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第47話 黒い糸をほどく夜と、船乗りたちのお茶

「ルルちゃん、少しだけ、じっとしててね」

僕は、水槽のふたに手をかけた。

ぎい、と重たい音を立てて、ふたが開く。冷たい水の匂いと、黒い油の匂いが、同時に鼻をついた。

「ケン、気をつけろ」

リヒトが、小声で言った。

「うん。ミレイの布、使ってみる」

鞄から、澄み草の汁を染みこませた布を取り出す。これまで、黒月花の毒も、井戸の毒も、吸い取ってくれた布だ。

水の中に浮かぶルルちゃんの口もとに、そっと布を近づけた。

黒い糸が、ざわり、と、うごめく。

まるで、生き物みたいに、布から逃げようとした。

『こわい……』

ルルちゃんの声が、頭の中で震えた。

『大丈夫。痛くしないよ』

僕は、心の中で答えながら、布の端を、糸の結び目に、そっと当てた。

じゅわ、と、小さな音がした。

黒い糸が、煙のように、ほどけていく。

一本、また一本。ぐるぐると巻きついていた糸が、布に吸い込まれて、布の色が、青から黒へ変わっていった。

最後の一本が、ほどけた、その瞬間。

「……けほっ、けほっ」

ルルちゃんが、水の中で、小さく咳をした。それから、ゆっくりと、口を開いた。

「……あ……」

かすれた、小さな声が、水槽に響いた。

「ありがとう……ケンおにいちゃん」

声が、出た。

ルルちゃんの頬の鱗が、ぽう、と淡く光った。

「よかった……!」

僕が笑うと、ルルちゃんの目から、また、銀色の涙がこぼれた。

「泣いてる場合じゃないぞ」

リヒトが、窓の外を、鋭く見た。

「黒い船が、近づいてる。急げ」

* * *

「泡さん、お願い」

『まかせて!』

泡さんが、ぷくぷくと、大きな泡を膨らませた。その泡が、水槽の中のルルちゃんを、ふわりと包み込む。

水の入った、大きなしゃぼん玉。その中で、ルルちゃんが、ぱちぱちとまばたきしていた。

「わあ……ふわふわ」

「ルルちゃん、これで、外に出られるよ」

泡のしゃぼん玉が、水槽から、すうっと浮き上がる。僕は、ルルちゃんの泡を、そっと、胸の高さに、浮かべて、船倉を出た。

廊下で、カイラさんが、待っていた。

「……声が、出たのですね」

カイラさんは、ルルちゃんを見て、はっと、息をのんだ。

その目が、うるうると潤んだ。

「ルルちゃん。……私を、覚えていますか」

ルルちゃんは、きょとんと、カイラさんを見つめた。

「……おかあさんの、うたを、きいた、ひと?」

「…………!」

「おかあさんが、いってた。『あのこ、げんきかな』って。たまに、なみうちぎわで、まってたって」

カイラさんの、頬に、ぽろりと、涙が伝った。

「……お母さん、は」

「しんじゃった。ふたとしまえ。くろいふねに、あみで、つかまえられて」

カイラさんの、顔が、凍りついた。

「……ルルの、お母さんも、会長に」

僕は、胸が、ぎゅっと、締めつけられた。

カイラさんが、助けられた、あの海の民の女性。彼女は、助けた、その後に、同じ網に、かかっていたのだ。

「……私が、知らなかった」

カイラさんは、両手で、顔を覆った。

「私は、恩人を、殺した男に、仕えていたのか」

「カイラさん」

僕は、静かに、声をかけた。

「いまは、悲しむ、前に、やることが、あります。船の、みなさんに、お茶を、淹れましょう」

カイラさんは、涙を、ごしごしと、拭って、顔を上げた。

「……はい」

その目は、さっきまでの、冷たい光ではなかった。まっすぐで、強い光だった。

* * *

船の、厨房は、広くて、古かった。

大きな鍋が、いくつも、壁に、ぶら下がっている。

僕は、鞄から、小さな瓶を、取り出した。

三草の茶の、最後の一本だ。

王様と、ヴォルフさんと、ガルヴィンさんに使って、残ったのは、ほんの少し。濃縮した雫が、瓶の底に、きらりと、光っている。

「これだけで、足りるのか?」

リヒトが、心配そうに、のぞき込む。

「大丈夫。朝露の一滴は、鍋ひとつ分の、解毒薬に、なるから」

僕は、大鍋に、水を張って、湯を沸かした。それから、鞄の中の、月光草と、星影草、氷涙草の花びらを、そっと、取り出す。

「氷涙草を、使うのか?」

「うん。黒い油は、『凍りついた悲しみ』に、似てると思うんだ。氷涙草なら、溶かせるかもしれない」

花びらを、一枚、鍋に浮かべる。

湯気が、青白く、きらめいた。

そこへ、三草の茶の濃縮液を、ぽとり、と、一滴。

じゅわ、と、鍋全体が、金と青に、渦を巻いた。

「いい匂い……」

カイラさんが、うっとり、と、つぶやいた。

「甘い、花のような、そして、海のような」

「それは、氷涙草の、香りです。涙の、味が、すると、思います」

僕は、大きなひしゃくで、お茶を、すくった。

「カイラさん。船の、みなさんを、集められますか」

「……やってみます」

カイラさんは、深く、息を吸って、船の、大きな鐘を、鳴らした。

からん、からん、からん。

しばらくして、船員たちが、ぞろぞろと、厨房の前に、集まってきた。

みな、疲れた顔をしている。頬がこけて、目の下に、深い影。袖口から、黒い血管が、手の甲まで、這い上がっている人もいた。

「船長、どうしたんです」

白髪の、日に焼けた、年老いた船員が、不安そうに、聞いた。

「トムじいさん」

カイラさんは、一歩、前に出た。

「みんなに、飲んでほしいものが、あるの。これは、会長の薬じゃない。毒でもない。……私が、信じた人が、淹れてくれた、お茶だ」

船員たちが、ざわざわと、顔を見合わせた。

「船長が、言うなら」

「でも、会長の命令が」

「会長の、薬を、飲まないと、体が」

不安そうな声が、あちこちから、聞こえる。

そのとき、甲板への階段から、重たい足音が、聞こえた。

「何を、している」

低い、無機質な声。

階段の上に、三人の男が、立っていた。みな、目が、黄色く、光っている。全身に、黒い筋が、びっしりと、走っていた。

「会長の、命令だ。船員は、薬を、飲む時間だ」

「……黄色い目の人たち」

リヒトが、息をのんだ。

男たちは、ゆっくりと、階段を降りてきた。

「船長。勝手な、真似は、許されない」

「……私は、船長です」

カイラさんが、ぐっと、拳を握った。

「この船の、乗組員は、私の、責任です。会長でも、勝手に、命令する権利は、ない」

「会長の、命令は、絶対だ」

黄色い目の男が、手を伸ばした。その指先から、黒い糸が、にゅるにゅると、伸びてくる。

「カイラさん!」

僕は、とっさに、ひしゃくを持った手を、前に出した。

金と青の、お茶が、ぽとり、と、黒い糸に、かかる。

じゅっ。

黒い糸が、煙のように、消えた。

「……!」

男の目が、ほんの少し、揺れた。

「な、何だ、今のは」

「……お茶です」

僕は、一歩、前に出た。

「あなたも、苦しいんでしょう? 体が、重くて、息が、しづらくて」

「…………」

「このお茶は、その苦しさを、少しだけ、軽くします。飲んでみませんか」

男は、しばらく、黙っていた。

黄色い目の奥で、何かが、ちらちらと、揺れている。

やがて、ぼそり、と、つぶやいた。

「……息が、できない。毎晩」

「うん」

「俺は、元は、漁師だった。いつから、こんな……」

男の手が、震えながら、杯に、伸びた。

僕は、お茶を、そっと、注いだ。

男は、ゆっくりと、口に運んだ。

こくり。

こくり。

一杯を、飲み干した瞬間。

男の体から、ふわっと、黒い霧が、立ちのぼった。

黄色く光っていた目が、すうっと、茶色に、戻っていく。全身の黒い筋が、薄れて、消えた。

「……あ、あ」

男は、自分の手を、まじまじと見つめた。

それから、がくり、と、膝をついた。

「息が……できる……!」

男の目から、ぼろぼろと、涙が、こぼれた。

「俺は、バルド。バルドだ。……思い出した。娘が、いたんだ。ナギと、同じ、くらいの」

「バルドさん……!」

その様子を見ていた、残りの二人も、おずおずと、杯に手を伸ばした。

船員たちが、次々と、お茶を、受け取っていく。

トムじいさんが、杯を、両手で、包み込んだ。

「船長……これ、あったけえなあ」

「うん」

「ずっと、寒かったんだ。陸に、いても、海に、いても。体の、奥が、ずっと」

トムじいさんは、ふう、と、息をついた。

「何十年ぶりだ。こんなに、ぬくもったのは」

厨房に、あたたかい空気が、満ちていく。

黒い霧が、船員たちの体から、次々と、立ちのぼって、窓から、海へ、すうっと、吸い込まれていった。

カイラさんも、杯を、受け取った。

ひとくち、飲んで、目を、閉じた。

「……ああ」

小さな声が、漏れた。

「温かい。……海の、歌みたい」

カイラさんの頬を、一筋の涙が、伝った。

* * *

そのとき。

遠くで、鋭い笛の音が、響いた。

ぴぃぃぃぃ!

「ミレイの、合図だ!」

僕は、窓に、駆け寄った。

湾の、入り口の岸辺。夕闇のなか、小さな明かりが、ぽつぽつと、灯っていた。

一つ、二つ、三つ。

やがて、数十の、小さな、舟が、湾に、漕ぎ出してきた。

舟には、それぞれ、提灯が、吊るされている。

「あれは……」

「村の、漁師さんたちだ!」

リヒトが、目を見開いた。

先頭の舟には、白髪の老人、村長が、立っていた。その隣には、ナギと、ミレイ、ダリオさんの姿も、見える。

村長が、大声で、叫んだ。

「子どもだけに、戦わせるわけには、いかんだろう! うちの海を、取り戻すのは、わしらの仕事だ!」

漁師たちが、おおっ、と、声をあげた。

湾が、無数の、提灯で、橙色に、染まっていく。

「みんな……!」

僕の胸が、じんと、熱くなった。

『ケンおにいちゃん』

ルルちゃんの、泡の中から、小さな声が、聞こえた。

『わたし、うたいたい』

「うん」

『とうだいを、つけたい。みんなが、かえってこれるように』

「……歌える?」

『うん。もう、いたくない』

ルルちゃんの頬の鱗が、きらきらと、輝いている。

僕は、ルルちゃんの泡を、甲板まで、運んだ。

夜の海が、広がっている。

遠くの岬には、暗い灯台。そして、湾の入り口には、黒い渦と、巨大な黒い船。

その船の、甲板で、黒い外套の人物が、じっと、こちらを見下ろしていた。

ルルちゃんは、泡の中で、ゆっくりと、目を閉じた。

大きく、息を吸って。

そして、歌い始めた。

澄んだ、海のような、声だった。

水の底から、湧きあがるような、やさしい旋律。

その歌が、夜の湾に、響きわたる。

海面が、ぽうっと、青く、光りはじめた。

波が、きらきらと、きらめいて、光の道になって、岬の灯台へと、伸びていく。

そして。

岬の灯台の、いちばん上の窓に、ぽつり、と、白い光が、灯った。

光は、だんだん、強くなって、やがて、闇を切り裂く、大きな、白い光の柱に、なった。

「灯台が……!」

ナギが、舟の上で、叫んだ。

「ついた! ついたよ、ルル!」

漁師たちが、わあっと、歓声をあげた。

黒い渦が、ぐらり、と、揺らいだ。

巨大な黒い船が、ぎしぎしと、きしむ。

そのとき、甲板の、黒い外套の人物が、ゆっくりと、手を、叩いた。

ぱち、ぱち、ぱち。

乾いた、拍手の音が、夜の海に、響いた。

「……見事だ」

低い、深い、男の声だった。

「実に、見事だ。まさか、あの、鎖を、解いて、しまうとは」

声は、不思議と、海の上を、まっすぐ、僕たちに、届いていた。

「月光の薬師。君が、噂の、少年か」

黒い外套の人物は、ゆっくりと、こちらを、指さした。

「君の胸元に、ある、青い花びら。それは、氷涙草だな」

僕は、びくり、と、した。

「そして、君の、鞄の中には、月光草。星影草。朝露草の、気配も、ある」

男の声が、愉快そうに、弾んだ。

「四つも、持っているのか。……私が、五十年、探し続けても、手に、入らなかった、四つの草を、ひとりの子どもが」

黒い外套が、ばさり、と、翻る。

「ようやく、鍵が、揃った」

船の上から、黒い糸が、無数に、伸びてきた。

夜空を覆うように、ぐんぐんと、迫ってくる。

僕は、拳を、ぎゅっと、握りしめた。

首元の、青い石と、氷の結晶が、強く、光った。

ルルちゃんの歌は、まだ、続いていた。

白い灯台の光が、黒い糸を、押し返そうと、揺れている。

夜の海は、静かで、そして、激しく、揺れ動いていた。

ケンのお茶と、ルルの歌、どちらが、会長に、効くと思いますか? 感想で、教えてもらえるとうれしいです。

続きが気になる方は、ブックマークと評価をお願いします。

――第48話へ続く――

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