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第45話 ナギの涙と、黒い油の網

「うみの、おともだちを、たすけて!」

女の子は、割れた桶を抱えたまま、僕たちの前で、ぺたんと座り込んだ。

「大丈夫、落ち着いて。まず、水を飲もう」

僕は、水筒から、ぬるめのお茶を、杯に注いだ。女の子は、鼻をすすりながら、ひとくち飲んで、ふう、と息をついた。

「……あまい」

「よかった。名前、教えてくれる?」

「ナギ。この村の、漁師の、むすめ」

ナギは、手の甲で、ごしごしと、涙をぬぐった。

「ルルが、つかまっちゃったの」

「ルル?」

「うみの、たみの、おんなのこ。わたしの、ともだち」

ナギは、波止場のほうを、振り返った。

「ひきしおの、ひるに、いつも、すなはまで、あそんでたの。ルルの、ほっぺには、きらきらの、うろこがあって、うたを、うたうと、うみが、ひかるの」

「歌うと、海が光る……」

『それ、とうだいの、ひかり』

泡さんが、僕の肩で、ふるふると揺れた。

『うみの、たみの、うたが、とうだいを、ひからせてる。ふねは、そのひかりで、かえってくる』

ナギは、こくこくと、うなずいた。

「そう。でも、さんしゅうかん、まえ、くろい、ふねが、きたの。きいろい、めの、おとこたちが、くろい、あみで、ルルを」

ナギの声が、詰まった。

「あみは、くろい、あぶらで、ぬれてた。ルルが、さわったら、こえが、でなくなって。うたが、うたえなく、なって」

「それで、灯台の、灯が、消えたんだね」

「うん。ルルは、いま、おおきな、ふねの、まんなかの、だいに、いるの。わたし、みた。ちいさな、みずのおりに、いれられて」

ナギは、僕の袖を、ぎゅっとつかんだ。

「おねがい。ルルを、たすけて。おとなは、みんな、こわがって、でてこないの」

* * *

ナギの案内で、僕たちは、村の集会所に向かった。

薄暗い部屋に、日に焼けた顔の、漁師たちが、肩を寄せ合って座っていた。みんな、疲れた顔で、うつむいている。

奥に座っていた、白髪の、がっしりとした老人が、重たい声で口を開いた。

「……何者だ、おまえたちは」

「ラベル薬師学院の、野外調査で来ました。ケン、といいます」

「薬師? 学院?」

老人は、鼻を鳴らした。

「子どもの、遠足なら、帰ってくれ。いま、この村は、それどころじゃない」

「村長さん、ナギちゃんから、聞きました。黒い船のことを」

その名前を出すと、村長の肩が、びくりと、揺れた。

「……あの子は、まだ、小さいから」

「村長さん」

ダリオさんが、一歩、前に出た。

「自分は、王国騎士団の、ダリオと、申します。国王陛下の、命で、参りました。もし、不法な、行為が、あるのなら、報告を」

「騎士団が、動いたところで、どうにもならん」

村長は、苦々しく、吐き捨てた。

「あの船は、『黒潮商会』のものだ。表向きは、正式な、交易の許可を、持っている。騎士団が来たら、あいつらは、『正当な商売だ』と、言い張るだけだ」

「でも、子どもを、捕らえて……」

「証拠が、ない。人魚の子など、誰も、信じやしない」

村長は、拳を、膝の上で、握りしめた。

「それに、あいつらは、言ったんだ。『騒げば、村の船を、すべて、焼く』と」

集会所の空気が、ずしりと、重くなった。

漁師たちは、みんな、うなだれている。船は、彼らの、命そのものだ。

僕は、少し考えてから、静かに言った。

「村長さん。戦いに、来たんじゃ、ないんです」

「……何だと?」

「僕たちは、ルルちゃんを、ひとりで、取り戻しに行きます。誰にも、迷惑は、かけません」

「無茶を、言うな。あの船には、何十人も」

「だから、戦わないんです」

僕は、鞄から、小さな布を、取り出した。

澄み草の布だ。

「黒い油の、網を、解く方法を、持っています。あとは、船に、気づかれずに、入る方法を、考えるだけです」

「…………」

村長は、じっと、僕の顔を見つめた。

やがて、重く、ため息をついた。

「……一晩だけ、待ってやる」

「ありがとうございます」

「ただし、おまえたちが、失敗しても、村は、おまえたちを、庇わん」

「はい。それで、いいです」

僕は、ぺこりと、頭を下げた。

ナギが、ぱあっと、顔を輝かせた。

* * *

その夜、村の、ナギの家の、台所で、作戦会議が、開かれた。

ナギの、お母さんが、焼いた魚と、麦のおかゆを、出してくれた。味は、素朴だったけれど、お腹にしみる、おいしさだった。

「まず、状況を、整理するわよ」

ミレイが、テーブルに、紙を広げた。

「敵の船は、三隻。ルルちゃんが、いるのは、真ん中の、大きな船。見張りは、甲板に、五、六人。船内には、もっと、いるはず」

「真正面から、行けば、すぐ、見つかる」

リヒトが、腕を組んだ。

「だが、俺の、アルディス家の名前が、使えるかもしれない」

「どういうこと?」

「黒潮商会は、うちの、取引先だ。商会の、船長級の人間なら、俺の顔を、見たことがあるかもしれない。『買い付けの、見学に来た、貴族の、坊ちゃん』と名乗れば、船に、乗せてもらえる」

「……自分の家の名前を、使うの?」

「使えるものは、使う」

リヒトは、ふん、と、鼻を鳴らした。

「それに、どうせ、あのページの件で、俺の家は、もう、一枚、嚙んでる。この際、利用して、やる」

「リヒトくん……」

「勘違いするな! ルルを、助けたいわけじゃ、ない! ただ、アルディス家の、汚名を、そそぎたいだけだ!」

そう言いながら、リヒトの耳は、真っ赤だった。

ミレイが、くすっと、笑って、言った。

「じゃあ、金髪くんが、『坊ちゃん』役ね。ケンは、『お付きの、薬師見習い』」

「えっ、僕が?」

「あんたの、お茶が、いちばん、自然に、船に入れる、口実でしょ。『坊ちゃんが、船酔いしやすいので、薬草茶を、持参しました』って」

「なるほど」

「それで、あんたが、黒い油の網に、澄み草を、かける。ルルちゃんを、解放したら、泡さんの、泡で、ふわっと、運び出す」

『まかせて!』

泡さんが、ぷくぷくと、元気よく、答えた。

「私と、ダリオさんは、船の外で、待機する。何か、あったら、笛で、合図よ」

「自分に、お任せください!」

ダリオさんが、胸を、どんと叩いた。

「……作戦は、決まりね」

ミレイが、ふう、と息をついた。

そして、僕を、じっと見つめた。

「ケン。絶対に、無茶しないでよ。危なかったら、すぐ、逃げること」

「うん。約束する」

僕が、小指を、差し出すと、ミレイは、ぷいっと、そっぽを向いた。

それでも、そっと、小指を、絡めてくれた。

「……何回、やらせるのよ」

「今日で、十一回目」

「だから、数えるなって、言ってるでしょ!」

ナギが、不思議そうに、僕たちを、見上げていた。

「おにいさんと、おねえさん、なかよしなんだね」

「な、なかよしじゃ、ないわよ!」

ミレイが、真っ赤になって、叫んだ。

リヒトが、ぼそっと言った。

「……うるさい」

「あんたが、言うな!」

台所に、小さな笑い声が、広がった。

* * *

翌日の夕方。

波止場から、小さな手漕ぎ舟で、僕と、リヒトは、沖へ向かった。

ダリオさんが、艪を、こいでくれている。ミレイとナギは、岸辺から、じっと、見守っていた。

「いいか、ケン。俺が、話す。おまえは、できるだけ、喋るな」

リヒトが、小声で、念を押した。

さっきまでの、ふくれっつらは、どこへやら。背筋を、ぴんと伸ばして、貴族の坊ちゃんらしい、堂々とした、顔つきになっている。

「うん。リヒトくん、すごいね」

「当たり前だ。社交の場の、振る舞いは、子どもの、頃から、叩き込まれてる」

三隻の黒い船が、すぐそこに、迫ってきた。

真ん中の、いちばん大きな船の、舷側から、縄ばしごが、垂れている。

「止まれ! 何者だ!」

甲板から、荒っぽい声が、飛んできた。

「アルディス商会の、リヒトだ。黒潮商会の、船長殿に、会いに来た」

リヒトが、凛とした声で、言い返した。

甲板の男たちが、ざわざわと、顔を見合わせる。

「アルディス……?」

「あの、貴族の?」

「少し、待て」

やがて、縄ばしごが、下ろされた。

「船長が、お会いになる。ただし、護衛は、なしだ」

「構わない。従者の、薬師見習いを、一人、連れていく。それだけだ」

「……いいだろう」

僕は、リヒトの後ろについて、縄ばしごを、登った。

甲板に出ると、潮の香りと、鼻をつく、黒い油の、匂いが、入り混じって、立ちこめていた。

甲板には、屈強な、船員たちが、ずらりと並んでいる。みな、胸に、白い渦巻きの、紋章をつけている。

「こちらへ」

案内されたのは、船尾の、立派な、船長室だった。

重たい扉が、ぎい、と、開く。

部屋の中央に、大きな机があって、その向こうに、ひとりの人物が、座っていた。

黒い外套。短く切りそろえた、銀色の髪。涼しげな、灰色の目。

二十代半ばくらいの、女の人だった。

「ようこそ、アルディス家の、坊ちゃん」

女の人は、にっこりと、微笑んだ。

「私は、カイラ。黒潮商会の、船長を、務めている」

声は、穏やかで、丁寧だった。まるで、旧知の客を、迎えるような口調だ。

「それと」

カイラの灰色の目が、僕に、ゆっくりと、向けられた。

「あなたが、『月光の薬師』、ケン殿ですね」

「…………!」

僕は、息を、のんだ。

リヒトが、さっと、顔色を変えた。

「……なぜ、知っている」

「情報は、商人の、命ですから」

カイラは、机の上で、指を組んだ。

その机の上に、一枚の、黄ばんだ紙が、置かれていた。

さっき、屋根の上で、リヒトが、取り返した、あのページの、下半分だ。

「お探しの、ものは、これでしょう?」

カイラは、紙を、すっと、僕たちの前に、滑らせた。

「もちろん、差し上げますよ。ケン殿、あなたの、お茶と、引き換えに」

「お茶……?」

「ええ。あなたの、淹れた、『三草の茶』を、一杯。それだけで、結構です」

カイラは、優しく、笑った。

けれど、その灰色の目の奥には、ひどく、冷たい光が、宿っていた。

「それと」

カイラは、ゆっくりと、立ち上がった。

「ルルという、人魚の子を、返してほしいなら、ぜひ、私の、本当の目的を、聞いていってください」

部屋の空気が、ぴんと、張りつめた。

窓の外では、夕焼けが、血のように、赤く、海を染めていた。

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――第46話へ続く――

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