守れる」
そのとき、泡さんが、ふるふると震えながら、僕の肩で、声をあげた。
『ケン。ひとつ、おもいついた』
「なに?」
『ぼくの、あわ。みんなのふねに、くばる』
「泡を?」
『うん。ぼくの、あわは、うみの、たみの、ちからが、はいってる。くろい、いとを、はじくことが、できる』
「そんなこと、できるの?」
『ふたりだけなら、むり。でも、ルルが、うたえば、ふたり、ぶん』
泡さんの大きな目が、ルルちゃんを、見つめた。
ルルちゃんは、泡の中で、こくん、とうなずいた。
『わたし、うたう。あわさんの、あわに、うたを、のせる』
「……ありがとう、二人とも」
僕は、深く、息を吸った。
「お願い。みんなの舟に、泡を、届けて」
『まかせて!』
泡さんが、ぱあん、と、全身を、はじけさせた。
無数の、小さな泡が、夜空に、舞い上がる。ルルちゃんの歌が、その一つ一つを、淡い青色に、輝かせた。
泡は、風に乗って、湾じゅうに、広がっていった。
そして、漁師たちの、舟の上に、ふわり、ふわり、と、降り立つ。
泡が、舟を包み込むと、黒い糸は、びしゃっと、弾かれた。
「……なんだ、これは」
「泡が、守ってくれてる!」
「海の、歌だ! 海の、歌が、聞こえる!」
漁師たちが、歓声をあげた。
「ありがとう、泡さん、ルルちゃん」
僕は、胸の奥が、じんと、熱くなった。
* * *
けれど、黒い船の、上の人物は、動じなかった。
「ほう。海の民と、泡の番人の、合わせ技か」
低い声が、夜の海に、響いた。
「だが、それは、時間稼ぎに、すぎん」
黒い外套の人物が、すっと、片手を上げた。
その瞬間、湾を渦巻いていた黒い渦が、ぐおおっと、唸りをあげた。
海面が、ぐらぐらと、盛り上がる。
巨大な、黒い波の壁が、僕たちの船に、向かって、押し寄せてきた。
「波が……!」
ダリオさんの叫びが、遠くから、聞こえた。
「ケン殿! どうにか、してください!」
「わ、わかりました!」
僕は、焦って、鞄の中を、探った。
月光草、星影草、澄み草の布。どれも、波を止める役には、立ちそうにない。
そのとき、カイラさんが、僕の袖を、つかんだ。
「ケン殿。これを」
差し出されたのは、あの、黄ばんだ紙。
潮泡草の本の、切り取られた、ページの下半分だ。
「船長室から、持ってきました。……受け取ってください」
「でも、これは、お茶と、引き換えに」
「いいえ」
カイラさんは、首を振った。
「あなたは、約束を、守ってくれました。それに、これは、もともと、あなたたちのものです」
僕は、震える手で、紙を、受け取った。
破れていた、上の半分と、合わせる。
さっき、リヒトが、取り戻した、ページと、ぴたりと、繋がった。
文字が、ぼうっと、淡く光る。
『潮泡草を求める者は、「三つの約束」を、海の民に、示さねばならない。
第一の約束は、「涙を、分かつこと」。
第二の約束は、「記憶を、預けること」。
第三の約束は、「奪われたものを、返すこと」』
「奪われた、ものを、返す……?」
僕は、ごくりと、唾をのんだ。
さらに、下の、小さな文字が、続いている。
『海の民から、奪われた、歌を、取り戻し、海に、帰すこと。
さすれば、潮泡草は、約束の者の手に、ひらく』
「歌を……」
『ケンおにいちゃん』
ルルちゃんの声が、泡の中から、聞こえた。
『わたしのおかあさんの、うたは、くろい、しんじゅに、とじこめられてる』
「えっ」
『かいちょうの、ふねの、そこに、ある。あみで、つかまえた、うみのたみの、うたは、ぜんぶ、くろい、しんじゅに、なって、しまわれてる』
「黒い、真珠……」
僕は、頭の中で、すべてが、つながるのを、感じた。
黒潮商会の会長は、海の民を、網で捕らえて、その歌を、黒い真珠に閉じ込めた。そして、その歌の力を使って、海の道を、操ろうとしている。
潮泡草の、第三の約束は、その、奪われた歌を、海に、帰すこと。
「……みんなの、歌を、取り戻さないと」
僕が、つぶやいた、そのとき。
黒い波の壁が、船の、真上に、迫っていた。
「くるぞ!」
リヒトが、僕を、突き飛ばした。
ごおおおおっ!
波が、船に、叩きつけられた。
船体が、きしみ、大きく傾く。
僕は、必死に、手すりに、しがみついた。
水しぶきが、顔に、降りかかる。海水の、冷たさが、骨まで、しみる。
けれど、波は、船を、飲み込まなかった。
ぎりぎりのところで、白い光の柱が、波の壁を、真っ二つに、切り裂いたのだ。
「灯台の、光だ……!」
ミレイの声が、岸辺から、響いた。
波は、左右に割れて、海に、戻っていく。
黒い船の、甲板から、感嘆のような、笑いが、聞こえた。
「はは。見事だ、見事。……だが、まだ、足りない」
黒い外套の人物が、ゆっくりと、フードに、手をかけた。
はらり、と、フードが、落ちる。
月明かりの下に、現れたのは、五十代くらいの、がっしりとした、男の人の顔だった。
白髪まじりの黒髪。日に焼けた、深い皺。そして、左の頬に、大きな、古い、火傷の痕。
僕は、思わず、息をのんだ。
その顔に、見覚えがあった。
ヴォルフさんの、研究ノートの、挿絵。
ガルヴィンさんが、昔、語っていた、「悪友」の、特徴。
「……ゼノ・ヴァルガ」
カイラさんが、かすれた声で、つぶやいた。
「会長の、名前です。そして」
カイラさんは、唇を、震わせた。
「ヴォルフ・グレイと、ガルヴィン・ノーランの、薬師院時代の、同期だった人」
「えっ……!」
三人目の友人。
エレナさんと、ヴォルフさんと、ガルヴィンさん。三人で、あの庭で、語り合っていた、というなら。
その、庭には、もうひとり、いたのだ。
「ゼノは、薬師院を、追放されたと、聞いていました」
カイラさんが、続けた。
「海の民を、実験に使おうとして。その、禁断の研究の、せいで」
「……そうだ」
船の上のゼノさんが、静かに、答えた。
「俺は、海の民の歌が、あらゆる病を、癒やす力を、持っていることを、突き止めた。それを、人間のために、使おうとした。それの、どこが、悪い」
「歌を、奪って、閉じ込めることの、どこが、悪くないんですか!」
僕は、思わず、叫んだ。
「歌は、閉じ込めるものじゃない。海の民の、気持ちを、運ぶものでしょう!」
「ほう」
ゼノさんの目が、すっと、細くなった。
「ならば、問おう。月光の薬師」
ゼノさんは、懐から、小さな、黒い真珠を、取り出した。
親指の先ほどの、艶やかな、黒い珠。
その真珠が、ぽう、と、淡く、光った。
そして、聞こえてきた。
優しい、澄んだ、女の人の歌声。
「…………!」
『おかあさんの、うた』
ルルちゃんの声が、震えた。
『おかあさん……』
ゼノさんは、真珠を、指先で、転がした。
「この歌を、返してほしいか?」
「……はい」
僕は、はっきり、答えた。
「ならば、取引だ」
ゼノさんは、にやりと、笑った。
「四つの草を、すべて、私に、渡せ。そうすれば、この、真珠を、返してやる。それどころか、他の、すべての、歌も」
「…………」
「どうだ? 海の民の、歌が、すべて、返される。ルルの母親の、歌も、な」
「ケン! 聞くな!」
リヒトが、叫んだ。
「そんな取引、信用できるか!」
「うるさい、小僧」
ゼノさんの目が、ちらりと、リヒトを、見た。
「アルディスの、孫か。おまえの、曾祖父は、俺の、昔の、仲間だった。……そして、この、ページを、切り取った、張本人でも、ある」
「な……」
リヒトの顔が、真っ青に、なった。
「その、ページを、五十年、隠し続けた。罪悪感に、耐えきれずに、な」
ゼノさんは、静かに、続けた。
「だが、罪悪感を、いくら、抱えても、歌は、戻らない。だから、俺は、自分の手で、取り戻すことに、したのだ」
「自分の、手で……?」
「そうだ。四つの草を、使えば、俺の、体の、病を、治すことが、できる。それと、同時に」
ゼノさんは、真珠を、僕の方に、突き出した。
「すべての歌を、『ひとつ』に、束ねることが、できる。それは、海そのものを、癒やす、力になる」
「……病?」
僕は、ゼノさんの、顔を、じっと、見た。
そして、心の中で、唱えた。
(……雑草鑑定。状態鑑定)
【名称:ゼノ・ヴァルガ】
【状態:星蝕病。末期】
【備考:ガルヴィンと同じ病を、抱えている。薬師院時代、共に、発症した】
「…………!」
僕は、凍りついた。
ガルヴィンさんと、同じ病。
ゼノさんも、星蝕病に、侵されていた。
「あなたは、ずっと……ガルヴィンさんと、同じ病を」
「ああ」
ゼノさんは、淡々と、うなずいた。
「俺とガルヴィンは、同じ病を、抱えて、同じ道を、探した。ただ、道が、分かれただけだ」
「…………」
「あいつは、エレナを、頼った。俺は、海を、頼った。結果が、これだ」
ゼノさんの声が、わずかに、震えた。
「俺が、歌を、集めたのは、確かに、悪いことだった。だが、病の、苦しみは、おまえには、わかるまい」
僕は、黙った。
前世で、僕は、病気ではなかった。けれど、苦しみの中で、誰にも、気づかれず、倒れた、あの夜を、思い出した。
(……この人も、ひとりで、苦しんでたんだ)
けれど、同時に、ルルちゃんの、泣き顔が、浮かんだ。
ナギの、必死な、声。
トムじいさんの、「何十年ぶりだ」という、つぶやき。
どれも、ゼノさんの、行いのせいで、生まれた、悲しみだ。
「……ゼノさん」
僕は、静かに、口を開いた。
「僕は、お茶を、淹れる人です」
「…………」
「あなたにも、お茶を、淹れたいです。でも、取引には、応じません」
「ほう」
「歌は、取引で、返してもらうものじゃない。……僕が、自分の力で、取り戻します」
僕は、ミレイの、ノートを、胸に、抱きしめた。
それから、仲間たちの、顔を、順番に、見た。
リヒト。カイラさん。泡さん。ルルちゃん。そして、岸辺の、ミレイとダリオさん。
「だから、ゼノさん。僕と、勝負してください」
「勝負?」
「僕が、あなたの船に、乗り込みます。ひとりで。そして、真珠を、取り戻します」
「ケン!」
リヒトが、叫んだ。
「馬鹿か、おまえは!」
「大丈夫」
僕は、にこっと、笑ってみせた。
「僕は、ひとりじゃ、ないから」
ゼノさんは、しばらく、黙って、僕を見下ろしていた。
やがて、くつくつと、低く、笑い出した。
「面白い。……いいだろう、少年」
黒い船から、一本の、太い、黒い糸が、橋のように、伸びてきた。
僕の、船の、手すりに、ぴたりと、結ばれる。
「渡ってこい。ただし、仲間は、連れてくるな。ひとりで、だ」
「はい」
僕は、鞄から、お茶の入った水筒を、取り出した。
ミレイのノートを、鞄の奥に、しまう。
「……ケン」
リヒトが、僕の腕を、つかんだ。
「死んだら、許さないぞ」
「うん」
「絶対に、帰ってこい。……お茶の、おかわりが、まだ、だ」
「うん。約束」
僕は、リヒトの手を、そっと、外して、小指を、絡めた。
リヒトは、一瞬、目を丸くして、それから、真っ赤になって、そっぽを向いた。
「……ミレイのと、同じやつか」
「うん。僕の、約束の、儀式」
「ばか」
でも、小指は、離れなかった。
僕は、黒い糸の橋に、足をかけた。
ゆらり。糸が、軽く、揺れる。
下を見ると、真っ暗な、海が、口を開けている。
けれど、不思議と、足は、震えなかった。
首元の、青い石と、氷の結晶が、ほのかに、あたたかい。
夜風が、頬を、撫でた。
ルルちゃんの歌が、背中を、そっと、押してくれているようだった。
僕は、一歩、また一歩、黒い船へ、向かって、歩き出した。
ゼノさんは、本当に、悪い人でしょうか? ご感想を、教えてもらえるとうれしいです。
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――第49話へ続く――




