第43話 屋根の上の追いかけっこと、半分だけのページ
「追うぞ!」
最初に走り出したのは、リヒトだった。
「えっ、ちょっと、リヒトくん!」
「あのページは、うちの責任だ! おまえたちは来なくていい!」
そう言いながら、リヒトは、噴水のふちを蹴って、学院の壁の出っぱりに飛びついた。思ったより、ずっと身軽だ。
「あ、あの子、屋根に登る気!?」
ミレイが、目を丸くした。
「ミレイ、僕たちも行こう。リヒトくん一人じゃ、危ない」
「わかってるわよ! ケン、荷物、持ってて!」
ミレイは、鞄を僕に押しつけて、制服のスカートの裾を、ぎゅっと結んだ。
「ミレイ、屋根に登れるの?」
「夜中に、学院の塀を乗り越えた女を、なめないでよ!」
ミレイは、にやりと笑って、壁の石組みに、足をかけた。
僕も、泡さんを肩に乗せて、あとに続いた。
* * *
赤い屋根の上に出ると、夕焼けの町が、一面に広がった。
石畳の道。ずらりと並ぶ屋根。遠くには、町を囲む、古い城壁。
その屋根の上を、黒い影が、ひょいひょいと、跳ねるように走っていく。
「いた! あっち!」
ミレイが、指さした。
黒い影は、手に黄ばんだ紙を持ったまま、屋根から屋根へ、軽やかに跳び移っていく。
そのあとを、リヒトが、必死に追いかけていた。
「待て! 泥棒!」
「待つわけ、ないでしょ」
どこかで聞いたような、からかうような声が、風に乗って、返ってきた。
「ケン、あの人、速い! このままじゃ、見失うわ!」
「うん。何か、いい方法は」
僕は、屋根の上を走りながら、あたりを見回した。
そのとき、屋根のすき間に、小さな緑の草が、生えているのが、目に入った。
(……雑草鑑定)
【名称:滑り草】
【効能:踏むと、ぬるぬるした汁が出る。足もとを滑らせる】
「……!」
あの、ガルドを転ばせた、あの草だ。
「ミレイ! 水筒、貸して!」
「えっ、何するの!」
「あの人の、通り道に、水をまく!」
「屋根の上で!?」
「うん!」
ミレイは、一瞬、きょとんとしてから、にやりと笑った。
「……あんた、本当に、悪いこと、思いつくわね」
「褒めてる?」
「褒めてるわよ!」
ミレイが、水筒の蓋を、ぽんと開けて、僕に渡してくれた。
僕は、泥棒の進行方向の、ちょうど一歩先を、狙った。
屋根のすき間に生えた、滑り草の群れ。その上に、ばしゃっと、水を振りまく。
じわり、と、緑のぬめりが、赤い瓦に、広がった。
黒い影が、次の屋根に、着地しようとした、そのとき。
「うおっ!?」
つるん。
足もとが、見事に、すべった。
「くっ……!」
黒い影が、体勢を、崩した。
けれど、さすがに、身軽だった。空中で、くるりと身をひねって、近くの煙突に、手をかけて、転ぶのを、防いだ。
「やるな、小僧……!」
その隙に、リヒトが、追いついた。
「返せ!」
リヒトの手が、泥棒の外套の裾を、がしっと、つかんだ。
「は、離せ!」
「離すか!」
二人が、屋根の上で、もみ合った。
黄ばんだ紙が、ひらり、と、泥棒の懐から、こぼれ落ちた。
「あっ!」
風が、ふわっと、吹いた。
紙は、くるくると、宙を舞って、屋根の下の、細い路地へ、落ちていく。
「ミレイ、泡さん、お願い!」
『まかせて!』
泡さんが、僕の肩から、ぴょんと、跳んだ。
ぷくぷく、と、大きな泡が、膨らむ。その泡が、ふわりと、紙を包み込んで、空中で、ぴたりと止めた。
「……ナイス、泡さん!」
『えへへ』
泡の中で、黄ばんだ紙が、ゆらゆらと、浮かんでいる。
「ケン、あっち!」
ミレイが、叫んだ。
屋根の上で、泥棒が、リヒトの手を、振りほどいていた。
「くそっ、このガキ……!」
泥棒の外套が、びりり、と、裂けた。
リヒトの手に、黒い布の切れ端が、残る。
泥棒は、そのまま、煙突の影に、ひらりと、跳び移った。
「覚えてろ!」
捨て台詞を、残して、黒い影は、夕焼けの町の、向こうへ、消えていった。
* * *
屋根から降りて、路地裏で、僕たちは、泡さんの泡から、紙を受け取った。
「……やっと、取り戻せた」
リヒトが、息を切らしながら、へたりと、座り込んだ。
手には、黒い布の切れ端を、握りしめている。
「リヒトくん、すごかったよ。あんなに、速く走れるなんて」
「……あたりまえだ。俺は、アルディス家の、次男だぞ」
そう言いながら、リヒトの顔は、ちょっと、誇らしそうだった。
ミレイが、紙を、そっと、広げた。
「ケン、見て。これ」
紙は、青い本から、切り取られたページだった。波の文様が、縁に、描かれている。
けれど、文字は、ところどころ、かすれていた。
そして、紙の、半分から下が、ざくりと、破り取られていた。
「半分しか、ないわ」
「さっきの、もみ合いで、破れたのかな」
「いえ」
リヒトが、首を振った。
「もともと、このページは、二枚に、分かれていたんだ。うちの金庫に、あったのは、上の、半分だけ」
「えっ」
「ひいおじいさまは、『下の半分は、別の場所に、隠した』と、日記に、書いていた」
リヒトは、悔しそうに、唇を噛んだ。
「それが、どこなのかは、書いて、なかった」
僕は、紙を、そっと、受け取った。
破れていない、上の半分の文字を、目で追った。
『潮泡草を求める者は、「三つの約束」を、海の民に、示さねばならない。
第一の約束は、「涙を、分かつこと」。
第二の約束は、「記憶を、預けること」。
第三の約束は、――』
そこで、文字が、途切れていた。
「涙を、分かつ……」
僕は、思わず、つぶやいた。
「ルカの、涙」
「記憶を、預ける……」
ミレイが、はっとして、僕を見た。
「ケン、それって」
「うん。朝露草のときの、霧に、預けた記憶」
僕は、胸に、そっと、手を当てた。
「第一と第二は、もう、済ませてる。偶然かもしれないけど」
「偶然じゃ、ないかもしれないわ」
ミレイが、ぽつりと言った。
「あんたの、これまでの旅が、全部、潮泡草への、準備だったのかも」
「……そうかもしれない」
僕は、紙を、見つめた。
最後の、「第三の約束」。
それが、いちばん、大事な部分なのに、破れて、なくなっている。
そのとき、リヒトが、手の中の、黒い布を、じっと見つめて、言った。
「なあ、ケン」
「なに?」
「この布の、模様、見覚えが、ある」
リヒトは、布の端を、僕たちに、見せた。
黒い布の端に、白い糸で、小さな、渦巻きが、刺繍されていた。
「渦巻き……?」
「アルディス家の、取引先に、同じ紋章を、つけた商会が、あるんだ。『黒潮商会』という」
「黒潮商会?」
「海の産物や、珍しい薬草を、扱う、大きな商会だ。表向きは、まっとうな、商売をしている。でも、最近、変な噂が、あって」
リヒトは、声を、潜めた。
「『七つの草』を、集めている、という噂だ」
僕は、ごくりと、唾をのんだ。
ミレイが、ぎゅっと、僕の袖を、つかむ。
「……宰相さまの、残党?」
「わからない。でも、可能性は、ある」
僕は、ガルドの、言葉を、思い出した。
『黒いローブの人に、頼まれた。七つの草を、全部、集めるように』
あのとき、依頼主は、「黒衣の収集家」、つまり、ガルヴィンさんだと思っていた。
でも、本当に、そうだったのだろうか。
宰相さまが、ずっと、ひとりで動いていたなら、これだけ大きな網を、張れただろうか。
(もしかして、宰相さまの、背後に、さらに、誰かが、いた……?)
背筋が、ぞくりと、した。
ふと、泡さんが、僕の肩で、ふるふると、震えた。
『ケン、うみが、よんでる』
「え?」
『ここから、にしに、さんにちの、みちのり。ちいさな、みなと。そこに、とうだいが、ある』
「灯台……」
『ぼく、かんじる。ずっと、ずっと、まってる。うみのたみが』
泡さんの目が、遠くの空を、じっと、見つめていた。
『でも、くろい、うずが、ちかづいてる』
僕は、胸の奥が、きゅっと、冷たくなるのを、感じた。
そのとき、リヒトが、すっと、立ち上がった。
「ケン」
「うん?」
「俺も、行く」
「えっ」
「ひいおじいさまが、犯した、過ちを、正したい。それに」
リヒトは、そっぽを向いた。
「おまえの、お茶、悪くないし。……借りが、できたしな」
「リヒトくん……」
「勘違いするなよ! おまえと、仲良くしたいわけじゃない! アルディス家の、名誉の、ためだ!」
「うん、わかってる」
僕が、にこっと笑うと、リヒトの顔が、真っ赤になった。
ミレイが、横から、ふふん、と、鼻を鳴らした。
「素直じゃないわね、金髪くん」
「うるさい!」
路地裏に、三人と一匹の、笑い声が、響いた。
夕焼けの空は、いつのまにか、深い藍色に、変わりつつあった。
けれど、その藍色の向こうに、僕は、はっきりと、感じていた。
遠い海。そして、ぽつんと立つ、小さな灯台。
僕を、待っている、海の民たち。
その海に、黒い渦が、ゆっくりと、迫っている。
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――第44話へ続く――




