第37話 氷の中の母さんと、刺繍の「E」
ルカは、僕の外套にくるまって、すうすうと眠っていた。
谷の奥の氷の壁には、まだ、黒髪の女の人が、静かに閉じ込められている。
『薬師よ』
白い狼が、ゆっくりと体を起こして、僕のそばに歩いてきた。まだ足もとはふらついているけれど、さっきまでの、黒い霜は、ほとんど消えていた。
『あの女は、セレナ。ルナリア家の、最後の継承者だ』
「継承者……」
『七つの草は、ただ集めれば、願いが叶う、というものではない。それぞれの草を守る、古い儀式がある。血を引く者が、七つの草に、「選ばれる」ための儀式だ』
「それが、継承の儀、ですか」
『そうだ。セレナは、半年前、この谷に来た。氷涙草の儀式を、受けるために』
狼は、氷の壁を見上げた。
『儀式の途中で、ルカが、谷に迷い込んだ。母を探して、ひとりで。……母が、氷の中にいるのを見て、ルカは、母が死んだと、思ってしまった』
「その悲しみが、凍りついた涙に」
『ああ。悲しみは、氷涙草の力と、反応する。氷涙草は、「涙」を糧にする草だからな。ルカの涙が、止まらなくなり、谷じゅうに、広がった』
僕は、眠っているルカを、そっと見た。
あどけない寝顔。まだ、頬に、涙の跡が残っている。
「どうすれば、セレナさんを、目覚めさせられますか」
『儀式を、完了させるのだ』
狼の金色の瞳が、僕をまっすぐ見つめた。
『氷涙草の「最後の一株」を、セレナのもとへ。そして、ルカの心が、穏やかである状態で、「谷の涙」を、飲ませる。……これが、目覚めの条件だ』
「ルカの心が、穏やか……」
さっきまでの、ルカの泣き声が、耳に残っていた。
ほんの少し、悲しみを、ほどけただけだ。ルカは、まだ、母さんが死んだと、思っている。
「ルカに、本当のことを、話さないと」
『そうだな。だが、慎重にな』
狼は、小さく鼻を鳴らした。
『あの子は、一度、母を失ったと、信じ込んでいる。「実は生きていた」と告げても、すぐには、信じられまい。むしろ、その希望が、再び、折れたとき、悲しみは、もっと深く、凍りつく』
「…………」
『薬師よ。おまえが、一番、うまくやれる方法を、探せ』
僕は、うなずいた。
* * *
ルカが目を覚ましたのは、それから、一刻ほど後だった。
「……ん」
「おはよう、ルカ」
「……ケンにいちゃん」
ルカは、目をこすりながら、僕の外套のなかで、体を起こした。
「ここ、ちょっと、あったかい」
「うん。谷の氷が、少し、溶けたからね」
ルカは、ぼんやりと、周りを見回した。黒い霜が、ほとんど消えて、白い、きれいな雪が、残っている。
「ぼくが、やったの?」
「ルカが、頑張って、泣いたからだよ」
「ぼく、ないただけだよ」
「泣くのは、すごく、大事なことなんだ」
僕は、少し笑って、ルカの頭を撫でた。
「ねえ、ルカ。ひとつ、お願いがあるんだ」
「なに?」
「お母さんに、会いに、行こう」
ルカの体が、ぴくりと、固まった。
「……おかあさんは、しんじゃったよ」
「うん。ルカは、そう思ってる。でも、もう一回だけ、近くで、見てみない?」
「…………」
ルカは、しばらく、うつむいていた。
やがて、小さく、こくりと、うなずいた。
僕は、ルカの手を、そっと握って、氷の壁の前まで、歩いた。
氷の壁は、さっきよりも、少し透きとおって見えた。セレナさんの顔が、はっきりと、見える。痩せているけれど、穏やかな、眠るような表情。
「おかあさん……」
ルカが、氷に、そっと、手を当てた。
その手のひらから、あたたかい涙が、ぽとりと、氷の上に落ちた。
ぱきん。
氷の壁に、細い、ひびが入った。
「えっ」
ルカが、驚いて、手を引っ込める。
ぱきん、ぱきん、ぱきん。
ひびが、氷全体に、広がっていく。
『……来たか』
白い狼が、静かに、つぶやいた。
『ルカの涙が、「谷の涙」になった。薬師よ、箱を』
僕は、慌てて、氷の箱を取り出した。
箱を開けると、青白い、枯れかけた氷涙草が、そこにあった。
ほとんど、色を失っている。葉は、しおれて、茎は、かろうじて立っている。
「お願い、間に合って」
僕は、その草を、そっと、ひび割れた氷の前に、置いた。
そして、ルカの涙のしずくを、杯に集めて、草の根もとに、注いだ。
その瞬間。
ぱあっ、と、青い光が、谷じゅうに、広がった。
枯れかけていた草が、みるみる、色を取り戻していく。しおれた葉が、ぴんと立ち上がり、茎が、すうっと伸びて、先端に、ひとつ、小さな蕾が、現れた。
氷の壁が、ばきん、と、音を立てて、割れた。
氷の破片が、きらきらと、空に舞い上がる。
その中心で、女の人が、ゆっくりと、体を傾けた。
「危ない!」
僕は、慌てて、駆け寄って、その体を、受け止めた。
驚くほど、軽かった。
長い、黒髪。冷たい、けれど、かすかに、あたたかさの残る体。
まつげが、ぴくり、と、震えた。
ゆっくりと、まぶたが、開く。
深い、夜のような、黒い瞳が、僕を、見上げた。
「…………あなたは」
かすれた声だった。
「僕は、ケンといいます。薬屋の、弟子です」
「ここは……」
「氷涙の谷です。あなたは、半年間、氷の中で、眠っていました」
女の人は、ぼんやりと、周りを見回して、それから、ふと、目を見開いた。
「ルカ……! ルカは!?」
「おかあさん!!」
ルカが、僕の後ろから、飛び出した。
「おかあさん! おかあさん!」
「ルカ……!」
セレナさんは、震える腕で、ルカを、力いっぱい、抱きしめた。
「ごめんね、ごめんね、ルカ。ひとりに、しちゃって」
「おかあさん、しんじゃったかと、おもった!」
「死んでないわ。ずっと、ここにいたのよ」
「うわあああん!」
ルカは、セレナさんの胸に、顔をうずめて、声をあげて、泣いた。
けれど、その涙は、もう、黒い霜には、ならなかった。
足もとの雪に、ぽたぽたと、落ちて、小さな、透明な雫になって、溶けていく。
谷じゅうの氷が、少しずつ、水に変わって、きらきらと、光りはじめた。
遠くで、ユキの、泣き声が、聞こえた。
谷の入り口で、待っていたのだろう。銀牙さんが、ユキの肩を、静かに、支えている。
白い狼は、そっと、目を閉じた。
『……ありがとう。薬師よ』
僕は、胸の奥が、じんわりと、あたたかくなった。
* * *
谷の入り口の壁は、いつのまにか、消えていた。
ユキが、泣きながら、僕に飛びついた。
「ケンさん……! 守り手さまも、セレナ様も、ルカくんも……!」
「うん。みんな、無事だよ」
「村の人たちも、目を、覚ましました! さっき、遠くで、煙突から、煙が」
「本当に?」
「はい! みんな、起きてます!」
ユキは、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、笑った。
雪の民の人たちが、次々と、谷に駆けつけてきた。みんな、驚いて、喜んで、セレナさんとルカを、囲んでいる。
僕は、少し離れた場所で、その光景を、静かに、見守っていた。
銀牙さんが、そっと、隣に立った。
「……見事だった」
「いえ、みんなのおかげです」
「ケン殿は、少し、謙虚すぎる」
「そうですか?」
「ああ。……だが、悪くない」
銀牙さんの耳が、ぴくぴくと、揺れていた。
ふと、背後から、声が、かけられた。
「ケンさん」
振り返ると、セレナさんが、ルカの手を引いて、立っていた。
顔色は、まだ、少し青いけれど、背筋は、まっすぐだ。
「改めて、お礼を、言わせてください。息子を、助けてくださって、ありがとうございました」
「いえ、僕は、ただ、お茶を淹れただけで」
「いいえ」
セレナさんは、首を横に振った。
「あなたは、ルカの悲しみを、受け止めてくれた。誰にも、できなかったことです」
その言葉が、胸に、じんと染みた。
「それに」
セレナさんの目が、ふと、僕の鞄に向いた。
ハンナさんからもらった、古い革の鞄。
その内側から、わずかに、はみ出ていた、刺繍。
「…………その、鞄」
「え?」
「少し、見せていただけますか」
僕は、不思議に思いながら、鞄を、差し出した。
セレナさんは、震える指で、鞄の内側の、小さな刺繍に、触れた。
『H & E』
「…………」
息が、止まった、気がした。
セレナさんの目から、ぽろり、と、涙が、こぼれた。
「この縫い方……」
「セレナさん?」
「この、糸の、通し方。左に少し、傾く、癖。……間違いない」
セレナさんは、顔を上げた。
「これは、私の母が、縫ったものです」
「…………え?」
「母の、名前は、エレナ。エレナ・ルナリア」
僕は、頭が、真っ白になった。
エレナさん。
ヴォルフさんの、奥さん。ハンナさんの、妹。
三十年前、毒に倒れて、亡くなった、あの人。
「でも……エレナさんには、子どもは」
「いませんでしたか?」
セレナさんは、静かに、微笑んだ。
「母は、私を産んですぐ、病に倒れました。父には、告げませんでした。……父が、母の病のために、毎晩、研究に没頭していたのを、知っていたから」
「…………」
「母は、私を、北の雪の民に、託しました。『この子を、ルナリアの血を、守って』と。それから、母は、ひとり、王都に戻って、そのまま」
セレナさんの声が、震えた。
「……私は、母の顔を、覚えていません。ただ、この刺繍だけが、残されたものでした。小さな産着の、内側に」
鞄の、小さな「E」。
ハンナさんと、エレナさんが、仲の良かった頃に、お揃いで縫った、あの刺繍。
その、残りの半分が。
「ケンさん」
セレナさんは、まっすぐ、僕を見つめた。
「この鞄を、どこで、手に入れましたか。……母の、姉に、会いましたか」
「……はい。ハンナさんは、僕の、師匠です」
セレナさんの、黒い瞳が、潤んだ。
「そして」
唇が、小さく、震えた。
「ヴォルフ・グレイは。……私の父は、まだ、生きていますか?」
谷に、冷たい風が、吹き抜けた。
僕は、息を、のんだ。
足もとで、ルカが、不思議そうに、僕たちの顔を、見上げていた。
その胸元の、月の形のペンダントが、きらり、と、光った。
ヴォルフさんの、孫。
ハンナさんの、姪の子。
そして、ミレイの、いとこの、子どもたち。
すべての糸が、ひとつに、結ばれた。
僕は、ゆっくりと、うなずいた。
「……はい。生きています。ミドリ村で、あなたの、叔母さんと、一緒に」
セレナさんの目から、ぽろぽろと、涙が、あふれた。
ルカが、小さな声で、首をかしげた。
「おかあさん、ミドリむらって、どこ?」
「……ルカ」
セレナさんは、ルカを、そっと、抱き上げた。
「おじいちゃんが、いるのよ」
氷の谷に、真っ白な、朝の光が、差し込んでいた。
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――第38話へ続く――




