第42話 波の音がする書庫と、泡の番人
黒い扉の前で、波の音は、だんだん大きくなっていった。
ざざあ……ざざあ……
学院長のマルグリット先生が、僕の横で、静かに言った。
「五十年間、この扉は、どんな鍵にも、どんな魔法にも、反応しませんでした。ですが、いまは、あなたを待っています。……手を、当ててみてください」
「僕が、ですか」
「はい」
僕は、ごくりと唾をのんで、そっと、扉に手を伸ばした。
ひんやり、冷たい。けれど、不思議と、嫌な感じは、しなかった。
その瞬間、首から下げた、ミレイの青い石と、ユキの氷の結晶が、ぱあっと、光った。
扉の青い波の文様が、水面のように、ゆらゆらと、揺れはじめる。
ぎい……
重たい音を立てて、扉が、ほんの少しだけ、開いた。
人ひとりが、やっと通れるくらいの、細い隙間。その向こうから、潮の香りが、ふわりと、流れてきた。
「……開きました」
学院長の声が、少し、震えていた。
「私は、ここで、扉を、見ています。この隙間が、閉じないように。……ケン殿、どうか、ひとりで、お進みください」
「わかりました」
僕は、深呼吸をひとつして、細い隙間に、体を滑り込ませた。
* * *
扉の向こうは、信じられない光景だった。
広い、広い、円形の大広間。
天井が、ない。かわりに、頭の上に、青い、巨大な「海」が、広がっていた。
水が、重力に逆らって、天井に張りついている。その中を、小さな銀色の魚の群れが、きらきらと、泳いでいた。
「……すごい」
床は、白い石。壁には、珊瑚のような形をした、不思議な本棚が、ぐるりと並んでいる。本棚には、古い本が、びっしりと、詰まっていた。
空気が、少しだけ、湿っていて、そして、やさしい。
波の音は、この部屋そのものから、聞こえてくるようだった。
「……こんにちは」
僕は、小さな声で、挨拶した。
しばらく、返事は、なかった。
やがて、ぷくぷく、と、小さな泡が、僕の目の前に、浮かび上がった。
泡は、だんだん、集まって、ひとつの、ふわふわした塊に、なった。
透きとおった、水色の、小さなクラゲ。傘の部分には、まんまるの、大きな目がふたつ。
『……やっと、きた』
頭の中に、のんびりした、少年のような声が、響いた。
『ぼく、あわ。ここの、ばんにん。ずうっと、まってた』
「泡さん、はじめまして。僕は、ケンっていいます」
『しってる。げっこうの、くすし。ミズのうわさで、きいた』
泡さんは、ふわふわと、僕のまわりを、ひとまわりした。
『きみは、おちゃを、いれるひと』
「はい。そうです」
『じゃあ、ひとつ、なぞなぞ。これに、こたえられたら、ほんを、みせてあげる』
「なぞなぞ、ですか」
『うん。おちゃは、なにを、はこぶ?』
僕は、少しだけ、考えた。
水。香り。あたたかさ。薬の成分。
どれも、正しい気がする。でも、きっと、それだけじゃない。
僕は、これまでに、淹れたお茶の、ひとつひとつを、思い出した。
リナの熱を下げたお茶。ヴォルフさんが、涙をこぼした夏風茶。ルカが、はじめて口にした、あたたかい杯。
「……誰かの、気持ち、です」
『きもち?』
「はい。お茶を淹れる人の、『元気になってほしい』って気持ちと、飲む人の、『ありがとう』って気持ち。それを、運んでくれるのが、お茶だと、思います」
泡さんの大きな目が、ぱちぱちと、まばたきした。
『…………』
そして、ぷくぷくと、小さな泡が、いくつも、弾けた。
『せいかい』
「えっ」
『ぼく、むかしの、ルナリアの、ひとにも、おなじ、なぞなぞ、だした。そのひとも、おなじこと、こたえた』
泡さんは、嬉しそうに、くるくる回った。
『ああ、やっと、あえた。ずっと、さびしかった』
その声は、ほんの少し、潤んでいた。
* * *
泡さんは、僕を、大広間の、いちばん奥の本棚へ、案内してくれた。
そこには、青い背表紙の、一冊の、古い本が、ぽつんと、置かれていた。
『これ、ルナリアのひとが、のこした、ほん。「しおあわそうのき」』
僕は、そっと、その本を、手に取った。
表紙には、小さく、月の形の紋章。
ページを、めくる。
古い、きれいな文字が、並んでいる。
『潮泡草は、海の底の、小さな灯台に、咲く。
引き潮のいちばん深い夜にだけ、その泡が、ひらく』
『その泡は、海の民との約束によって、守られている。
約束を持つ者だけが、泡を、手にできる』
(海の民……)
ページを、さらにめくる。
挿絵には、波打つ水の中に立つ、細長い灯台と、その根もとに咲く、淡い青の、泡のような花が、描かれていた。
けれど、次のページを開いたとき、僕は、息をのんだ。
ページが、切り取られていた。
きれいに、刃物で、切り落とされた跡。あるはずの、「海の民との約束」の、肝心の部分が、すっぽりと、抜け落ちている。
「泡さん、このページは……」
『……ぼくが、ねてるあいだに、なくなった』
泡さんの声が、しょんぼりと、沈んだ。
『ごじゅうねんまえ。だれかが、このへやに、はいったの。ぼく、ねむくて、きづかなかった』
「五十年前……」
僕は、本の、切り取られた跡を、じっと見つめた。
そして、ふと、思いついて、心の中で、唱えた。
(……雑草鑑定。記憶鑑定)
視界が、ふわりと、揺れた。
古い、書庫の光景が、浮かび上がる。
暗い夜。ひとりの、背の高い男が、こっそりと、扉を開けて、中に入ってくる。
男は、青い本を手に取って、ページを、ぴりり、と、切り取った。
そして、それを、懐にしまって、足早に、去っていく。
その男の胸に、金色の紋章が、きらりと、光った。
見覚えのある紋章だった。
試験会場で、リヒトの胸に、ついていた、あの紋章。
(……アルディス家の、紋章)
景色が、ぐらりと、元に戻った。
「ケンにいちゃん?」
泡さんが、心配そうに、僕をのぞき込む。
「ううん、大丈夫。ありがとう、泡さん」
僕は、本を、大切に、抱えた。
「教えてくれて。この本は、少しの間、借りてもいいかな? 必ず、返しにくるから」
『うん。いいよ。ケンなら、あんしん』
泡さんは、ふわりと、僕の肩に、乗った。
『それと、もうひとつ。ぼく、ケンと、いっしょに、いきたい』
「えっ、一緒に?」
『うみのこと、ぼく、いっぱい、しってる。きっと、やくにたつ。それに』
泡さんは、小さな声で、続けた。
『ひとりで、ずっと、ここに、いるの、さびしかった』
僕は、思わず、笑って、うなずいた。
「うん。一緒に、行こう」
『やったー!』
泡さんは、ぷくぷくと、いくつもの泡を、吹き上げた。
* * *
細い隙間から、廊下に出ると、学院長が、ほっとした顔で、僕を迎えてくれた。
「ケン殿。ご無事で、何より」
「ただいま戻りました、先生」
僕の肩の上で、泡さんが、ふわふわと、揺れている。学院長の目が、まんまるになった。
「その、お方は……」
『こんにちは、まるぐりっと。おおきく、なったね』
「…………!」
学院長の顔が、ぴしりと、固まった。
「な、なぜ、私の、名前を」
『むかし、ここで、あそんだ。ちいさい、おんなのこ。いつも、かみが、ぼさぼさだった』
「ま、まさか……」
学院長は、両手で、口を覆った。
「五十年前……私が、十歳のとき、迷い込んだ、あの書庫の、不思議な光は……」
『そう、ぼく』
学院長の目から、つうっと、涙が、一筋、こぼれた。
「……会いたかった」
それは、いつもの、厳しい先生の顔では、なかった。
僕は、そっと、二人から、目をそらして、廊下の窓の外を、眺めた。
* * *
学院の中庭に出ると、ミレイが、噴水のそばで、ぐるぐると、行ったり来たりしていた。
「ケン! 遅い! 一時間も、待ったのよ!」
「ごめん。ちょっと、いろいろ、あって」
「いろいろって……あ、それ、何?」
ミレイが、僕の肩の、泡さんに、気づいた。
『こんにちは、ミレイ。ぼく、あわ』
「しゃ、しゃべった!? クラゲが!?」
『クラゲ、ちがう。ばんにん』
「ば、番人……?」
ミレイは、目を白黒させた。
僕は、笑いながら、書庫のことを、話した。波の音。泡さん。青い本。そして、切り取られた、ページのこと。
話が、アルディス家のところまで、来たとき、ミレイの顔が、険しくなった。
「アルディス……? あの、金髪の、うるさい子?」
「リヒト、って呼ばれてた」
「あの子の家は、この町で、いちばんの、名家よ。代々、学院に、多額の寄付を、してるの」
ミレイは、腕を組んで、考え込んだ。
「でも、五十年前なら、リヒト本人じゃなくて、その、おじいさんか、ひいおじいさんか」
「うん。でも、何か、知ってるかもしれない」
そのとき、背後から、冷たい声が、かけられた。
「……何を、嗅ぎまわっている」
振り向くと、噴水の向こうに、リヒトが、立っていた。
金色の髪が、風に、揺れている。碧い目が、僕と、泡さんを、鋭く、にらんでいた。
「アルディス家の、名前を、口にしたな」
「リヒトくん……」
「勝手に、うちの家を、詮索するな。田舎者」
リヒトは、一歩、僕に、近づいた。
その手が、腰の短剣に、かかっている。
「それと、その、本」
リヒトの視線が、僕の、抱えた、青い本に、止まった。
「……書庫に、入ったのか」
「…………」
「やはり、扉が、開いたのは、おまえの、せいか」
リヒトの声が、低くなった。
「その本を、渡せ」
ミレイが、僕の前に、飛び出した。
「ちょっと! 何、勝手なこと、言ってるのよ!」
「うるさい、ミレイ。これは、アルディス家の、問題だ」
「どうして、あなたの家の、問題なの!」
リヒトは、一瞬、言葉に、詰まった。
それから、ぎゅっと、唇を、噛んだ。
「……失われた、ページが、うちの、家に、ある」
「えっ」
「ひいおじいさまが、五十年前に、切り取って、持ち帰った。うちの家の、金庫の中に、ずっと、眠っている」
リヒトの目が、一瞬、揺れた。
「そのページを、取り戻しに来たやつが、いたんだ。昨日の、夜。うちに、忍び込んで」
「誰が?」
「わからない。覆面をした、男だった。金庫は、破られて、ページは、持ち去られた」
「……!」
僕は、息を、のんだ。
「つまり、いま、そのページは」
「どこにあるか、わからない」
リヒトは、悔しそうに、拳を、握りしめた。
「だから、おまえを、問い詰めに来たんだ。おまえが、犯人じゃないのか、と」
「僕は、昨日の夜は、馬車の中だったよ」
「……そうか」
リヒトは、ふっと、息を吐いた。
肩の力が、抜けていく。それから、少しだけ、ばつの悪そうな顔になって、そっぽを向いた。
「……疑って、悪かった」
「ううん。大丈夫」
「それに」
リヒトは、視線を、足もとに、落とした。
「俺は、あのページのことを、ずっと、恥ずかしいと、思ってたんだ。ひいおじいさまが、盗んだものだって、知ってたから。いつか、返さなきゃいけないと、思ってた」
「リヒトくん……」
「返す前に、盗まれた。……情けない」
リヒトの、横顔は、年相応の、十二歳の、男の子の顔だった。
僕は、少し、考えてから、言った。
「あのさ、リヒトくん。お茶、飲まない?」
「……は?」
「夏風茶。学院の、試験で、作ったやつ。まだ、少し、余ってるんだ」
僕が、水筒を、差し出すと、リヒトは、じっと、それを、見つめた。
「……毒じゃ、ないだろうな」
「大丈夫。僕が、一杯、先に、飲むよ」
僕は、杯に注いで、こくり、と、ひとくち飲んだ。
それから、もう一杯、注いで、リヒトに、手渡した。
リヒトは、しばらく、迷って、それから、ゆっくりと、口に運んだ。
「…………」
「どう?」
「……うまい」
ぽつりと、こぼれた声は、小さかった。
「悔しいが、本当に、うまい」
「ありがとう」
僕は、にこっと、笑った。
リヒトは、むすっとした顔を、そらしたけれど、杯を、手放そうとは、しなかった。
その横で、ミレイが、ふうん、と、鼻を鳴らした。
「……あんた、素直なところも、あるのね」
「うるさい」
リヒトの耳が、ほんのり、赤かった。
そのとき、泡さんが、僕の肩で、ふるふると、震えた。
『ケン、ケン。にがい、においが、する』
「えっ」
『うみの、においが、しない。かわりに、くろい、あぶらの、においが』
泡さんの、大きな目が、学院の、屋根のほうを、見つめていた。
僕は、ぞくり、として、顔を上げた。
赤い屋根の上に、ひとつの、黒い影が、立っていた。
覆面。黒い外套。そして、その手には、一枚の、黄ばんだ、紙切れが、ひらひらと、風に揺れている。
「……あれは!」
リヒトが、叫んだ。
「あのページだ!」
黒い影は、にやりと、笑ったように、見えた。
そして、夕焼けの空に、ふわりと、跳んで、姿を、消した。
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――第43話へ続く――




