↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/85

第37話 氷の中の母さんと、刺繍の「E」

ルカは、僕の外套にくるまって、すうすうと眠っていた。

谷の奥の氷の壁には、まだ、黒髪の女の人が、静かに閉じ込められている。

『薬師よ』

白い狼が、ゆっくりと体を起こして、僕のそばに歩いてきた。まだ足もとはふらついているけれど、さっきまでの、黒い霜は、ほとんど消えていた。

『あの女は、セレナ。ルナリア家の、最後の継承者だ』

「継承者……」

『七つの草は、ただ集めれば、願いが叶う、というものではない。それぞれの草を守る、古い儀式がある。血を引く者が、七つの草に、「選ばれる」ための儀式だ』

「それが、継承の儀、ですか」

『そうだ。セレナは、半年前、この谷に来た。氷涙草の儀式を、受けるために』

狼は、氷の壁を見上げた。

『儀式の途中で、ルカが、谷に迷い込んだ。母を探して、ひとりで。……母が、氷の中にいるのを見て、ルカは、母が死んだと、思ってしまった』

「その悲しみが、凍りついた涙に」

『ああ。悲しみは、氷涙草の力と、反応する。氷涙草は、「涙」を糧にする草だからな。ルカの涙が、止まらなくなり、谷じゅうに、広がった』

僕は、眠っているルカを、そっと見た。

あどけない寝顔。まだ、頬に、涙の跡が残っている。

「どうすれば、セレナさんを、目覚めさせられますか」

『儀式を、完了させるのだ』

狼の金色の瞳が、僕をまっすぐ見つめた。

『氷涙草の「最後の一株」を、セレナのもとへ。そして、ルカの心が、穏やかである状態で、「谷の涙」を、飲ませる。……これが、目覚めの条件だ』

「ルカの心が、穏やか……」

さっきまでの、ルカの泣き声が、耳に残っていた。

ほんの少し、悲しみを、ほどけただけだ。ルカは、まだ、母さんが死んだと、思っている。

「ルカに、本当のことを、話さないと」

『そうだな。だが、慎重にな』

狼は、小さく鼻を鳴らした。

『あの子は、一度、母を失ったと、信じ込んでいる。「実は生きていた」と告げても、すぐには、信じられまい。むしろ、その希望が、再び、折れたとき、悲しみは、もっと深く、凍りつく』

「…………」

『薬師よ。おまえが、一番、うまくやれる方法を、探せ』

僕は、うなずいた。

* * *

ルカが目を覚ましたのは、それから、一刻ほど後だった。

「……ん」

「おはよう、ルカ」

「……ケンにいちゃん」

ルカは、目をこすりながら、僕の外套のなかで、体を起こした。

「ここ、ちょっと、あったかい」

「うん。谷の氷が、少し、溶けたからね」

ルカは、ぼんやりと、周りを見回した。黒い霜が、ほとんど消えて、白い、きれいな雪が、残っている。

「ぼくが、やったの?」

「ルカが、頑張って、泣いたからだよ」

「ぼく、ないただけだよ」

「泣くのは、すごく、大事なことなんだ」

僕は、少し笑って、ルカの頭を撫でた。

「ねえ、ルカ。ひとつ、お願いがあるんだ」

「なに?」

「お母さんに、会いに、行こう」

ルカの体が、ぴくりと、固まった。

「……おかあさんは、しんじゃったよ」

「うん。ルカは、そう思ってる。でも、もう一回だけ、近くで、見てみない?」

「…………」

ルカは、しばらく、うつむいていた。

やがて、小さく、こくりと、うなずいた。

僕は、ルカの手を、そっと握って、氷の壁の前まで、歩いた。

氷の壁は、さっきよりも、少し透きとおって見えた。セレナさんの顔が、はっきりと、見える。痩せているけれど、穏やかな、眠るような表情。

「おかあさん……」

ルカが、氷に、そっと、手を当てた。

その手のひらから、あたたかい涙が、ぽとりと、氷の上に落ちた。

ぱきん。

氷の壁に、細い、ひびが入った。

「えっ」

ルカが、驚いて、手を引っ込める。

ぱきん、ぱきん、ぱきん。

ひびが、氷全体に、広がっていく。

『……来たか』

白い狼が、静かに、つぶやいた。

『ルカの涙が、「谷の涙」になった。薬師よ、箱を』

僕は、慌てて、氷の箱を取り出した。

箱を開けると、青白い、枯れかけた氷涙草が、そこにあった。

ほとんど、色を失っている。葉は、しおれて、茎は、かろうじて立っている。

「お願い、間に合って」

僕は、その草を、そっと、ひび割れた氷の前に、置いた。

そして、ルカの涙のしずくを、杯に集めて、草の根もとに、注いだ。

その瞬間。

ぱあっ、と、青い光が、谷じゅうに、広がった。

枯れかけていた草が、みるみる、色を取り戻していく。しおれた葉が、ぴんと立ち上がり、茎が、すうっと伸びて、先端に、ひとつ、小さな蕾が、現れた。

氷の壁が、ばきん、と、音を立てて、割れた。

氷の破片が、きらきらと、空に舞い上がる。

その中心で、女の人が、ゆっくりと、体を傾けた。

「危ない!」

僕は、慌てて、駆け寄って、その体を、受け止めた。

驚くほど、軽かった。

長い、黒髪。冷たい、けれど、かすかに、あたたかさの残る体。

まつげが、ぴくり、と、震えた。

ゆっくりと、まぶたが、開く。

深い、夜のような、黒い瞳が、僕を、見上げた。

「…………あなたは」

かすれた声だった。

「僕は、ケンといいます。薬屋の、弟子です」

「ここは……」

「氷涙の谷です。あなたは、半年間、氷の中で、眠っていました」

女の人は、ぼんやりと、周りを見回して、それから、ふと、目を見開いた。

「ルカ……! ルカは!?」

「おかあさん!!」

ルカが、僕の後ろから、飛び出した。

「おかあさん! おかあさん!」

「ルカ……!」

セレナさんは、震える腕で、ルカを、力いっぱい、抱きしめた。

「ごめんね、ごめんね、ルカ。ひとりに、しちゃって」

「おかあさん、しんじゃったかと、おもった!」

「死んでないわ。ずっと、ここにいたのよ」

「うわあああん!」

ルカは、セレナさんの胸に、顔をうずめて、声をあげて、泣いた。

けれど、その涙は、もう、黒い霜には、ならなかった。

足もとの雪に、ぽたぽたと、落ちて、小さな、透明な雫になって、溶けていく。

谷じゅうの氷が、少しずつ、水に変わって、きらきらと、光りはじめた。

遠くで、ユキの、泣き声が、聞こえた。

谷の入り口で、待っていたのだろう。銀牙さんが、ユキの肩を、静かに、支えている。

白い狼は、そっと、目を閉じた。

『……ありがとう。薬師よ』

僕は、胸の奥が、じんわりと、あたたかくなった。

* * *

谷の入り口の壁は、いつのまにか、消えていた。

ユキが、泣きながら、僕に飛びついた。

「ケンさん……! 守り手さまも、セレナ様も、ルカくんも……!」

「うん。みんな、無事だよ」

「村の人たちも、目を、覚ましました! さっき、遠くで、煙突から、煙が」

「本当に?」

「はい! みんな、起きてます!」

ユキは、涙で顔をぐしゃぐしゃにして、笑った。

雪の民の人たちが、次々と、谷に駆けつけてきた。みんな、驚いて、喜んで、セレナさんとルカを、囲んでいる。

僕は、少し離れた場所で、その光景を、静かに、見守っていた。

銀牙さんが、そっと、隣に立った。

「……見事だった」

「いえ、みんなのおかげです」

「ケン殿は、少し、謙虚すぎる」

「そうですか?」

「ああ。……だが、悪くない」

銀牙さんの耳が、ぴくぴくと、揺れていた。

ふと、背後から、声が、かけられた。

「ケンさん」

振り返ると、セレナさんが、ルカの手を引いて、立っていた。

顔色は、まだ、少し青いけれど、背筋は、まっすぐだ。

「改めて、お礼を、言わせてください。息子を、助けてくださって、ありがとうございました」

「いえ、僕は、ただ、お茶を淹れただけで」

「いいえ」

セレナさんは、首を横に振った。

「あなたは、ルカの悲しみを、受け止めてくれた。誰にも、できなかったことです」

その言葉が、胸に、じんと染みた。

「それに」

セレナさんの目が、ふと、僕の鞄に向いた。

ハンナさんからもらった、古い革の鞄。

その内側から、わずかに、はみ出ていた、刺繍。

「…………その、鞄」

「え?」

「少し、見せていただけますか」

僕は、不思議に思いながら、鞄を、差し出した。

セレナさんは、震える指で、鞄の内側の、小さな刺繍に、触れた。

『H & E』

「…………」

息が、止まった、気がした。

セレナさんの目から、ぽろり、と、涙が、こぼれた。

「この縫い方……」

「セレナさん?」

「この、糸の、通し方。左に少し、傾く、癖。……間違いない」

セレナさんは、顔を上げた。

「これは、私の母が、縫ったものです」

「…………え?」

「母の、名前は、エレナ。エレナ・ルナリア」

僕は、頭が、真っ白になった。

エレナさん。

ヴォルフさんの、奥さん。ハンナさんの、妹。

三十年前、毒に倒れて、亡くなった、あの人。

「でも……エレナさんには、子どもは」

「いませんでしたか?」

セレナさんは、静かに、微笑んだ。

「母は、私を産んですぐ、病に倒れました。父には、告げませんでした。……父が、母の病のために、毎晩、研究に没頭していたのを、知っていたから」

「…………」

「母は、私を、北の雪の民に、託しました。『この子を、ルナリアの血を、守って』と。それから、母は、ひとり、王都に戻って、そのまま」

セレナさんの声が、震えた。

「……私は、母の顔を、覚えていません。ただ、この刺繍だけが、残されたものでした。小さな産着の、内側に」

鞄の、小さな「E」。

ハンナさんと、エレナさんが、仲の良かった頃に、お揃いで縫った、あの刺繍。

その、残りの半分が。

「ケンさん」

セレナさんは、まっすぐ、僕を見つめた。

「この鞄を、どこで、手に入れましたか。……母の、姉に、会いましたか」

「……はい。ハンナさんは、僕の、師匠です」

セレナさんの、黒い瞳が、潤んだ。

「そして」

唇が、小さく、震えた。

「ヴォルフ・グレイは。……私の父は、まだ、生きていますか?」

谷に、冷たい風が、吹き抜けた。

僕は、息を、のんだ。

足もとで、ルカが、不思議そうに、僕たちの顔を、見上げていた。

その胸元の、月の形のペンダントが、きらり、と、光った。

ヴォルフさんの、孫。

ハンナさんの、姪の子。

そして、ミレイの、いとこの、子どもたち。

すべての糸が、ひとつに、結ばれた。

僕は、ゆっくりと、うなずいた。

「……はい。生きています。ミドリ村で、あなたの、叔母さんと、一緒に」

セレナさんの目から、ぽろぽろと、涙が、あふれた。

ルカが、小さな声で、首をかしげた。

「おかあさん、ミドリむらって、どこ?」

「……ルカ」

セレナさんは、ルカを、そっと、抱き上げた。

「おじいちゃんが、いるのよ」

氷の谷に、真っ白な、朝の光が、差し込んでいた。

続きが気になる方は、ブックマークと評価をお願いします。

――第38話へ続く――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。