第38話 雪解けの朝と、ミドリ村への帰り道
氷涙の谷に、朝が来た。
昨日まで黒い霜に覆われていた谷底には、小さな水の流れができていた。氷がとけて、細い川になり、きらきらと光りながら、谷の外へ流れていく。
僕は、岩に腰かけたまま、ほとんど眠れなかった目をこすった。
「ケンさん」
ユキが、湯気の立つ杯を、両手で運んできた。
「村の人たちが、お礼にって。雪の民の、薬草茶です」
「ありがとう」
ひとくち飲むと、ほんのり、ミントに似た香りがした。体の奥まで、すうっと、さわやかになる。
谷の入り口では、雪の民の人たちが、焚き火を囲んで、わいわいと盛り上がっていた。目を覚ましたばかりの子どもたちが、はしゃいで雪を投げ合っている。
その中心で、ルカが、小さな女の子と、雪だるまを作っていた。
「ルカくん、頭、おおきすぎ!」
「だって、おっきいほうが、かわいいもん!」
その笑い声を聞いて、僕は、胸の奥が、じんわりと、温かくなった。
昨日、あんなに泣いていた子が、笑っている。
『薬師よ』
背後から、低い声がした。
振り返ると、白い狼が、ゆっくりと歩いてきた。昨日より、ずっと、毛並みに艶がある。
『礼を、言わねばならぬ』
「いえ、僕は」
『謙遜は、無用だ。……これを、受け取れ』
狼が、鼻先で、何かを、そっと押し出した。
雪の上に、小さな、青い花びらが、一枚、落ちていた。
淡く光る、透きとおった花びら。触れると、ひんやり冷たいのに、不思議と、胸があたたかくなる。
『氷涙草の、花びらだ。昨夜、谷で、百年ぶりに、花が咲いた』
「えっ、じゃあ」
『ああ。おまえの、涙と、茶のおかげだ。これで、四つ目の草が、おまえの手に、渡った』
僕は、両手で、花びらを、そっと受け取った。
月光草、星影草、朝露草、そして、氷涙草。
七つのうち、四つ。
「これで、ガルヴィンさんの、病も」
『まだだ』
狼は、静かに、首を振った。
『星蝕病を治すには、七つ、すべてが、必要だ。ただし、四つで、進行を、遅らせることは、できる』
「遅らせる……」
『彼は、ひとまず、持ちこたえるだろう。急ぐな、薬師よ。……だが、忘れるな』
金色の瞳が、僕を、まっすぐ、見つめた。
『残る三つは、「ルナリアの血を引く者」が、いなければ、受け取れぬ。……セレナを、頼ったほうがよい』
僕は、はっとした。
「セレナさんが、一緒に、来てくれる、ということですか」
『彼女が、望めば、だがな』
狼は、ふっと、目を細めた。
『おまえたちは、よい仲間だ』
* * *
出発の準備は、昼までに、整った。
雪の民の村人たちが、総出で、見送ってくれた。
「ケンさん、ありがとう!」
「また、遊びに来てね!」
小さな子どもたちが、僕の外套の裾を、引っぱる。
ユキが、涙をためながら、深々と、頭を下げた。
「ケンさん、本当に、ありがとうございました。私、この恩は、一生、忘れません」
「大げさだよ。また、会えるでしょ」
「はい。……必ず」
ユキは、ふと、首にかけていた、小さな氷の結晶のペンダントを、外して、僕に差し出した。
「これは、巫女見習いの、証です。私が、北にいる限り、これを通じて、ケンさんの助けになれます」
「いいの?」
「はい。守り手さまも、了承してくださいました」
僕は、ペンダントを、受け取った。ミレイの青い石の、隣に、そっと下げる。
「ありがとう、ユキ。大事にするよ」
その様子を、少し離れたところから、セレナさんが、見ていた。
ルカの手を、ぎゅっと握って、顔色は、昨日よりも、ずっと、よくなっている。
「ケンさん。私たちも、行きます」
「本当に、いいんですか?」
「ええ。三十年も、会えなかった、父に」
セレナさんは、小さく、微笑んだ。けれど、その指先は、少し、震えていた。
「怖くないと言えば、嘘になります。父が、私を、娘だと、受け入れてくれるのか。母が、黙っていたことを、許してくれるのか」
「…………」
「でも、会わなければ、何も、始まりませんから」
「大丈夫です」
僕は、はっきり、言った。
「ヴォルフさんは、毎晩、エレナさんの話を、してくれます。エレナさんの、花のこと、笑い方のこと。きっと、セレナさんにも、すぐ、会いたいはずです」
セレナさんの目が、潤んだ。
「……ありがとう」
ルカが、不安そうに、母さんの手を、引っぱった。
「おかあさん、おじいちゃんって、こわい人?」
「ううん。とっても、優しい人よ」
「ほんとう?」
「ええ。きっと、ルカの頭を、撫でてくれるわ」
ルカは、少し、考えてから、こくりと、うなずいた。
「……ぼく、がんばって、いい子にする」
「いい子にならなくても、いいんだよ」
僕は、ルカの頭を、くしゃりと、撫でた。
「ルカは、もう、十分、いい子だから」
ルカは、はにかんで、小さく、笑った。
* * *
北の国境に着くと、白鹿さまが、待っていてくれた。
『戻ったか、人の子よ』
「はい。ただいま戻りました、白鹿さま」
『……おや。客人が、増えたようだな』
白鹿さまは、セレナさんとルカを、じっと見つめて、小さく、ほほえんだ。
『ルナリアの血か。……懐かしい』
「白鹿さまを、ご存じなのですか?」
セレナさんが、目を丸くする。
『百年前、この森で、茶を振る舞ってくれた、人の子がいた。その者は、ルナリアの名を、名乗っていた』
「それは、きっと、私の曾祖母です」
『そうか。……血は、受け継がれていたのだな』
白鹿さまは、優しく、目を細めた。
『乗りなさい。ミドリ村まで、送ろう』
僕たちは、白鹿さまの背に、乗った。
ルカは、初めて見る白鹿さまの大きさに、目をまんまるにして、僕の外套に、ぎゅっとしがみついていた。
「ケンにいちゃん、おおきい!」
「うん。でも、すごく、優しいんだよ」
「……ほんとだ。ふかふか」
星影草の道を、駆け抜ける。
森の木々が、光の線になって、流れていく。
その途中、ふと、僕は、ポケットの中の、手紙のことを、思い出した。
ミレイに、毎日、手紙を書く、約束だ。
僕は、鞄から、小さな紙と、ペンを取り出して、揺れる背中の上で、そっと、書き始めた。
『ミレイへ
氷の谷での、旅は、終わったよ。ルカという男の子と、お母さんが、再会できた。僕のお茶が、少しだけ、役に立った。
それと、びっくりしないで、聞いてほしい。
ルカのお母さんの名前は、セレナ。ヴォルフさんの娘で、ミレイの、いとこ、だった。
今、ミドリ村に、向かってる。ミレイにも、会わせたいな。学院の休みが、取れたら、すぐ、帰ってきて。
それと、ミレイの石と、ノート、とっても助けられたよ。ありがとう。
ケンより』
読み返して、僕は、ふっと、笑った。
(ミレイ、きっと、びっくりして、ひっくり返るだろうな)
手紙を折りたたんで、鞄にしまう。ギンが、ひょこっと顔を出して、僕の肩に飛び乗った。
『ケン、てがみ、わたし、とどける!』
「ギンが?」
『ぼく、はやいよ! まかせて!』
「ありがとう。お願いするね」
僕は、手紙を、ギンの首の、小さな布袋に、そっと入れた。
ギンは、うれしそうに、尻尾を振って、風のように、森の中へ駆けていった。
* * *
夕方、ミドリ村が、見えてきた。
橋のたもとに、真新しい、木の看板が、立っていた。
『ケン坊橋』
「……本当に、書いたんだ」
僕は、思わず、がっくりと、肩を落とした。
橋の向こうから、ゴードンじいさんの、元気な声が、響いてきた。
「ケン坊ー! おかえりー!」
じいさんは、腕をぶんぶん振って、橋の上を、小走りに、駆けてきた。
「よく、帰ってきたなあ! 北は、どうだった? 寒かったか? おや、そちらのお二人は」
「ゴードンさん、ただいま。こちらは、セレナさんと、ルカくん。ヴォルフさんの、娘さんと、孫です」
「…………へ?」
じいさんの足が、ぴたりと止まった。
「ヴォルフの、娘……? 孫……?」
「はい。話すと、長くなるんですけど」
「……ちょっと、待て。わしは、腰が」
じいさんは、その場に、ぺたんと、座り込んだ。
「どういうことだ、ケン坊ー!」
僕は、苦笑いを、浮かべた。
その後ろで、ルカが、こそこそと、セレナさんの後ろに、隠れていた。
「だいじょうぶ、ルカ。この人は、怖くないわ」
「……うん」
* * *
薬屋の前に着いたとき、日は、ほとんど沈みかけていた。
橙色の空に、二つの青い月が、浮かび始めている。
「ばあちゃん! ただいま!」
僕が、戸を開けると、店の中から、ハンナさんが、ゆっくりと、顔を出した。
「おや、帰ったね、ケン。ずいぶんと、早かったじゃ」
言いかけたハンナさんの、言葉が、ぷつりと、途切れた。
視線が、僕の後ろに、立つ人に、釘付けになっている。
「…………エレナ?」
ハンナさんの手から、持っていた薬瓶が、ごとん、と、床に落ちた。
「ばあちゃん?」
「……違う。違うね。年が、合わない。けれど、その目。その、髪の、揺れ方。……あんたは」
「はじめまして」
セレナさんは、深く、頭を下げた。
「セレナ、と申します。エレナ・ルナリアの、娘です」
ハンナさんは、声も出せずに、ただ、口を、ぱくぱくさせていた。
「エレナの、娘? あの子には、子どもなんて」
「母は、私を産んですぐ、病に倒れました。そして、私を、雪の民に、預けました。……この刺繍を、残して」
セレナさんは、僕の鞄の内側の、小さな「E」を、指でなぞった。
ハンナさんの目から、ぼろり、と、涙が、こぼれた。
「ああ……ああ、あの、子は」
震える足で、ハンナさんは、セレナさんに、駆け寄った。そして、その肩を、ぎゅっと、抱きしめた。
「エレナ。エレナの、においが、する。あの子の、花の、においが」
「……叔母さま」
「馬鹿だよ、あの子は。本当に、馬鹿だよ。ひとりで、全部、抱え込んで」
ハンナさんは、声をあげて、泣いた。
セレナさんも、その背中に、腕を回して、静かに、涙を、こぼした。
その様子を、僕は、ルカと並んで、じっと、見守っていた。
ルカが、小さな声で、聞いた。
「ケンにいちゃん。あのおばあちゃん、だれ?」
「ルカの、おばあちゃんの、お姉さんだよ」
「……じゃあ、ぼくの、ひいおばさん?」
「うーん、そうなるかな」
「ひいおばさん……」
ルカは、にこっと、笑った。
その、ときだった。
店の奥で、がたん、と、大きな音がした。
振り返ると、ヴォルフさんが、薬草の籠を抱えたまま、戸口に、立ち尽くしていた。
籠が、手から、すべり落ちる。
乾燥した薬草が、床に、ぱらぱらと、散らばった。
「……エレナ」
かすれた声が、漏れた。
「いや、違う。違うんだ。……だが、あの、目は」
セレナさんが、ゆっくりと、振り返った。
二人の、視線が、ぶつかる。
沈黙が、薬屋を、満たした。
やがて、セレナさんが、小さな声で、言った。
「……お父さん」
その一言で、ヴォルフさんの、膝から、力が、抜けた。
「お父、さん……?」
「はい。あなたの、娘の、セレナです」
「……あ、あ」
ヴォルフさんは、床に、膝をついた。
震える両手で、顔を覆う。肩が、大きく、揺れた。
「エレナ……君は、そんなことを、一言も……」
声が、嗚咽に変わった。
セレナさんは、ヴォルフさんの、目の前に、しゃがんで、そっと、その手を、握った。
「母は、最期まで、あなたを、愛していました。この手紙が、その、証です」
セレナさんは、胸元から、古い、黄ばんだ封筒を、取り出した。
表には、細い、きれいな字で、こう書かれていた。
『ヴォルフと、ガルヴィンが、ふたり揃ったときに、開けて』
ヴォルフさんが、息を、のんだ。
「……ガルヴィン、と」
「はい。母は、ふたりの、関係を、最期まで、信じていたんです」
その瞬間、薬屋の戸口で、かたり、と、小さな、音がした。
振り返ると、そこに、灰色の上着を着た、背の高い男の人が、立っていた。
元宰相の、ガルヴィンさん。
手に、水の入った桶を持ったまま、凍りついたように、動けないでいる。
「……エレナの、手紙、だと?」
薬屋の中に、冷たい、夕風が、吹き込んだ。
ヴォルフさんと、ガルヴィンさん。
三十年ぶりに、ひとつの部屋に、揃った、ふたりの視線が、静かに、封筒の上で、交わった。
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――第39話へ続く――




